第60話 魔王軍の買い出しと、聖女の特訓
魔王城(仮)の朝は、焼きたてのパンの香りで始まる。
「あら、カイト。おはよう。今日の朝食はハニーナッツのパンにしたわよ」
「ああ、おはようエレノア…」
俺が淹れたてのコーヒーを口にしようとした、その時だった。
背後から、凄まじい威圧感と共に、あの芝居がかった声が響き渡った。
「我が君! そして、魔王様の伴侶殿! この四天王筆頭ザラキアス、ただいま参上いたしました! 本日のご命令を!」
リビングの入り口には、なぜかフルアーマー姿のザラキアスが、恭しく跪いていた。朝の食卓には絶望的に似合わない光景だ。
エレノアはパンを切り分けながら、にこやかに答える。
「そうね…。じゃあ、市場へ行って、‘幻虹鳥の卵’と‘月光小麦の粉’を買ってきてくださる? 今日はシフォンケーキを焼こうと思うの」
「げんこうちょうの、たまご…?」
ザラキアスは、かつてないほど真剣な顔でその名を反芻した。
「承知! それは、来るべき聖戦に備え、軍の士気を高めるための聖餐の儀式に違いあるまい! このザラキアス、命に代えても入手してまいります!」
「そこまでしなくていいから…。あと、ついでにニンジンとタマネギもお願い」
「御意!」
ザラキアスが風のように去っていくのを見て、俺は嫌な予感しかしない。
「エレノア、あの男一人で市場に行かせるのは危険すぎる!」
「あら、そう? じゃあカイト、一緒に行ってあげてくれるかしら。お財布、忘れないでね」
こうして俺は、魔王軍の食糧調達という重大(?)任務の監督役として、ザラキアスと共に市場へ向かう羽目になった。
市場は、いつものように活気に満ち溢れていた。
ザラキアスは、果物を売る陽気な行商人のおばちゃんを「諜報活動を行うギルドの密偵か…油断ならん」と睨みつけ、魚屋の大将の威勢のいい呼び込みを「我々への威嚇か、面白い」と分析する。お願いだから、静かにしててくれ。
「見つけたぞ、伴侶殿! アレが、月光小麦を扱う商人…! なんという狡猾そうな顔つき…一筋縄ではいくまい!」
ザラキアスが指差したのは、ニコニコと人の良さそうな笑顔を浮かべた、ごく普通のおじいさんだった。
「ご老人! 我が君の命により、その『月光小麦』をいただきにきた! 潔く差し出すがよい!」
「へ? 小麦かい? はいよ、一袋かね?」
「問答無用! …ぬっ!?」
おじいさんが差し出した小麦の袋を、ザラキアスはなぜか受け取らない。
「くっ…これが、駆け引きというものか…! 俺の覚悟を試しているのだな!」
「ザラキアス、もういいから黙ってろ!」
俺はザラキアスの背中を押しやり、代金を払って小麦粉を受け取った。おじいさんは「元気な兄ちゃんだねえ」と笑っている。ああ、胃が痛い。
同じ頃、大神殿の訓練場では、リリアが一人、汗を流していた。
彼女の周りには、目もくらむほどの光の粒子が渦巻いている。
「まだです…! もっと、強く…!」
彼女が両手を突き出すと、光は一つの巨大な槍となって、訓練用の的を跡形もなく消し去った。
その様子を、物陰からセラフィーナが静かに見つめている。
「素晴らしいわ、リリア」
いつの間にか背後に立っていたセラフィーナの声に、リリアはハッと息をのんだ。
「あなたのその力は、闇を浄化するために神が与えたもうたもの。けれど、今のままでは、本当に護るべきものを護れません」
「どうすれば…」
「憎しみを捨てなさい」
セラフィーナは、慈愛に満ちた瞳でリリアを見つめた。
「あなたの魔法には、怒りが満ちている。魔に堕ちた母君への怒りが。その怒りを、全て『救済への祈り』に変えるのです。そうすれば、あなたは真の聖女となれる」
「救済への…祈り…」
リリアは、セラフィーナの言葉を心に刻む。母への複雑な想いを、全て聖なる力に変える。それこそが、自分の進むべき道なのだと。
その日の夕食後、魔王城(仮)では、エレノアが焼いた完璧なシフォンケーキを囲んで、穏やかな時間が流れていた。
「さすがは幻虹鳥の卵ね。素晴らしい弾力だわ」
「うむ! この一口が、我が血肉となる…!」
ザラキアスの大仰な食レポを聞き流しながら、俺はふと、家を出て行った娘を思った。
あいつは今頃、ちゃんと食事をしているだろうか。
その時、遠く離れた大神殿では、リリアが夕食も摂らずに、一人、祈りを捧げていた。
その身から放たれる光は、以前よりもさらに強く、そしてどこか冷たい輝きを帯び始めている。
二つの食卓。二つの日常。
その距離は、もはや光の速さで離れていっているようだった。




