小麦色の瓜実顔
騎士団の制服に包まれた逞しい背中を、半ば呆けた心地で見つめていたフィオナの脳裏に、ふと、懐かしい横顔が蘇る。大人びた雰囲気の中に、どことなくあどけなさも残る、小麦色の瓜実顔。アーモンド型の大きな目と血色のよい肉厚の唇が特徴的なそのかんばせは、無邪気にくしゃっと綻んで、溌剌とした爽やかな笑みを湛えている。よく知った、とても懐かしい笑い方で。けれどそれは、全く知らない、初めて見るような笑顔。
ぎょっとして息を呑み、フィオナは慌ててかぶりを振った。そうすることで頭の中に浮かんだ鮮明な記憶を掻き消そうとするけれど、しかし、そこここにべっとりとこびりついた残渣が、否が応でも胸を締め付ける。目に見えない手で、ぎゅっ、と鷲掴みにされたみたいに。あのごつごつと骨の張った、男らしく逞しい大きな手で、ぎゅっ、と。
詰めていた息をゆるゆると解き、ゆっくりと深呼吸をして、フィオナは戸棚に手を伸ばす。ティーカップを三つと、剥いた林檎を盛る為の小皿、それからぷっくりと丸い白磁のティーポット。それらを順番にひとつずつ取り出しながら、頭の中の“過去”から、両足のついた“今”へ少しずつ意識を戻す。アーモンド型の目から黒色のキャニスターへ。微笑を湛えた肉厚の唇から琺瑯製のケトルへ。小麦色の瓜実顔から真っ赤に熟れた瑞々しい林檎へ。
――君は、誰だ?
どこか遠いところで、男の囁く声が聞こえたような気がした。けれどフィオナはそれに意識を向けることはせず、手早くお湯を沸かして紅茶を淹れる。林檎はずっしりして艶のあるものを一つ選び、よく洗った後に八等分に切って小皿に盛った。
「あの看板はそのままにしておくのか?」
ティーカップや小皿をのせたトレイを手に居間へ戻ると、すかさずアイスブルーの瞳に捕まり、愉しげな声でそう問いかけられた。どうやら森の入口に立つあの看板――悪戯好きの子どもたちが作った看板――の話をしていたらしい。テーブルにカップと小皿を並べながら、フィオナは薄茶色の木板に書かれた文字を胸の中で諳んじる。魔女の棲む家。まじょのすむいえ。
「いつもそのままですから。子どもたちが飽いたら、そのうち引っこ抜くでしょう」
それまでは、そのままにしておくつもりだった。今までの看板――ざっと数えて五つはある――と同じように。看板があるからといって、何かあるわけではないのだから。ひと気のまるでない鬱蒼とした森にわざわざ足を踏み入れようと思う人間は、そんな看板がなくとも自らの意思でここまでやってくる。フィオナにとって好むと好まないとに関わらず。
「いっそ表札として名前を書いたらどうだ?」
「嫌ですよ。今のままで十分です」
アレンの斜向かいにスツールを置いて腰掛け、フィオナは使い慣れたティーカップの滑らかなハンドルにそっと指を絡ませる。東方の国で作られる茶葉は格別だ、と紅茶商のおじさんが言っていたけれど、確かに湯気に混じった芳香は、上品な爽やかさがあってとても良い。赤褐色水面に、窓から差し込む葉漏れ日が落ちて、小さな光の粒がきらきらと輝いている。
「あとでアレンが書いておくさ」
「やめてください。僕がフィオナ嬢に叱られてしまいます」
「べつにいいだろう? 少しは好感度が下がったって」
「なんですか、好感度って」
はぁ、と、呆れの滲んだ溜息をたっぷりと吐き出すアレンを横目に、フィオナは小さく苦笑をこぼしながら、ティーカップの薄い縁にそっと唇を寄せる。折角林檎が山のようにあるのだから、一つは薄くスライスして、フィレッシュなアップルティーを作るのもいいかもしれない。茶葉は甘い香りのするアッサムで、はちみつを少し溶かしても美味しそうだ。
「ああ、そういえば」
何かを思い出したように、アレンがフォークを手にしたまま、はたと動きを止める。
「最近、魔獣の出現報告が増えていまして。外出する時はお気をつけください」
そう言って振り向いたアレンの真剣なかんばせを見つめ、フィオナは紅茶を飲もうとしていた手をとめて、僅かに目を見開かす。
「魔獣が、ですか……?」
「ええ。どこかに根城を作られてしまったのかもしれません」
基本的に魔獣が跋扈しているのは、人間の生活圏の外側だ。例えば王都を取り囲む市壁の外側に広がる奥深い森や、国境の間近に横たわる大河や鬱蒼とした密林に、彼らの多くは身を潜めている。その為、国を行き来する貿易商や行商人などは経験豊富な武人を護衛に雇うのが殆どだ。もっと懐に余裕があれば、魔女を同伴させることもある。
つまりそういった場所に足を踏み入れさえしなければ、市壁に護られているので、魔獣に出くわすことは滅多にない。しかし時折、彼らが市壁の内側に根城を構えることがあった。どうやって内側へ入ってきたのか、その経路も原因もまるで分からない。偶発的なものなのか、それとも、誰かが意図して招き入れでもしているのか。
兎も角、市壁の内側に入ってきた魔獣は、人々に危害を加わる前に退治しなければならない。その任を負うのが、王家直属の騎士団である。
「そのことで、君に頼みたいことがあるんだが」
半欠片ほどに減った林檎を一口で飲み込み、シリウスは銀製のフォークを小皿の上に戻して、正面に座るフィオナの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「根城を見つけてそこを潰すまでは、暫く魔獣との戦いが続くだろう。そうなると、以前のように悪夢に魘される団員も出てくるはずだ」
言わんとしていることを察し、フィオナは手元のティーカップに視線を落としながら、物憂げにわずかに瞼を伏せる。悪魔に魘されていた団員たちに、もしかしたらあの薬は、多かれ少なかれ何かしらの良い影響があったのかもしれない。それならそれで喜ばしいことだ。誰かの力になれたのなら、それは純粋に嬉しい。
けれども――。
「そこで君に、あの時煎じた薬を一定量用意してほしい。それと、傷を癒やす治療薬も併せて。もちろん林檎が対価とは言わない。報酬はきちんと支払うし、作るのに必要な材料があれば、こちらで全部用意する」
ゆっくりと顔を上げ、フィオナは真正面に腰掛けるシリウスの、真っ直ぐに向けられるアイスブルーの瞳をおずおずと見つめ返す。薬を用意する分には、構わない。力になれるのならそうしたいとも思う。
けれど――。カップのハンドルを握る指にそっと力をこめながら、フィオナは胸の内側で重々しい溜息をつく。用意するのは構わない。力になりたいとも思う。けれど彼は、フィオナの持つ力――調薬の腕や魔力――を買い被っているような気がしてならなかった。調薬も魔力も、祖母に比べれば――そして多分、母親や、彼女にそっくりだった二人の姉と比べても――随分と劣るというのに。
「用意するのは構いません。しかし……確か王都には、他にも数人の魔女がいたと思うのですが」
「彼女たちではなく、何故自分なのか――と、そう言いたいのか?」
こくり、と小さく頷くと、シリウスはひとつ間を置いて、それからくつくつと喉を鳴らして笑った。形のいい唇は緩く弧を描いているというのに、じっと向けられる切れ長の目は――その真中で輝くアイスブルーの瞳は――実に真剣だった。その実直な眼差しに、フィオナは思わずたじろぐ。
「君は少し卑屈なところがあるな」
そう言って、シリウスはティーカップに手を伸ばす。そんな彼の洗練された仕草を目で追いながら、でも、とフィオナは胸の内側で密かに反論する。でも貴方は祖母たちを知らないから、と。祖母も母親も、そして二人の姉たちも。
しかしそれはある意味でフィオナ自身もまた同じことだった。近年までともに住んでいた祖母は兎も角、遠い昔に出ていった母親――死んだのは祖母から聞いた――や姉たちのことはあまり知らないのだから。どんな薬を作っていたのか、どれほどの魔力を持っていたのかなんて、全く。




