第79話 蜂蜜スコーンは、裏切りの味
リリアは、丘からゆっくりと歩みを進めた。一歩一歩が、まるで見えない水の抵抗を受けるかのように重い。彼女が庭に足を踏み入れた瞬間、ザラキアスとゴウガの放つ、剥き出しの闘気と警戒心が肌を刺した。だが、それもカイトの一瞥によって、まるで幻だったかのように霧散する。
テーブルまで、あと数メートル。白いクロスの上には、湯気の立つティーポットと、美しい焼き色のスコーンが並んでいる。その光景は、数ヶ月前の、何でもない日常の一コマを切り取ったかのようだった。魔王も、聖女もいない、ただの家族だった頃の記憶。
「…座れよ、リリア」 カイトが、空いている椅子を引いた。その声は、驚くほど普段通りで、リリアは逆に戸惑ってしまう。もっと詰問されるかと思っていた。あるいは、説得されるか、と。
彼女は、まるで操り人形のように、その椅子にぎこちなく腰掛けた。目の前では、母が静かな手つきでティーカップに紅茶を注いでくれる。カラン、とカップをソーサーに置く、澄んだ音だけが、夜の静寂に響いた。
「…何が、目的なの」 リリアは、震える声で、ようやくそれだけを絞り出した。目の前の三人…いや、四人を見回す。 「こんな…お茶会ごっこみたいな真似をして。私を油断させて、捕らえるつもり?」
その問いに答えたのは、やはりカイトだった。彼は、自分の分の紅茶を一口すすると、呆れたように息をついた。 「ごっこ、ね。俺たちにとっては、こっちが本番なんだが」 「…どういう意味よ」 「言葉通りだ。戦場で剣を交えるより、こうやって顔を突き合わせて、お前のくだらない勘違いを正す方が、よっぽど重要だってことだよ」
「勘違いじゃ、ないわ!」リリアは思わず声を荒らげた。「母様は魔王になった! 世界を脅かす存在に…!」 「あら」 そこで初めて、エレノアが口を開いた。彼女は、カップを優雅に傾けながら、小首を傾げる。 「私が世界を脅かしたかしら? 脅かしてきたのは、むしろ向こうではなかった?」 「それは…!」 「私は、私に与えられた役割を果たしているだけ。そして、カイトが言った通り、どんな時でも家族と食卓を囲むのが、私の流儀よ。たとえ、その娘が、少しだけ道に迷っているとしてもね」
その穏やかで、絶対的な母の言葉に、リリアはぐっと唇を噛んだ。セラフィーナから教わった「正義」が、目の前の現実を前に、ぐらぐらと揺らぐ。
「…聖女殿」 不意に、ザラキアスが口を開いた。彼は、吟遊詩人の扮装のまま、なぜか胸に手を当てて厳かに言う。 「騙されるな。その一杯の紅茶には、我が君の『母性』という名の、抗いがたい魅了の魔法が込められている! そして、そのスコーンこそが、戦意を根こそぎ奪う、最終兵器なのだ!」 「うむ。うまいぞ」 隣で、ゴウガがすでにスコーンを一つ、豪快に頬張っていた。
四天王たちの緊張感のないやり取りに、リリアは毒気を抜かれてしまう。何なの、この人たちは。本当に、世界を敵に回している軍団なの?
「…ほら、食えよ」 カイトが、蜂蜜の小瓶と、こんがりと焼かれたスコーンの皿を、リリアの前にそっと押し出した。 「お前が好きだったやつだろ。エレノアが、お前のために焼いたんだ」
蜂蜜のスコーン。幼い頃、訓練でうまくいかずに泣いていた時、母が「これを食べれば、元気が出る魔法のスコーンよ」と言って、いつも焼いてくれた、思い出の味。 リリアは、目の前のスコーンと、母の顔を交互に見つめた。これを食べたら、もう後戻りできない。セラフィー나様を、私を信じてくれた連合軍の皆を、裏切ることになる。
(でも…)
抗えなかった。ごくりと喉が鳴る。空腹だったわけではない。ただ、心が、魂が、この温もりを求めて叫んでいた。 彼女は、震える手で、スコーンを一つ手に取った。 そして、意を決して、一口、かじる。
サクッ、という心地よい食感。口の中に広がる、小麦の優しい甘さと、バターの豊かな香り。そして、追いかけるように鼻を抜ける、懐かしい蜂蜜の風味。 それは、ただのスコーンではなかった。忘れていた、忘れるように命じられていた、家族の愛情そのものの味がした。
ぽたり、と。 リリアの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ち、ティーカップの紅茶に、小さな波紋を広げた。 それは、聖女の仮面が、初めてひび割れた音だった。




