忘却の呪い
――あなたは、誰?
その一言とともに離された手の感触を、ぬくもりを、フィオナは今でもはっきりと憶えている。
“忘却の呪い”が発覚したのは、三歳の誕生日を迎える少し前のことだった。
時計職人の父親と魔女の母親の間に産まれたフィオナは三姉妹の末っ子で、姉二人とはそれぞれ二つ、三つ歳が離れていた。二人の姉は何事もなく無事に成長をしていたので、両親はきっと「この子も大丈夫だろう」と思っていたことだろう。或いは、そう信じ込もうとしていたに違いない。
しかし現実は、そうはうまくゆかなかった。
きっかけは、母親の手を掴んだことだった。散歩に出かけ、道端に転がっていた小石に躓いて転んだフィオナを立ち上がらせようと差し出された母親の手を掴んだ、その瞬間。それが全ての始まりだった。“愛”というものから隔絶された瞬間。
――あなたは、誰?
何を言っているのか、分からなかった。何を言われたのか、理解できなかった。ただ茫然と立ち尽くすことしか出来ないフィオナを、母親はきょとんとした顔で見つめ、ただただ首を傾げては、駆け戻ってきた姉二人に「この子は誰?」と問うばかり。そんな母親の様子を見て、姉たちも困惑していたのは言うまでもない。「ママ、何言ってるの?」「この子はフィオナだよ?」と彼女たちが口々に答えるけれど、それでも母親はフィオナをフィオナとして、三姉妹の末っ子として、我が子のひとりとして認めることはしなかった。
――私の子どもは、貴女達だけよ。
そう言って姉二人を抱き締める母親に、フィオナは愕然とし、そして絶望した。本当は縋り付いて泣きたかったけれど。泣いて泣いて、その腕の中に入れてくれ、と言いたかったけれど。しかしついぞそうすることは出来ず、フィオナはただ“我が子”を抱き締める母親を、そのあたたかい腕の中に顔を埋める姉たちを、失意に暮れながら眺めていることしか出来なかった。
――貴女はね、“忘却の呪い”にかかっているの。
母親の豹変が“呪い”のせいだと教えてくれたのは、同じ魔女である母方の祖母だった。“忘却の呪い”とは、何百年もの長きに渡り多くの魔女たちを苦しめてきた忌まわしき呪いだ、と。その呪いにかかると、愛する者の記憶から消えてしまうのだ、とも。
魔女であれば必ずかかるというわけでは決してなく、呪いを受ける魔女は無作為で――神か、或いは悪魔の手によって――選ばれ、そこに遺伝的な要因はまるでない。事実、呪いにかかったのはフィオナだけであり、姉二人も、母親も、そして祖母も、“忘却の呪い”を受けることはなかった。理由は、もちろん分からない。魔力の量も、出生の順も、物覚えの善し悪しも、何もかも全て関係がなかったのだから。
本来は、ある程度自我が確立された頃に発覚するという。何故ならば“忘却の呪い”が働くのは、呪いを受けた当人が“愛している”と自覚した相手のみだからだ。そこには家族や友人などに対する“親愛”もあれば、恋人などに対する“恋慕”も含まれる。しかしまだ三歳にも満たない幼いフィオナには、“愛する”という感情の区別は難しい。故に祖母は、“呪いの暴走”或いは”呪いの誤作動”だと言っていた。母親へ対する愛――子どもならば誰しもが持っているであろうその純粋無垢な感情に、忌まわしき呪いは反応してしまったのだ。
その一件以来、母親の頭の中からフィオナに関する記憶だけが、きれいさっぱり消えてしまった。そして彼女は死ぬその時になっても、自身に三人目の娘がいたことを、ついぞ思い出すことはなかった。
戸を叩く音が聞こえ、フィオナは伏せていた瞼をゆっくりと上げる。春の陽気に誘われいつの間にか眠ってしまっていたようで、戸棚の上に置いた時計へ目を向けると、時刻はすっかり正午を回っていた。
もう一度戸をノックされたので、フィオナは慌ててソファから立ち上がり、足早に玄関へと近寄る。念の為小さなドアスコープから外を覗い、そうして手早く錠を開けて扉を開けると、そこにはオリーブ色の綺麗な瞳をした男が、大きな籠を片手に抱えて立っていた。
「お久しぶりです、フィオナ嬢」
「ええ、お久しぶりです、アレン様」
アレン・ローレンス。ローレンス公爵家の一人息子であり、精鋭揃いの騎士団の中でも頭抜けて剣術に優れた天才。王太子であるシリウスが最も信頼を置く従者であり、彼のサボり場所がここであることを知る唯一の人物だ。
「今日はどのようなご用件で?」
「実は北方の同盟国から、林檎をたくさんいただきまして。日頃ご迷惑をおかけしているお詫びに、お裾分けに伺いました」
そう言って微笑むアレンの顔から視線を逸らし、彼の逞しい片腕に抱かれた籠の中へと目を向ける。そこには確かに、真っ赤に熟れた艷やかな林檎が、今にも溢れ出しそうなほどたくさん詰まっていた。
嬉々としながら顔を上げたフィオナは、しかし、アレンの肩越しに現れた顔を見て、すぐに眉根を寄せる。てっきり一人で来たのかと思っていたのだが、やはりというべきか、どうやらそうではないらしい。
「やあ、久しぶりだな」
「……三日前にお会いしたばかりですが」
にこやかに目を細めた男――シリウスから早々に顔を背け、フィオナは扉を大きく開いて、二人を室内へ招き入れる。
「すみません。本当は王宮に置いてくるつもりだったのですが」
苦笑をこぼしながらやれやれと肩を竦めるアレンに、フィオナは同情を込めた溜息をつく。王太子という身分の人間が、ほいほいと外出が出来るほど暇ではないことくらい、考えるまでもない。従者として執務の補佐をこなしながら、度々出奔する主人を探し回り、そして時には子どものように駄々を捏ねる――と、勝手に想像している――主人を宥めなければならない彼の苦労を思うと、頭が痛くなる。
「林檎はどこに置きましょう?」
「キッチンへ運んでいただけると嬉しいです」
いつもの席――窓辺のソファ――に腰掛けたシリウスを余所に、フィオナは先に立ってアレンをキッチンへ連れてゆく。小ぢんまりとしているが、所々に埋め込まれた小花のタイルや、レースのカーテンが取り付けられた小窓、細緻な花の彫り込みがされた食器棚が置かれた日当たりの良いキッチンを、フィオナは調合場所の次に気に入っている。時々スツールに腰掛けて読書に耽るくらいには、とても。
「丸々とした、とても美味しそうな林檎ですね」
レースのクロスがかけられたテーブルの上に籠を置いてもらい、フィオナは早速中を覗き込む。大ぶりのものを選んでくれたのか、それとも、北方の国で穫れる林檎は総じて大きいのか。真っ赤な林檎はどれもずっしりとしていて大きく、仄かに甘い香りがする。
林檎の皮は爽やかな匂いがするので、天日干しでしっかり乾かしてからポプリにするのがいいだろう。林檎の香りは安眠にもいい。皮を剥いた後の果実は、やはり定番のアップルパイにするべきだろうか。シリウスは意外にも甘いものを好む。新鮮なままタルトにするのも美味しそうだが、焼いて甘みを増させた方が――
「アップルパイは、ここ最近よくデザートに出てくるようなので、他のものの方が良いかもしれません」
林檎を掴もうとしていた手をはたと止めて、フィオナは隣に立つアレンの顔を仰ぎ見る。目が合うと、彼はまるで何もかもお見通しだと言わんばかりにやさしく微笑んだ。そのかんばせに、フィオナは思わずどきりとする。
「シリウス様は、甘いものがお好きですから」
何も言い返せずにただ立ち尽くすだけのフィオナを見つめ、アレンは愉しげに笑みを深める。
否定をするべきか、それとも肯定をするべきか。余裕たっぷりの朗らかな眼差しを受け止めながら、フィオナはスカートの端をきゅっと握り締める。否定をするにしても、肯定をするにしても。果たしてそれは、何に対してするべきなのだろう。アップルパイのことについてか、はたまた、シリウスのことについてか。
考えれば考えるほど頭の中がぐちゃぐちゃになってしまいそうで、たまらず唇を引き結んだフィオナに、アレンはふっと吹き出す。
「――アレン」
そんな彼の背中へ向かって、心做しか不機嫌な声が居間の方から飛んできた。その声に、アレンは呆れたように肩を竦めて見せると、山の一番上から林檎を一つ手に取って、颯爽と居間の方へ戻っていった。