第78話 魔王城のティーカップと、聖女の帰郷
魔王城(仮)の庭は、決戦前夜とは思えぬほどの甘い香りに満ちていた。エレノアがキッチンで焼くスコーンの香ばしい匂いと、俺の『調停の権能』によって生まれ変わった庭に咲き乱れる、夜香花の甘美な香りが混じり合っている。それはあまりにも平和で、どこか現実離れした光景だった。
「いいか、ゴウガ。ティーカップはこう、小指を立てて持つのが作法だ。魔王軍の威信に関わる」 「無駄だ。俺の指では、取っ手ごと砕ける」 「ならば、皿ごと持て! それが貴様の最適解だ!」 「うむ」
テラスでは、ザラキアスがゴウガにテーブルマナー(彼独自の解釈による)を教えていた。俺は、そのシュールな光景を横目に、最後の準備に追われていた。クロスを張り、カトラリーを並べ、エレノアが用意した数種類のジャムを小皿に分ける。心臓は奇妙なほど落ち着いていた。恐怖や不安よりも、これから起こることへの、静かな覚悟が勝っていた。
(来る…)
理由は分からない。だが、確信があった。この馬鹿げたお茶会に、一番大切な客人が、必ずやって来る。
その頃、リリアは一人、闇の中を駆けていた。 連合軍の野営地を抜け出すのは、想像以上に容易かった。聖女の天幕は警備が手薄だったわけではない。ただ、誰も、聖女本人が単身で敵陣へ向かうなどと、夢にも思わなかっただけだ。
両軍が睨み合う、中間地帯。そこは、昨日の戦闘で抉られた大地が、生々しい傷跡を晒す殺風景な場所だった。月明かりが、転がった盾や折れた槍を鈍く照らし出す。リリアは、その荒野を、ただひたすらに我が家へと向かって走っていた。
(私は、何をしているんだろう…)
心の中で、自問自答が繰り返される。これは、セラフィーナ様の言う通り、敵の罠かもしれない。母の甘言に、心が揺らいでいるだけなのかもしれない。聖女として、世界を救うという大義を、裏切る行為なのではないか。
だが、足を止めることはできなかった。 脳裏から離れないのだ。全てを浄化しようとした自分の光の前に、静かに立ち塞がった母の姿。そして、神の裁きさえも止めてみせた、カイトの金色の奇跡。 どちらが悪で、どちらが正義なのか。もう、何も分からなかった。ただ、確かめなければならない。自分の目で、自分の心で。
やがて、丘の向こうに、見慣れた我が家のシルエットが見えてきた。違う。あれは今や、世界が『魔王城』と呼ぶ場所だ。 リリアは、丘の稜線に身を隠し、息を殺して庭の様子を窺う。
(…え?)
そこに広がっていたのは、彼女が想像していた光景とは全く違っていた。 禍々しい結界も、うごめく魔物もいない。ただ、美しく手入れされた庭に、温かな魔法の光が灯され、白いクロスのかかったテーブルが一つ、静かに置かれているだけ。 テラスでは、カイトがティーポットの準備をしている。その隣では、母が完璧な笑みで、二人の屈強な男…あれが四天王だろうか…に、何かを給仕している。全てが、信じられないほど穏やかで、平和な光景だった。
「…来たか」
カイトが、ふと顔を上げ、リリアが隠れている丘の方をまっすぐに見た。まるで、最初からそこにいると分かっていたかのように。
「何者だ!」 「敵襲か!」 ザラキアスとゴウガが、瞬時に臨戦態勢を取る。その手には、お茶菓子ではなく、それぞれの武器が握られていた。
「待て、お前ら」 カイトが、それを手で制す。 「客人を、そんな物騒なもので迎えるな。お茶が、まずくなるだろ」
その声は、丘の上まで、はっきりと届いた。 リリアは、ごくりと唾を飲む。心臓が、大きく音を立てている。 一歩、足を踏み出した。もう、隠れている意味はない。
月明かりの下に姿を現したリリアを見て、ザラキアスとゴウガが息を呑むのが分かった。「聖女…!」「なぜ、ここに…」。 だが、カイトとエレノアは、驚いた様子も見せなかった。
「…遅かったじゃないか、リリア」 カイトは、少しだけ呆れたように、でも、どこか安心したように言った。 「スコーン、冷めちまうぞ」
そして、エレノアが、静かに微笑む。その顔は、魔王でも、伝説の魔女でもない。ただの、娘の帰りを待っていた、母親の顔だった。
「おかえりなさい、リリア」
その一言が、リリアの心に張られていた見えない糸を、ぷつりと断ち切った。 彼女は、何も言えずに、ただ、その場に立ち尽くしていた。 世界で一番奇妙なお茶会は、主賓の到着によって、静かにその幕を開けようとしていた。




