愛していた人
「何を言っているの?」と問いかける声は、しかし喉に貼り付いて、ただ掠れた吐息がまろび出るだけだった。足元がぐらぐらし、この世界――エリオとの穏やかだった日常――を形作る全てが、轟々と音を立てて崩れてゆく。小さな欠片すら残すことなく、まるでそんなもの初めからなかったかのように。
目の前にいるのは、エリオだった。間違いなく彼だった。エリオ・ブランその人だ。大切な恋人だったエリオ。誰よりも愛していたエリオ。――けれども、そう思っているのはもう、フィオナだけだった。彼を恋人だと思っているのも、そして愛しているのも、彼女だけ。エリオにとってフィオナはもう、ただの赤の他人でしかなかった。恋人でもなければ、友人でもなく、それどころか“魔女の家に棲む女”という記憶すらない。今のエリオにとって、目の前に立つフィオナは、“初めて会う人間”だった。これまでどんなにたくさんの時間を過ごし、どんなにたくさんの思い出を作った相手だったとしても。そんなものはもう、エリオの頭の中にも心の中にも残ってはいないのだ。
絶望した。ただただそうすることしか出来なかった。茫然と立ち尽くすフィオナに、エリオは困惑気味に笑って、彼女の身体から離した右手で気不味そうに頬を掻く。抱擁を解くのに、彼にはなんの躊躇いもなかった。それどころかなんの感情も。抱き竦めた時の高揚も感慨もきれいさっぱり失くして、早々と離れていった腕には、少しの愛情も残ってはいなかった。
人間の身体とは不思議なもので、精神的に強い衝撃を受けると、たちまち何も出来なくなる。瞬きをすることも、うまく呼吸をすることも。もしかしたら心臓もとまっていたかもしれないし、身体中を流れる血流がとまっていたかもしれない。兎も角そんなふうに全ての動きを奪われると同時に、感情までもがまっさらになる。悲しいとも、辛いとも、苦しいとも、不思議と思わない。だから涙は流れてこないし、身体が震えることもない。異様な心地だった。頭の中にも胸の中にも、まるでなにもない。目の前のことが、瞳に映る世界の全てが、現実のことのはずなのに、とてもそうとは思えなかった。これは夢の中だ。悪い夢の中にいる。だって“現実”のエリオは――。
けれどもそんな無の心地も、見慣れた逞しい背中がどんどんと遠くへ離れてゆくにつれ、少しずつ崩壊していった。木々の奥に完全に消えてしまった頃にはもう、立っていることすらままならなくて。フィオナは震える身体を両腕で抱き締めながら、その場に力なく崩折れた。さっきまでは何もなかった空っぽの胸に、どっと感情が込み上げてくる。両方の目からは大粒の涙が、次から次へととめどなく溢れ出す。まるで身体中の水分を使い果たそうとしているのではないかと思うほど、たくさん。苦しかった。苦しくて苦しくて、そして心が痛かった。鋭い刃で何度も何度も切りつけられたみたいに。胸が張り裂けそうで、けれど、ぎゅっと握り締められてもいるようで、ぐちゃぐちゃだった。何もかもが。全て木っ端微塵に砕け散り、跡形もなく壊れてしまった。
――安心してくれ。俺は君を忘れたりなんかしないから。絶対に。
彼の言葉が、彼の決意が、彼の気持ちが嘘だったとは、思わない。そんなはずはないことくらい、フィオナはよく知っている。だから、エリオを責めることなど出来るはずがなかった。彼が悪いわけではない。彼が悪いわけではないのだ。決して。
悪いのは彼ではなく――。
はっと目が覚めて、フィオナは乱れた呼吸を浅く繰り返す。泣いていたのか、それとも汗か。肌に貼り付いた何かの感触が、ひどく気持ち悪い。
カーテンの隙間から漏れ込む朝陽が、古びた天井に一本の筋を描いている。それを見るともなく見つめながら、フィオナは一、二、三と深呼吸をし、そうしてゆっくりと身体を起こした。ベッド脇に置いた丸いオケージョナルテーブルに目を遣ると、父親手製の目覚まし時計が軽快に針を動かし、すっかり夜が明けたことを報せている。
朝独特の澄んでひんやりとする空気を肺いっぱいに吸い込み、フィオナは悠然とベッドを降りて、カーテンの引かれた窓辺へと歩み寄る。近づけば近づくほど新鮮な空気の匂いがして、カーテンの端を摘んで一思いに開け放つと、まばゆい朝陽が燦々と降り込んだ。その気持ちよさに思わず顔が綻び、フィオナは両手を天井に突き上げてぐっと伸びをする。今日は雲ひとつない快晴だ。朝食は表のベンチで食べた方が美味しいかもしれない。
少し熱めのシャワーを浴び、洗いたてのワンピースに袖を通して、コーヒーを淹れる。朝食のサンドイッチは、半熟卵とマヨネーズを混ぜて作ったペーストを挟んだものと、ハムとチーズとレタスを挟んだものを作った。それからデザート用に、アレン――実際はシリウスだろうけれど――から貰った林檎をひとつ剥く。最近のおやつは専ら林檎だ。アップルパイ、タルトタタン、マフィン、林檎ジャムをのせたヨーグルト。それでも林檎はまだまだ余っている。相変わらずサボりにやってくるシリウスが、何個か丸齧りをしていたけれど、それでもまだたっぷりと。
サンドイッチも林檎もきれいに食べ終え、ミルクを垂らしたコーヒーをゆっくりと飲んでから、フィオナは愛用している小ぶりのバスケットを片手に作業場へと足を踏み入れる。調薬をする時に使うテーブルの方へ目を向ければ、そこには、少しずつ色の違う液体の入った硝子製の小瓶が三つ、等間隔に並べて置かれていた。それらひとつひとつを順に手に取り、隅から隅まで凝視して、何かおかしなところはないか注意深く探る。変色なし、沈殿物なし、分離なし。異常がないことを丁寧に確かめ、フィオナはほっと胸を撫で下ろしながら、それらを厚手の布にやさしく包んでバスケットの中へ入れる。ふと顔を上げて辺りを見回すと、花鋏やすり鉢、枝葉の切れ端や開きっぱなしの本が、テーブルのそこここに散らばったままだった。
昨夜はいつも以上に熱中してしまった、と、それらをひとつひとつ元あった場所に――或いはゴミ箱の中に――片付けながらフィオナは思う。悪夢を退ける為の薬は既にある程度調薬済みだが、治療薬の方に関しては、魔獣と対峙する騎士団員たちの為に少し工夫を施したく、あれこれと試行錯誤を重ねてみたのだ。漸く幾つかの薬草をブレンドすることで効力を高められることを見つけ、それを作るついでに、違う要素――疲れが癒えやすいとか、寝付きがよくなるとか、療養時に助けとなりそうなもの――を付与したものも試作した。もちろん人体に悪影響がないのは、自らの身体で確認済みである。
今日はそれを、王城にいるシリウスのもとへ持って行くことになっている。いつもであればシリウスか、或いはアレンがここへ来るのだけれど、どうやらここ数日は多忙のようで、あの出奔癖のあるシリウスですら王城を抜け出せないという。王都の中心部――しかも王城――へ行くのは気が引けるし、行きたくないというのが正直な本音ではあるけれど、しかし、試験薬を持って行かなければ先へ進めないということもまたフィオナはよく理解していた。魔獣の根城はまだ見つかっておらず、最近は魔獣の出没も確認されていないそうだけれど。だからといってのんびりしていられるわけでは、決してない。魔獣の行動は予測不可能だ。いつ彼らが現れ、いつ討伐戦になるか分からない。故に薬の完成と量産は、早いに越したことはないのだ。