第65話 魔王軍の朝礼と、聖女の清め
魔王軍の朝は、朝礼から始まる。
と言っても、場所は半壊したリビングの食卓で、議題はエレノアお手製のスクランブルエッグを巡る攻防だ。
「ゴウガ! 貴様、また我が君が俺のために取り分けたソーセージを! その蛮勇、魔王軍の規律を乱す行いと知れ!」
「早い者勝ちだ。戦場では、一瞬の油断が命取りになる」
「二人とも、お代わりはたくさんありますから、喧嘩しないの」
エレノアが微笑むと、二人はピタリと動きを止め、居住まいを正す。
俺は胃薬を飲みながら、本日の議題を切り出した。
「いいか、お前ら。今日の任務だ。まず、家の前の落とし穴。今朝、牛乳屋のおじさんがハマって半泣きになってたから、埋めろ。それから、ザラキアスの闇の茨。勝手に伸びて隣の家の洗濯物を取り込んでるって苦情が来てる。なんとかしろ」
「むぅ…我が結界の強固さ故か…」
「ふん、やはり物理的な罠が一番だ」
「どっちもどっちだ!」
これが、世界の覇権を狙う(と周囲から思われている)魔王軍の作戦会議なのだから、涙が出てくる。
エレノアはそんな俺たちの様子を微笑ましそうに眺め、パンにバターを塗りながら言った。
「それが終わったら、二人で裏山の洞窟を探ってきてちょうだい。昔、私が薬草を保管していたのだけれど、そろそろ使える頃だと思うの」
「「はっ! 御意!」」
食べ物のためなら、こいつらの結束は固い。こうして、今日も騒々しい一日が始まった。
その頃、大神殿の空気は、凍えるほどに澄み渡っていた。
リリアは、滝壺の中心で、ただ一人、流れ落ちる膨大な水圧に耐えていた。「清めの儀」と呼ばれる、聖女候補に課せられる最も過酷な修行の一つだ。
「まだです、リリア」
滝の外から、セラフィーナの凛とした声が飛んでくる。
「あなたの身体には、まだ魔女の魔力が淀んでいます。その身を苛む全ての不浄を、この聖なる水で洗い流しなさい。怒りも、悲しみも、そして…母への情愛も」
――情愛は、不浄。
その言葉が、リリアの心を縛る。滝の水は、ただ冷たいだけではなかった。聖なる力が込められており、リリアの体内に残る、母から受け継いだ魔力の残滓を、焼くように苛む。
歯を食いしばり、意識が遠のきそうになるたび、リリアはセラフィーナの言葉を思い出す。
(私は、光になる。母様を…あの人を、救うために)
いつしか、目的はすり替わっていた。母を断罪し、その魂を「救済」すること。それこそが、娘である自分の務めなのだと。
リリアがふらつきながらも立ち続ける姿を見て、セラフィーナは満足げに頷いていた。
夜、俺は四天王(二人)が持ち帰った薬草を整理していた。エレノアの言う通り、どれも極上のものばかりだ。ザラキアスとゴウガは「洞窟の主である巨大な熊(ただの冬眠中のアナグマだったらしい)との死闘」を武勇伝として語っていたが、俺は生返事をするので精一杯だった。
ふと、エレノアが俺の隣に座り、疲れているだろうからと、肩を揉んでくれる。
その指先は温かく、優しい。
「いつも、ありがとう。あなたがいるから、ここはちゃんとお家でいられるわ」
「…お前こそ」
俺たちがこうして、穏やかな時間を感じている時。
リリアは、独り、冷たい石の部屋で、震える手で十字を切っていた。滝行で冷え切った体は、もうずっと温まらなかった。
彼女は、もう家族の温かさを思い出せなくなっていた。思い出すこと自体が「罪」だと、教え込まれていたからだ。
聖女への道は、彼女から大切なものを、一つ、また一つと奪っていく。まるで、光が影を消し去るように。




