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第80話 食卓の告白と、世界からの返信

 リリアの瞳からこぼれ落ちた一粒の涙は、まるで静寂の湖に投じられた小石だった。その小さな波紋は、その場にいた全員の心に、ゆっくりと、しかし確かに広がっていく。  彼女の手から、食べかけのスコーンがことりと音を立てて皿に落ちた。その音だけが、やけに大きく庭に響いた。


「…なっ…!?」  最初に反応したのは、やはりザラキアスだった。彼は、目の前で起こった現象が信じられないとでも言うように、リリアとスコーンを交互に見つめて叫んだ。 「聖女の心を溶かし、涙を流させるとは…! 我が君! これはもはや菓子ではない! 神話級のアーティファクトだ!」 「うむ。もう一つ、食うか?」  ゴウガが、真顔で皿をザラキアスに差し出す。そのあまりにも場違いなやり取りが、逆に張り詰めた空気を際立たせていた。


 リリアは、そんな彼らの声も聞こえていないかのように、ただ俯いていた。肩が、小さく震えている。 「…どうして…」  絞り出すような声が、夜の静寂に溶ける。 「どうして、こんな…普通の味がするのよ…っ」


 嗚咽が漏れ始める。それは、聖女の悲痛な叫びではなく、ただの娘が、母の味を前にして抑えきれなくなった、子供のような泣き声だった。 「母様は、魔王なんでしょ…!? 世界を闇に染める、災厄なんでしょ…!? だったら、もっと…もっと、邪悪な味がすればいいじゃない! なのに、どうして…っ、昔と、同じなの…っ!」


 堰を切ったように、感情が溢れ出す。リリアは顔を覆い、その場に崩れ落ちそうになった。  俺は、咄嗟に立ち上がろうとする。だが、それを静かに制したのは、隣のエレノアだった。彼女はゆっくりと席を立つと、泣きじゃくる娘の前に、静かに膝をついた。


「ええ、そうよ」  エレノアの声は、穏やかで、どこまでも優しかった。 「私は、魔王よ。世界がそう望んだのだから、その役割を果たすわ」 「だったら…!」 「でもね、リリア」  エレノアは、娘の震える手を、そっと自分の両手で包み込んだ。 「私が魔王であることと、私があなたの母親であることは、少しも矛盾しないの。世界を救うことと、あなたのために蜂蜜のスコーンを焼くことは、私の中では、全く同じくらい、大切なことなのよ」


 その言葉に、リリアはハッとして顔を上げた。涙で濡れた瞳が、目の前の母の姿を捉える。そこにいたのは、恐ろしい魔王でも、世界を救う伝説の魔女でもない。ただ、自分の娘を、愛おしそうに見つめる、一人の母親だった。


「…ごめん、なさい…」  リリアの唇から、か細い謝罪の言葉が漏れる。 「私…もう、何が本当で、何が嘘なのか…分からなくて…」 「ええ、いいのよ」  エレノアは、そっと娘の体を抱きしめた。リリアも、最初はためらっていたが、やがて母の背中に腕を回し、子供のように声を上げて泣き始めた。セラフィーナの元で、決して流すことが許されなかった涙。ずっと心に溜め込んでいた、寂しさと不安の全てを吐き出すように。


 俺は、その光景を、ただ黙って見つめていた。ザラキアスもゴウガも、さすがに空気を読んだのか、何も言わずに控えている。  ようやく、家族が、一つに戻れた。そう、思った瞬間だった。


 ヒュッ、と。  夜空を切り裂く、鋭い音が響いた。  次の瞬間、俺たちのテーブルの真ん中に、一本の矢が突き立つ。それは、物理的な矢ではなかった。純白の光で編まれた、禍々しいほどの聖なる力を宿した、魔法の矢だ。  矢に結び付けられていた羊皮紙が、ひとりでに解ける。そこに現れたのは、セラフィーナの筆跡による、たった一行の、冷たい言葉だった。


『――聖女は、魔王に囚われた。救出の用意あり』


 それは、対話の終わりを告げる、世界からの返信だった。  リリアの帰郷を、彼らは「拉致」と断じたのだ。  エレノアは、泣き続けるリリアを抱きしめたまま、ゆっくりと顔を上げ、矢が飛んできた暗い地平線の彼方を、冷たく、静かに見据えた。その瞳には、もはや母親の優しさはなく、全てを敵に回す覚悟を決めた、「魔王」の光が宿っていた。


「…カイト」 「ああ、分かってる」  お茶会の時間は、終わった。  俺は、再び戦場へと変わるであろう庭を見渡し、静かに立ち上がった。  本当の戦いは、どうやら、ここから始まるらしい。

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