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第77話 揺れる聖女と、お茶会の準備

 リリアは、手の中にある一枚の羊皮紙を、ただじっと見つめていた。  『魔王軍主催:湖畔のティーパーティーへのお誘い』。  母、エレノアの優雅で美しい筆跡。その隣には、少しだけ不格好だが、見慣れたカイトの追伸が書き添えられている。『お前の好きだったハチミツのスコーンも焼くから』と。  馬鹿みたいだ。世界を二分する戦いの最中に、お茶会なんて。  でも、その馬鹿馬鹿しさが、セラフィーナの語る荘厳な『正義』よりも、ずっと温かく、リリアの凍えた心を揺さぶっていた。


「…くだらない」


 彼女が呟いた、その時だった。 「何が、くだらないのですか? リリア」  背後から、いつの間にかセラフィーナが立っていた。その聖母のような微笑みは、完璧すぎて、今はかえって薄ら寒ささえ感じさせる。


「セラフィーナ様…。これは…」 「見ましたよ。魔王からの、愚かな揺さぶりですね」  セラフィーナは、リリアが持つ招待状を一瞥すると、やれやれと首を振った。 「優しい言葉にこそ、最も深い毒が隠されているものです。魔王は、あなたを『聖女』から、ただの『娘』に引き戻そうとしている。私たちの掲げる大義を、家族ごっこという些事さじおとしめ、連合軍の結束を内から乱そうという魂胆でしょう」


「ですが…」 「行ってはなりません」  セラフィーナの声は、穏やかだが、有無を言わせぬ響きを持っていた。 「これは罠です。あなたを再び闇に取り込むための。あなたは、もう迷ってはならない。光の道を歩むと、決めたのでしょう?」 「…………はい」  リリアは、そう答えるしかなかった。だが、手の中の羊皮紙から伝わる、微かな温もりが、彼女の心を乱し続けていた。


 その頃、魔王城(仮)では、作戦会議という名の、壮大な茶番が繰り広げられていた。


「いいか、お前ら! これはただのお茶会じゃない! 我が魔王軍の威信を懸けた、外交戦であり、情報戦であり、そして何より、スイーツ戦争だ!」  俺は、リビングに広げた庭の見取り図を指差しながら、四天王(二人)に檄を飛ばしていた。


「ザラキアス! お前は庭の警備担当だ! だが、物々しい鎧で突っ立ってるんじゃないぞ! 『流浪の吟遊詩人』に扮して、エレノアのスコーンの素晴らしさを讃える叙事詩を詠み続けろ!」 「おお! 我が君の栄光を、詩歌に乗せて世界に布教する…! なんという神聖なる任務! このザラキアス、魂の全てを懸けて詠い上げましょうぞ!」 「ゴウガ! お前はウェイターだ! 客人にお茶とケーキを運べ! だが、もし敵意を向ける者がいたら…」 「その皿で、殴る」 「殴るな! 穏便に、だが威圧的に、お代わりを勧めてやれ! 腹いっぱいにさせて、戦意を削ぐんだ!」 「うむ。食わせる。任せろ」


 俺の指示に、二人は(それぞれの解釈で)力強く頷く。  キッチンからは、エレノアの鼻歌と、バターの焼ける甘い香りが漂ってきていた。彼女は、完璧な三段重ねのケーキスタンドを用意しながら、楽しそうだ。


「あら、カイト。そんなに気負わなくても大丈夫よ。お茶会は、楽しむのが一番なのだから」 「これが気負わずにいられるか! 相手は数万の軍勢だぞ!」 「大丈夫。私のスコーンは、どんな軍隊よりも強いわ」  エレノアは、絶対の自信を持って微笑んだ。その笑顔を見ると、なんだか本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。


 俺は、窓の外に目をやった。俺の力で美しく生まれ変わった庭が、午後の日差しを浴びてキラキラと輝いている。あれが、俺たちの「戦場」だ。


 夜。連合軍の野営地。  リリアは、一人、天幕の中で膝を抱えていた。  セラフィーナの言葉が、頭の中で何度も反響する。『これは罠だ』『光の道を歩むと決めたのでしょう?』。  そうだ、私は聖女だ。母は、世界を脅かす魔王。カイトは、その隣で道を見失った、可哀想な人…。


 なのに、どうしてだろう。  脳裏に浮かぶのは、いつも怒ってばかりだったカイトの、不器用な文字。いつも完璧だった母の、少しだけインクが滲んだ署名。  そして、ハチミツのスコーンの、甘い香り。


(…私は、何と戦っているの?)


 闇に染まった母か。混沌の化身たるカイトか。  それとも――。


(ただ、あの食卓に、もう一度座りたいだけ、なのかもしれない…)


 その、あまりにも人間的で、聖女らしくない本心に気づいてしまった時、リリアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「…私は…」


 彼女は、立ち上がった。  手には、あの招待状を固く握りしめている。  向かうべき場所は、もう決まっていた。  それが、たとえ全てを裏切る行為だとしても。


 彼女は、自分の心を確かめるために、歩き出さなければならなかった。  世界で一番、温かくて、そして今では世界で一番、遠い場所へ。

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