第8話 気まずい空気と、不器用なリセットボタン
あの『恋戯れの妖精』捕獲任務から一夜。
俺、カイトは安宿のベッドの上で、ここ最近で一番重い目覚めを迎えていた。体が重いんじゃない、空気が、だ。昨日からずっと、俺とエレノアさん、リリアの間には、目に見えない、分厚くて、非常に気まず~い壁が存在している気がする。
原因は、もちろんアレだ。妖精の花粉のせいで、理性が蒸発した母娘が俺に……その、熱烈アプローチ(物理含む)をしてきた一件。思い出すだけで顔が熱くなる。二人が正気に戻った後の、あの沈黙と赤面! アレはキツかった……!
(……今日、どんな顔して会えばいいんだ……?)
正直、めちゃくちゃギルドに行きづらい。リリアとはどうせ顔を合わせるだろうし、エレノアさんだって、最近は神出鬼没だし……。
いっそ、今日は一日部屋に籠って……いや、ダメだ。Fランク冒険者が一日サボったら、明日の食費がなくなる。現実は非情である。
重い足取りでギルドへ向かうと、案の定、掲示板の前でリリアが依頼書を眺めていた。
「……お、おはよう、リリア」
俺は、できるだけ自然を装って声をかけた。……つもりだった。
「……お、おはよ、カイト」
リリアも、なんだか歯切れが悪い。いつもの元気な声はどこへやら。視線も微妙に合わない。うわ、気まずい!
「……き、今日はいい天気だな」
「……う、うん、そうだね」
なんだこの、初対面以下のぎこちない会話は! 昨日まで、あんなに遠慮なくベタベタしてきた(主にリリアが)のが嘘のようだ!
(いや、でも、あれは花粉のせいだし! 俺も、あの時の二人のこと、変に意識しすぎだよな……! そうだ、いつも通りに……!)
「そ、そういえばリリア、昨日の……」
俺が、勇気を出して昨日の話題に触れようとした瞬間。
「わーっ! 思い出させないでよ、バカイト!」
リリアが顔を真っ赤にして叫び、俺の足を思いっきり踏んづけてきた!
「いってぇ!? な、何すんだよ!」
「な、なんでもない! それより、今日の依頼! これにしよう!」
リリアは、半ばヤケクソ気味に依頼書の一枚をひっぺがすと、俺に背を向けて受付カウンターへ行ってしまった。……完全に挙動不審だ。
(……ダメだ。全然いつも通りじゃない……)
俺が頭を抱えていると、ふわりと、聞き覚えのある穏やかな声がした。
「おはようございます、カイトさん、リリア」
そこには、いつものように優雅なエレノアさんが立っていた。その表情は……うん、いつも通り……に見える。さすが大人だ、平静を装うのが上手い。
「あ、おはようございます、エレノアさん」
「……お、おはよう、母さん」
俺とリリアは、なんだか叱られた子供のように、揃って縮こまってしまう。
「ふふ、二人とも、なんだか元気がないようですわね? 昨日の疲れが残っていますの?」
エレノアさんは、にこやかに言う。だが、その言葉には、どこか「昨日のこと、気にしてます?」という含みがあるような……気がする! 深読みしすぎか!?
「い、いえ! そんなことは!」
「ぜ、全然元気だよ!」
俺たちは、慌てて否定する。その慌てぶりが、逆に怪しさを増していることに気づかずに……。
ああ、ダメだ。この空気、重すぎる……!
どうにかしないと、まともに依頼もこなせない!
俺が内心で悶絶していた、その時だった。
「あーーーもうっ! やってらんない!!」
突然、リリアが大きな声で叫んだ!
「えっ!? リ、リリア?」
「だって、おかしいでしょ、この空気! いつまで昨日のこと引きずってるのよ!」
リリアは、俺とエレノアさんを交互に指差す。
「あれは! 妖精の花粉のせい! 事故! ノーカン! 以上!」
一気にまくし立てると、ぷはー、と息をつく。
その、あまりにもストレートすぎる物言いに、俺とエレノアさんは一瞬呆気に取られた。
「……」
「……」
沈黙。
そして。
「……ぷっ……あははは!」
最初に吹き出したのは、エレノアさんだった。
「ふふ……そう、ですわね。リリアの言う通り。いつまでも引きずっていても仕方ありませんわ」
エレノアさんは、目元を拭いながら、いつもの余裕のある微笑みに戻っていた。
「だ、だよな! そうだよな!」
俺も、なんだか憑き物が落ちたように、大きく頷いた。そうだ、事故だ、ノーカンだ!
「……べ、別に、私はカイトのこと、あ、あんな風に思ってなんか、ないんだからねっ!」
リリアは、顔を真っ赤にしながらも、いつもの調子で言い放つ。うん、そのツンデレっぽい(?)感じ、通常運転だ。
リリアの不器用なリセットボタンのおかげで、俺たちの間に漂っていた重苦しい空気は、ようやく霧散した。……まあ、完全になくなったわけじゃない。あの花粉騒ぎで垣間見えた、普段とは違う二人の姿や、俺自身の動揺は、確かに記憶に残っている。
「さ、気を取り直して、依頼に行きましょ、カイトさん、リリア」
エレノアさんが、パン、と手を叩く。
「おう!」
「うん!」
俺たちは、まだ少しぎこちなさは残るものの、いつもの(?)調子を取り戻しつつあった。
ギルドを出て、街を歩き出す。
隣を歩くリリアは、もういつもみたいに俺の腕に絡んできたりはしない……けど、その距離はやっぱり近い。
少し前を歩くエレノアさんは、時折振り返って、意味深な微笑みを向けてくる。
(……うん、まあ、これが俺の日常、だよな……)
気まずさが消えた代わりに、別の種類のドキドキが、また胸の中で騒ぎ始めているのを感じる。
あの花粉騒ぎは、もしかしたら、俺たち三人の関係の「何か」を、ほんの少しだけ変えたのかもしれない。
それが良いことなのか、悪いことなのか。
それはまだ、誰にも分からなかった。
(……とりあえず、今日の依頼、集中しないとな!)
俺は、新たな(そして、たぶんいつも通りの)受難に備えて、気合を入れ直すのだった。