第64話 魔王様の寝室と、城壁(物理)
エレノアによる最初の勅令は、即座に実行された。
実行されすぎた、と言ってもいい。
「ザラキアス! 貴様の『闇の茨』は見た目ばかりで実用性に欠ける! 我が『大落とし穴』の方が遥かに効率的だ!」
「黙れ、脳筋獣人! 物理的な罠など、斥候の一人に見破られれば終わりだ! 我が呪いの結界こそ、真の魔王城に相応しい!」
翌朝、俺が見た光景は、悪夢そのものだった。
家の周囲には、ザラキアスが召喚した禍々しい茨の壁と、ゴウガが夜通し掘り続けた巨大な塹壕や落とし穴が、見事なまでに統一感なく広がっていた。まるで、悪趣味な芸術家と、生真面目な軍曹が、互いに一切相談せずに作り上げた地獄のジオラマだ。ドワーフの棟梁は、その光景を見て「わしらの出番はどこだ…」と遠い目をしている。
これが、我が魔王軍の誇る防衛線の第一段階らしい。侵入者より先に、俺たちが家の出入りで命を落としそうだ。
昨夜、あの勅令の後、俺は一人、寝室で頭を抱えていた。
世界が敵になる。リリアと戦うことになるかもしれない。そして何より、エレノアが、あの穏やかな彼女が、たった一人でその全てを背負い込もうとしている。
ドアが静かに開き、部屋着姿のエレノアが入ってきた。彼女の手には、湯気の立つハーブティーのカップが二つ。
「眠れないのかしら、カイト」
「…当たり前だろ」
俺はベッドの縁に腰掛けたまま、顔を覆った。
「お前は、魔王になるなんて決めて…。世界中を敵に回して、リリアとも…。なんでそんなに、平気でいられるんだ」
エレノアはカップをサイドテーブルに置くと、何も言わずに俺の隣に座り、そっと背中に手を回してきた。柔らかく、あたたかい手。
「平気なわけ、ないじゃない」
耳元で囁かれた声は、いつもの彼女のものだった。魔王でも、伝説の魔女でもない、ただ一人の女性の声だ。
「でも、私が迷ったら、誰がザラキアスさんやゴウガさんを導くの? 私が泣いたら、誰があなたの涙を拭ってあげるの?」
顔を上げると、月明かりに照らされたエレノアの瞳が、潤んでいるのが見えた。
彼女は俺の頬に手を伸ばし、親指で優しく俺の目元を拭う。
「あなたがいるから、私は魔王でいられるの。…カイト、あなただけは、ずっと私のそばにいてくれる?」
その言葉と、不安げに揺れる瞳に、俺の中の何かが決壊した。
俺はエレノアの華奢な体を強く抱きしめていた。彼女の髪から香る、甘い花の匂い。シルクの部屋着越しに伝わる、柔らかな肌の感触と体温。
「当たり前だろ…」
俺は、どちらのものとも知れない震えを感じながら、彼女の唇を塞いでいた。最初は驚いたように目を見開いた彼女も、やがてそっと目を伏せ、俺の背中に腕を回してくる。
それは、世界の全てを敵に回した、魔王とその伴侶の、最初の夜だった。
そして今、俺は目の前に広がる地獄のジオラマを見下ろしている。
昨夜の甘い時間は夢だったんじゃないかと思うほどの、現実離れした光景だ。
だが、不思議と、もう絶望的な気分ではなかった。
エレノアが魔王なら、俺は魔王の伴侶だ。四天王がアホなら、俺が手綱を握ってやる。家が魔王城なら、世界一住み心地のいい魔王城にしてやろうじゃないか。
家族ごっこは終わった。
今日から始まるのは、世界で一番奇妙で、騒々しくて、手に負えない――〝魔王の家族〟の物語だ。
俺は一つ大きく伸びをすると、庭で言い争う四天王(二人)に向かって叫んだ。
「お前ら! 朝飯だぞ! 手を洗ってこい!」
「「はっ!!」」
その声が、俺の最初の勅令になった。




