立派な魔女
「大丈夫ですよ。貴女は十分、立派な魔女です」
瑞々しい林檎の一切れにフォークを突き刺しながら、アレンがにこやかに目を細める。
「現に僕は、貴女の淹れて下さった紅茶を飲んだり、手作りのお菓子を食べたりして、身体がふっと軽くなった経験がありますから。疲れがとれた、というんでしょうか。本当に、とてもすっきりするんです」
「……お前、いつ菓子なんて食べたんだ」
「何度かありますよ。殿下を探しに来た時とか、あとは薬を少し頂きたくてお願いに来た時とか」
シリウスは不機嫌そうに眉根を寄せるが、しかし当のアレンは主人の睥睨など全く気に留めていない様子で、甘い香りを仄かに漂わす林檎を嬉しそうに頬張った。
紅茶を淹れる時、お菓子を作る時。茶葉や生地にほんの少しだけ魔力を溶かすのは、ベテラン魔女と謳われ、多くの人々から慕われていた祖母の真似事だった。彼女の作るお菓子や紅茶は、食べる者飲む者をやさしい力で元気にする。そもそも魔力とは、それ自体に何かしらの性質や固有の作用があるわけではない。魔力そのものは常にフラットだ。故に魔力を用いて何かを行うには、“イメージ”或いは“想い”のようなものが必要になる。例えば、疲れが癒えて元気になった姿だったり、悪夢から解放されてすっきりとした晴れやかな笑顔だったり、はたまた腰痛が癒えてるんるんと散歩をする姿だったり。そういったものを都度イメージし、それを魔力にのせて薬や食べ物に溶け込ます。その技術は、慣れないうちはとても苦労する。うまくイメージが出来なければ、それが魔力に宿ることも、作用を得て変質することもないのだから。
確かにアレンに渡したお菓子や紅茶には、いつもちょっとだけ魔力を溶かし込んでいた。彼はいつも――厄介な主人のせいで――疲れているように見えたので、少しでも元気になればという想いでそうしていたのだけれど。彼の言葉が本当ならば、どうやら効果はあったらしい。
「俺も、君の淹れた紅茶を飲むと元気になる」
「おかしいですね。殿下にお渡しするものには、基本的に何もしていないのですが」
「おいおい……何故俺だけ……」
「殿下はこの国の未来を背負う王太子ですから。私の魔力のせいで何かあってはいけませんもの」
組んだ足に頬杖をつき、シリウスは不満げに溜息をつく。けれどもすぐに居住まいを正すと、彼は宝石のように美しいアイスブルーの瞳で、フィオナの双眸を力強く見据えた。その眼差しに、フィオナは思わずどきりとする。なんてまぶしいのだろう、と、感嘆に似た思いを抱きながら。
「君の力を貸してくれないか」
とても真っ直ぐな声だ、と思った。真っ直ぐで、とても優しい、まるで太陽のようにあたたかな声。何もかも――不安や恐怖や、自信のなさまで――すっぽりと包みこんでしまうような包容力さえ感じられる。
紅茶を一口飲み、フィオナはそっと息を吐く。躊躇いがないわけではない。自信があるかといえば、そうでもない。やれることには限界がある。薬作りに優れていた祖母ほどの能力はないのだから。
それでも――。一度だけゆっくりと瞬きし、フィオナはティーカップをソーサーの上に戻す。そうして正面から向けられる強い瞳をしっかりと見つめ返し、彼女はにこやかに微笑んで顔を縦に振った。
「わかりました。どちらの薬もご用意いたします」
***
メモに書きつけた通りの薬草が王宮から届けられたのは、王太子直々の依頼を受けてから十日後のことだった。
アレンの乗ってきた荷馬車には、大小さまざまな木箱が所狭しと並べられていた。中には大ぶりのバスケットや麻袋、布と革紐で巻かれたものも幾つか積まれている。それらを二人がかりで裏庭の倉庫へ運び込み、ひとつひとつ箱の中身を確認してラベリングしてゆく。薬草に関する基礎知識が少なからずあるのか、アレンは意外にも見分けがよく、そのおかげで、作業は当初想定していたよりも随分と早く終わった。
手伝ってもらったお礼に、お茶とお菓子をごちそうしようとしたけれど、まだ仕事が残っているからと言って、アレンは陽が傾き始める少し前に帰っていた。本当に真面目な人だ、と、そう感心しながら遠のいてゆく背中を見送り、鬱蒼とした木々の中に隠れて見えなくなったところでフィオナは深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。それから踵を返して裏庭へ回って倉庫へ足を踏み入れると、種類ごとに分別して積み置かれた木箱の一つを開け、中に詰め込まれた薬草を幾つか取り出した。
二種類の薬を一気に作るのは、難しい。身体はひとつしかないので、作業量にはどうしても限界がある。悩んだ末に、先ずは悪夢用の薬を煎じることにした。使う材料も工程も比較的少ないので、第一弾の引取日――七日後――までには、ある程度の量を作っておくことが出来るだろう。
籠いっぱいに必要な薬草を入れて母屋へ戻ると、フィオナは早速身支度を整え、作業場の前に立った。もうすぐ夕飯の時間だけれども、頭の中は既に調薬のことでいっぱいだ。いざやる気になると、途端に周りが見えなくなるほど作業にのめり込んでしまう。時間のことも、食事のことも、何もかも忘れて、自分の世界に閉じこもり、ただただ作業に没頭する。それはフィオナの良いところであり、また悪いところでもあった。
だからだろう。ドンッ、と大きな音が鳴り響くまで、フィオナは扉の外に人の気配があることにまるで気が付かなかった。
時計を見遣ると、時刻はすっかり宵の口を過ぎていた。こんな時間にいったい誰だろう、と考えたのは、ほんの一瞬。すぐにアレンが去り際に残した言葉を思い出し、フィオナは慌てて手を拭うと、大急ぎで扉へ駆け寄った。念の為小さな穴を覗いて外にいる人間を確認するが、見えるのは月明かりに照らされた美しい白銀だけ。それを認め、ほっとしながら、フィオナは錠を解いて扉を開ける。
玄関脇に取り付けたランプのあたたかな灯りを浴び、そこにはやはり、いつ見ても変わらぬ穏やかな笑みを湛えたシリウスが立っていた。
「何かしていたのか?」
咎める風ではなかったけれど、対応が遅れたことを気にしているのだろう。いつものラフな出で立ちで訪れたシリウスを室内へ招き入れながら、フィオナは心苦しく思いながら目を伏せる。
「申し訳ありません。調薬をしていたものですから……」
「もしかして、依頼していた分をか?」
「ええ」
相も変わらず窓辺のソファへ歩み寄ったシリウスは、しかしはたと足をとめ、入口の傍に立ったままのフィオナの方へ振り返った。
「ならば、見ていても構わないか」
「え?」
何のことを言っているのかすぐには分からず、フィオナは困惑しながら首を傾げる。けれどもそんな彼女を見つめるシリウスの顔は、何故か無邪気な子どものように爛々としていて。それが好奇心によるものだと察して漸く、フィオナは彼の言葉の意味を理解した。
「見るのは構いませんが、面白いものではありませんよ」




