第70話 魔王様の看病と、聖女の疑念
俺が目を覚ました時、最初に感じたのは、嗅ぎ慣れたリネンと、エレノアの優しい香りだった。
ぼんやりとした視界に、俺の顔を心配そうに覗き込む、美しい彼女の顔が映る。
「…カイト! よかった、気がついたのね!」
「エレノア…俺、どれくらい…」
「丸一日、眠っていたわ。本当に、心配したのだから…」
彼女の瞳が潤んでいるのを見て、俺は自分がとんでもないことをしでかしたのだと、改めて実感した。
体を起こそうとすると、エレノアに優しく止められる。
「まだ駄目よ。あなたは、少し力を使いすぎただけ。ゆっくり休んで」
その時、寝室のドアの外から、ひそひそと、しかし全くひそひそ声になっていない会話が聞こえてきた。
「おい、ザラキアス。カイト殿はお目覚めになられたか? 俺の耳が、寝息以外の音を捉えたぞ」
「静かにしろ、ゴウガ。我が張った『邪気退散の魔結界』が、貴様のその無駄にデカい声で乱れるだろうが。カイト殿の安らかな眠りを守護する、神聖なる任務の最中だぞ」
「お前らのせいで、安眠妨害だ…」
俺が呟くと、エレノアは「ふふっ」と悪戯っぽく笑った。この日常が、今は何よりも愛おしい。
その頃、連合軍の野営地は、重苦しい沈黙と混乱に包まれていた。
リリアは、セラフィーナの巨大な天幕の中にいた。二人きりだ。
「…説明してください、セラフィーナ様」
リリアは、初めて、その声に明確な棘を込めた。
「あの力は、何だったのですか。あなたの呼び出した〝神の使い〟が、なぜカイトの力に阻まれたのですか。彼が、一体何だというのですか!」
問い詰められたセラフィーナは、一瞬だけ、表情から血の気を失わせた。だが、すぐにいつもの聖母のような微笑みを取り戻す。
「落ち着きなさい、リリア。あれは、神の試練だったのです」
「試練…?」
「ええ。魔王という分かりやすい『悪』だけでなく、この世界には、まだ我らの知らない、混沌とした力が眠っています。あの男…カイトは、その混沌の化身。光でも闇でもない、ただ世界の理をかき乱すだけの、危険な存在」
セラフィーナは、リリアの手を優しく握った。
「魔王は討つべき悪。ですが、あの男は、世界そのものを〝無〟にしかねない、より大きな脅威なのかもしれません。私たちは、両方を相手にしなくてはならなくなったのです。…ですが、心配しないで。私が、そして神が、あなたと共にいます」
完璧な理論、完璧な激励。
以前のリリアなら、その言葉を信じ、奮い立っていただろう。
だが、今の彼女の心には、消えない疑念が渦巻いていた。
(危険な存在…? あの、いつも困ったように笑って、私や母様のために奔走してくれていた、カイトが…?)
リリアは、何も答えずに、静かに天幕を出た。
セラフィーナは、その背中を、冷たい目で見送っていた。
夜、俺がようやく少し体を起こせるようになると、エレノアが特製の、滋養たっぷりのスープを作ってきてくれた。
「はい、カイト。あーんして?」
「いや、自分で食べられる!」
「だめ。あなたは病人なのだから、大人しく看病されてなさい」
彼女の有無を言わさぬ迫力に、俺は観念して口を開ける。…いくつになっても、この人には敵わない。
スープの温かさが、体に染み渡る。
戦いは、終わっていない。俺のこの力の意味も、まだ分からない。
だが、今はただ、この温もりの中にいたい。
世界がどうなろうと、この人だけは、俺が絶対に守り抜く。俺は、心にそう誓うのだった。




