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一縷の希望

 もう二度と恋なんてしない、と思った。もう二度と大切な人なんてつくらない、と誓いもした。少しずつ遠のいてゆく背中を見つめながら。溢れ出す涙で、顔をぐちゃぐちゃにして。


 一度だけ――たった一度だけ、“奇跡”に縋ってみようとしたことがある。今思えば、それはあまりにも浅はかな行動だったと分かるけれど。しかし当時は、本当に真剣だったのだ。真剣に“奇跡”を信じ、それに全身全霊をかけてもいた。


 ――エリオ・ブラン。王都の西地区で薬屋を営むブラン家の次男坊である彼は、フィオナの祖母がまだ健在だった頃から、しばしば薬草を届けに来てくれていた。ブロンズ色の短い髪の毛、アーモンド型の大きな目、無邪気なオリーブ色の瞳、血色の良い肉厚の唇。店から店へ、或いは家から家へと薬草を運んでいたせいで、日に灼けた彼の肌はいつも小麦色をしていた。とても健康的な、元気のいい肌の色。彼はとても気さくな性格で、誰に対しても常に分け隔てなく接し、特に子どもや老人には優しかった。


 そんなエリオとフィオナは歳がひとつ違いで、故に二人が親しくなるまでにそう時間はかからなかった。薬草を運んできてくれた彼とお茶を飲み、お菓子を食べ、時間が許す限りお喋りをし。時には二人で街へ出かけたり、湖畔を散歩したり、夜にこっそり抜け出して夜空を眺めたりもした。


 エリオもまた、“忘却の呪い”について知った時には大層驚いていたけれど、すぐに理解をしてくれた彼は、何があってもフィオナに触れようとはしなかった。映画を観に行った時も、夜の散歩に出かけた時も、二人で並んで作業をしていた時も、絶対に。小石に躓いて転けたフィオナに、エリオが咄嗟に手を差し出したことはあったけれど。「ごめん」とこぼして手を引っ込めた時の辛そうな――或いは悲しそうな――彼の顔は、今でもまぶしい記憶の中にしっかりと残っている。


 はじめはただの“友人”でしかなかった。よく家にやって来る、小麦色の瓜実顔をした気の良い青年。それまで友人とよべるような人間がひとりもいなかったフィオナにとって、だから彼は初めての“友人”だった。心から信頼出来る、とても大切な、たったひとりの“友人”。彼と過ごした日々は、今も色褪せることなく、頭の奥深いところできらきらと輝き続けている。何かの拍子に、ふっと思い出してしまうくらい、はっきりと。明瞭な輪郭を保って、それは今もフィオナの頭の奥底で眠りについている。忘れたくても忘れられないのだ。消したくても消せないのだ。彼と過ごした日々は、それほど尊いものだったのだから。忘れられるはずがない。消せるはずがない。だから、どれほど時間が過ぎようと、心に残った傷はそのままだった。薄いかさぶたを被った、けれどもぱっくりと割れたままの、深い傷。


 ――俺はやっぱり、君に触れたい。


 想いが募れば募るほど、相手を愛おしく思えば思うほど、互いのぬくもりを求めるようになってしまったのは、ある意味で必然だったのだろう。“触れなくてもいい”で通せていたのは、はじめの頃だけだった。“触れなくてもいい”で我慢出来ていたのは、まだ理性で制御出来るだけの感情しかなかった頃だけだ。しかし想いが膨れ上がれば膨れ上がるほど、それらを堪えるのはどんどん辛くなっていった。他の恋人たちのように身を寄せ合い、腕を組み、手を繋ぎ、抱擁をし、そうして唇を重ねる。そういった恋人らしいことの全てに憧れ、それらを無性に求めたくなった。腕を組みたい。手を繋ぎたい。抱き締め合いたい。キスをしたい。“呪い”のせいで、ひとつも許されないことは分かっていた。理解していた。けれどどうしても、したくてしたくてたまらなかった。誰よりも大切に想っているからこそ。彼のことを心から愛しているからこそ。


 ――安心してくれ。俺は君を忘れたりなんかしないから。絶対に。


 祖母に相談をすれば、きっととめられただろう。やめておきなさい、と。ただ辛い思いをするだけだから、と。それを容易に想像出来たから、フィオナはひとりで心を決め、そうして約束の日に、日がとっぷりと暮れるのを待ってから、こっそりと家を抜け出した。祖母の言っていることは最もだ。やめておいた方が安全だということも、分かっている。けれどどうしても、エリオの言葉を信じたかった。愛しているからこそ、彼の言葉を信じ、彼に全てを委ねたかった。


 ――俺の愛は、呪いなんかに負けるほどやわじゃない。


 それはフィオナもまた同じだった。エリオへ対する愛は、呪いなんかに負けるほど弱くはない。勇気と、希望と、信念と。それらにかたく包まれた愛は、もしかしたら、いやきっと、連綿と続く呪いに打ち勝つかもしれない。そうであってほしい。そうであってほしかった。絶対に。


 約束の場所――いつも散歩をする湖畔――に来ると、エリオはすでにそこにいて、暗青の水面にぽっかりと映るカスタード色の三日月を眺めていた。


 ――君に触れられるなんて、嬉しいよ。


 そう言って笑ったエリオの、喜びに充ち満ちた顔。母親に手を離されたあの日以降、フィオナが人に触れたことは一度もない。祖母はもちろん、時折絵葉書を送ってくれる父親も、親切にしてくれる商店の人々にも。だからとても嬉しかった。人肌のぬくもりを感じられることが。それを思い出すことが出来るのが。そしてそのぬくもりが、愛おしくてたまらないエリオのものであるということが。嬉しくて嬉しくて、どうしようもないほど嬉しくてたまらなかった。


 怖くないわけではなかった。不安がないわけでも、決して。けれどもそれ以上に、期待で胸がいっぱいだった。目の前に伸びる一縷の希望へ縋るのに、だから迷いはなかった。きっと私達なら大丈夫。きっと私達なら呪いに勝てる。そう信じていた。必死にそう信じ込もうとしていた。


 月はカスタード色なのに、大地に降り注ぐ月明かりは青白く、それに照らされたエリオのごつごつとした男らしい手が、ゆっくりとフィオナへ伸ばされる。まるでスローモーションのようだ、と思った。その一場面一場面を切り取って記憶に焼き付けたような瞬間。指先が頬に触れ、肌を滑り、そうして親指の腹が唇を撫ぜる。その感触で箍が外れたのか、エリオは一思いにフィオナの身体を抱き竦めた。逞しい腕で力いっぱいに。布越しに伝わってくるぬくもりの心地よさに、その愛おしさに、フィオナは思わずうっとりと目を細め、そうして静かに目を瞑った。ゆるゆると持ち上げた両腕を、少し恥ずかしく思いながらもエリオの背中に回し、まるで縋り付くように抱き締め返す。久方ぶりの人肌は、懐かしいというよりも、まるきり新鮮だった。身体をすっぽりと覆うぬくもりは、思わず涙が溢れ出しそうになるほどやさしく、心地よくて。ずっとこのままでいたい、と思った。ずっとこのまま彼の腕の中にいたい、と。このまま彼のぬくもりに埋もれ、心ゆくまで感じていたい、と。この愛おしいぬくもりが、身体にしっかりと染み付くまで。


 けれど、一縷の希望など、はじめから存在しなかったのだ。


 恍惚とした心地でエリオの胸に顔を埋めていたフィオナは、しかし次の瞬間、勢いよく身体を引き剥がされた。両手でがっしりと肩を掴まれて、無理矢理、強引に。

 驚いて顔を上げると、刹那、フィオナは愕然とした。彼女を見下ろすオリーブ色の瞳が、よく知ったエリオのそれではなかったからだ。もちろん目の前にいるのはエリオだ。ブラン家の次男坊である、気さくで誰にでも優しい、小麦色の瓜実顔をしたエリオ。月明かりに照らされたブロンズ色の髪の毛も、アーモンド型の大きな目も、血色の良い肉厚の唇も、何もかもいつものエリオのはずなのに。けれどもフィオナを見つめるオリーブ色の瞳だけは、フィオナのよく知るそれとはまるで違っていた。


 ――君は、誰だ?


 その一言だけで、フィオナを地獄へ突き落とすには、十分だった。

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