酷悪な呪い
「見るのは構いませんが、面白いものではありませんよ」
変わった人だ――という感想を抱くのは、しかし今にはじまったことではない。居間の西側に設けられた扉を開け、その奥に広がる作業場へシリウスを案内しながら、フィオナは半ば呆れつつ思う。当初こそ普通の王太子然としていた彼は、会う回数を重ねれば重ねるほど、言葉を交わせば交わすほど、“理解の出来ない男”としか思えなくなった。そもそも、用件もないのに頻繁にここへやって来ること自体、おかしな話である。どこかの美しい御令嬢のもとへ足繁く通っているというのならまだしも、ここはただの“魔女の棲む家”だ。麗しい御令嬢がいるわけでも、或いは、莫大な金品が眠っているわけでもない。
それに――。部屋の隅においていたスツールを入口へ移動させ、念の為綺麗な布巾で拭いながら、フィオナは胸の中で密かに溜息をつく。調薬の作業を見たい、と言われたのには驚いた。魔女が薬を作っているところを見たい、などと思う人間はそうそういないからだ。童話に出てくる悪い魔女は、火にかけた大鍋で黒とも紫ともつかない液体をぐつぐつと煮詰めているけれど、あれはあくまで創作された“魔女像”にすぎない。けれどもそれが、人間にとって初めて知る“魔女”である為か、それが当たり前だと思っている人が多いのが現実である。故に、作業場どころか、家に近づくことすら敬遠する人が多いのだけれど――。
シリウスがスツールに腰掛けるのを視界の端で捉え、フィオナは水場で丁寧に手を洗ってから、少しばかり緩んだエプロンの紐を結い直す。調薬というのは、実はとてもこまかな作業が多い。大釜にばしゃばしゃと材料を――瓶いっぱいの液体を丸ごととか、干からびた蛙やミミズをそのままとか――入れることは、もちろんない。
もしかしたらシリウスも、そういう大仰で面白い場面を見たがっているのだろうか。薬草の茎についた棘――これを一緒に煮込むと渋みが出てしまう――を一つ一つ丁寧に取り除きながら、フィオナは背中にじっと据えられた視線についそわそわしてしまう。いつもの作業場のはずなのに。見慣れたテーブル、使い慣れた器具、嗅ぎ慣れた薬草の匂い。何もかもがいつもと同じはずなのに、何故だかその視線が――正確には彼の気配が――あるだけで、全く別の、見知らぬ場所にいるかのような錯覚がしてしまう。居心地が悪くてたまらない。
「いつから調薬をやっているんだ?」
唐突に問いかけられ、フィオナは思わずびくりと肩を震わせ、そうしてゆっくりと息をする。作業場に誰かがいるのは、祖母がいなくなってから、殆ど初めてのことだった。故にどうしても、違和感が拭えない。
「七歳の頃からです。もちろん、はじめは簡単なものしか作れませんが」
「魔女の世界ではそれが普通なのか?」
「ええ。覚えることがたくさんありますし、修行も大変ですから」
棘を取り除き終えた茎の束をテーブルの端へ移し、今度は花鋏を手に取って、愛らしい紫色の小花のついた枝を程よい長さに切ってゆく。その間にもシリウスは、一つ、二つと質問を寄越し、それに対してフィオナは律儀に答えを返す。しかし、やがて彼は満足したのか、それとも飽きたのか、シリウスは問いを向けてくることはなくなった。静寂を取り戻した室内に、枝を切る音だけが響き渡る。
いつまでそうしていただろう。枝を切り、葉を一枚一枚毟って、沸騰させた湯の中に浸す。そんな作業を幾つかこなし、それでもシリウスはただただ静かにフィオナの様子を眺めていた。作業の合間に、ちらっとさり気なく盗み見たかんばせは、心做しか愉しげで。それがフィオナには、不思議でたまらなかった。手を動かしているのならまだしも、彼はただ入口に置かれたスツールに腰掛け、組んだ脚に頬杖をついて、作業に従事するフィオナの姿を眺めているだけなのに。そこに何か面白いことがあるとは、到底思えないのだけれど。それでもシリウスは、形の良い唇に薄っすらと微笑を湛えていた。
そんな彼は、やっぱり変わり者なのだろう。そう結論付けながら、フィオナは水に濡れた手をタオルで拭って、東側の壁一面を覆う大きな本棚へと歩み寄る。胡桃の木で造られたそれはとてもずっしりとして、仮漆の塗られた表面は今も艷やかだ。幾つもある棚板には色とりどりの背表紙が所狭しと並べられ、あぶれたものは本と棚板の間に差し込まれるようにして置かれてもいる。これらは全て、祖母が集めた薬草と調薬の本だ。中には、今では手に入らない貴重な代物もある。
そんな書物がぎっしりと詰められた本棚の前で足を止め、フィオナは自身の背よりも高いところにある棚板を見上げた。右から三番目の、モスグリーンの背表紙をした分厚い本。表面の刻印はすっかり擦れてしまい、今では所々薄っすらと残る文字をどうにか判別出来るくらいだが、しかしフィオナにはそれが調薬の本であることは、もちろん分かっている。悪夢に効く薬の調合方法は、この書物に記載されていた。ローズマリーが欠かせないことや、マジョラムを合わせるのも良いということも。
調薬を始める前にもう一度内容を確認しておこう、と、フィオナは踵を上げて爪先に重心をかけると、目的の本へ向けてぐっと腕を伸ばす。脇や肩が痛くなって、肘のあたりが吊ってしまいそうになるくらい、ぐぐっと。いつもは踏み台を使って取るのだけれど、それは今キッチンに置いているのでここにはない。仕方がないのでなんとしても背伸びして取りたいのだけれど、しかし指先どころか爪の先すら背表紙には届かない。掠りすらしない。これはやっぱり、大人しく踏み台を持ってきた方が良いだろうか。そんなことを考えながら、もう一踏ん張りしてみようと、更に足先へ重心をかけた――その時だった。ふっと、薄暗い影に呑まれたのは。
「これで良いのか?」
背後から伸ばされ、視界の中に突然現れた大きな手が、モスグリーンの本を棚から抜き出す。その光景を、フィオナは唖然としながら見つめていた。爽やかな香気がふわりと鼻をかすめ、背後から人間の濃い気配がする。まるでぬくもりの滲んでいそうな、濃密な気配が。動かなければいけない、と、頭の中で警鐘が激しく鳴っているというのに。本能のような何かが、胸の中で暴れ回ってせっついているというのに。けれどもフィオナは、本を掴む大きな色白の手を見つめたまま身動きすることが出来なかった。瞬くことも、息をすることも、もちろん逃げることも、何もかも。
――君は、誰だ?
しかし、鼓膜の裏側に懐かしい声が響き渡った途端、フィオナはぎょっとして、弾かれたように肩を震わせた。そうして無我夢中で身体を振り向かせると、勢いよく後退りし、背後に聳え立つ本棚へ半ばぶつかるようにして背中を押し付け、声にならない声を呑み込んだ。心臓が、どくどくと激しく鳴っている。今にも皮膚を破って飛び出してくるのではないかと思うほど、荒々しく。
そんなフィオナの様子を見下ろし、シリウスは困ったように眉尻を下げると、苦しそうに小さく笑って、距離をあける為に一歩後退った。
「安心しろ。君に触れてはいない」
本を取ってくれただけだということは、分かっている。無理に背伸びして取ろうとしていたのを見兼ねて、親切心でそうしてくれたことも、分かっている。
けれど――。未だ忙しない心臓の音を煩く思いながら、フィオナは詰めていた息をゆっくりと吐き出し、そうして差し出された本をおずおずと受け取る。
「あ、ありがとう……ござい、ます……」
身体のそこここに、恐怖がべっとりとこびりついているような感覚がする。こびりついたそれらは、あちこちでけたけたと声をあげて嘲笑っているような気も、する。少しでも気を緩めると、たちまちそれらに呑み込まれてしまいそうで恐ろしく、フィオナは微かに震える唇をぎゅっと噛み締めた。
――君は、誰だ?
あの懐かしい声がまた耳の中にこだまして、フィオナは茫然とする。君は、誰だ。君は、誰だ。君は、誰だ。その声が響けば響き渡るほど、脳裏に浮かんだ小麦色の瓜実顔が少しずつ明瞭になってゆく。アーモンド型の大きな目、血色の良い肉厚の唇。
「……触れられないというのは、実に苦しいものだな」
頭上からこぼれ落ちた弱々しい声に気付いて、フィオナは慌てて顔を上げる。目が合うと、シリウスはやさしく、けれどもどこか悲しそうに笑った。切なく、遣る瀬無さそうにも。
「今にも泣き出しそうな君を、撫でることも、抱き締めることも出来ないのだから」
そう囁いてシリウスはふっと笑みを深めると、そのまま踵を返し、一度も振り返ることなく作業場を出て行った。ガチャ、と小さな音を立てて扉が閉まった瞬間、まるで糸が切れたように、フィオナはずるずるとその場に崩折れる。シリウスの出ていった扉を見つめたまま。彼が取ってくれた本を両腕でぎゅっと抱き締めて。
――君は、誰だ?
記憶を消してしまった方が良い、ということは分かっている。彼の記憶を消してしまえば、もうここへは来なくなるのだから。そうすれば全てが過去になる。過去になって、何もかもが“なかったこと”になる。
しかしその一方で、もう遅いのだということもまた、フィオナは分かっていた。記憶を消すなら、もっとずっと前にやっておかなければならなかった。まだ今よりももっともっと想いが小さかった頃に。芽吹いたばかりの時に消しておけば、傷はもっと浅く済んだはずだった。でも。でも――。
何故、“自覚”した後でしか、記憶を消せないのだろう。扉からゆるゆると視線を逸らし、抱き締めた本に顔を埋めながら、フィオナはそっと目を閉じる。どうして“自覚”をした後でなければならないのだろう。何の感情も抱いていない時にそうすることが出来たなら、赤の他人へ戻ることに苦しむことはないのに。
そう思う度、やはりこれは“呪い”なのだと痛感する。特別な感情がない時に記憶をなくしたって、“呪い”としては何の意味もないのだ。特別だから。愛しているから。そんな相手の記憶から消えてしまうからこそ、これは正に酷悪な“呪い”なのだ。




