第37話 陽は落ちて、影は動かず
あの奇妙なロックピックを発見してから、さらに数時間が経過した。
俺とリリアは、中央貯水槽跡で神経をすり減らしながら、ひたすら待ち続けていた。時折、例の『綺麗な通路』の入り口に視線を向け、息を潜める。サイラスが、そこからひょっこり現れるのではないか、と。
だが、現実は非情である。
待てど暮らせど、サイラスらしき人影は現れない。聞こえるのは、相変わらず水の滴る音と、たまにリリアが空腹で鳴らすお腹の音くらいだ。(本人は「気のせい!」と誤魔化していたが)
日が傾き、天井の崩れた穴から差し込む光も、頼りないオレンジ色に変わってきた。地下遺跡の中は、さらに深い闇に包まれ始めている。持ってきた松明も、残り少なくなってきた。
「……結局、何もなしか……」
俺は、壁にもたれかかりながら、疲れた声で呟いた。見つけたのは、あのロックピックだけ。それ自体は大きな手掛かりだが、サイラス本人に繋がる直接的な動きは、何もなかった。
「……もしかして、もうとっくに逃げた後だったのかな?」
リリアも、さすがに疲労の色を隠せない様子で言う。彼女の得意な直感も、この静寂の中では役に立たないようだ。
「あるいは……俺たちがここにいることに気づいて、警戒してる、とか……?」
そんな可能性を考えると、背筋がゾッとする。プロの暗殺者が、どこか暗がりから、俺たちのことを見ている……? いやいや、考えすぎだ! ……と思いたい。
(エレノアさんの方は、どうなんだろう……? 博物館で、何か動きはあったんだろうか……?)
俺たちの不安は募るばかりだ。
その時だった。
俺の頭の中に、ふわりと、直接響くような感覚があった。エレノアさんの声だ!
『――カイトさん、リリア。聞こえますか?』
テレパシー……!? エレノアさん、こんなこともできたのか!
(は、はい! 聞こえます!)
俺が内心で叫ぶと、再び声が響く。
『博物館の方は、特に異状ありませんでしたわ。魔力の流れにも、不審な気配にも変化なし。そちらも、もう十分でしょう。戻ってきてください』
(……異状なし、か)
少しだけ、ホッとする。同時に、サイラスが博物館を狙わなかったことにも、疑問が残る。別のターゲットを狙っているのか? それとも、まだ動いていないだけ……?
『リリアにも、伝えてくださいまし』
(わ、わかりました!)
俺は、隣でうとうとし始めていたリリアの肩を揺する。
「リリア、起きろ。エレノアさんから連絡だ。戻ってこいって」
「ん……? ふぁ……。もう終わり? 何もなかったの?」
「ああ……。博物館の方も、何もなかったらしい」
「そっかー……」
リリアは、残念そうにしながらも、どこかホッとしたような表情で立ち上がった。
俺たちは、最後に一度だけ、あの『綺麗な通路』に視線を向けた。……やはり、何も変わらない。静寂が支配しているだけだ。
俺は、ポケットの中に入れたロックピックの、硬くて冷たい感触を確かめる。これだけが、今日の唯一の『成果』だ。
「……帰ろう」
「うん」
俺たちは、松明の残り火を頼りに、元来た道を引き返し始めた。
地下遺跡の湿った空気、暗闇、そして常に付きまとっていた緊張感から解放されると、どっと疲れが押し寄せてきた。
古井戸から地上へ這い出すと、空はすでに深い藍色に染まり、星が瞬き始めていた。昼間の喧騒が嘘のような、静かな夜だ。
「疲れたー!」
リリアが、大きく伸びをする。
「ああ……。腹も減ったし……」
俺も、ようやく人心地ついた気分だった。
だが、心の中には、依然として重いものが残っている。
発見したロックピック。未だ謎に包まれたサイラスの動向。そして、俺たちが足を踏み入れてしまった、危険な裏の世界……。
監視任務は一旦終わったが、事件は何も解決していない。むしろ、謎は深まるばかりだ。
俺は、エレノアさんの待つ店へと向かいながら、今日の出来事と、拾ったロックピックのことを反芻していた。
この小さな金属片が、俺たちをどこへ導くのだろうか。
そして、俺は……この先も、無事でいられるのだろうか……?
答えは、夜の闇の中に見つけることはできなかった。




