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 シリウスが初めてこの家を訪れたのは、数ヶ月ほど前の、青さの増した森に薫風が吹き抜ける季節のことだった。


 玄関口に立つ彼を見て、それまで王族と直接的な関わりのなかったフィオナが驚愕したのは言うまでもない。事前の連絡なんてものはもちろんなく、それらしい兆候――噂話や人の行き来――があったわけでもなく、フィオナにとってそれは、正に青天の霹靂だった。言葉の通り、その日はすこぶる美しい青空だったことを憶えている。


 秘密裏での訪問だった彼は、どこでも買えるような安価な衣服を纏い、王族であることを示すような装飾品は何もつけず、従者も一人だけしか連れていなかった。それでも、彼が“ただの平民”などではないと一目で見抜けるくらいには、滲み出る高貴さは少しも隠せてはいなかったけれど。


 用件を聞くと、彼は端的に「“忘却”の力を貸してくれ」と言った。ひどく真剣な面持ちで。その為の報酬は惜しまない、とも。話を深堀ってみると、どうやら魔獣襲撃事件の討伐に出向いた団員の何人かが、連夜に渡って酷い悪夢に魘され続けているという。そのせいで、睡眠どころか食事までままならなくなり、仕事にも支障をきたしているそうだ。


 恐らくは魔獣と対峙した際に植え付けられた恐怖が原因だろう。心に負った傷が悪夢という形で現れるのは、よくある話だ。悪夢からも心の傷からも逃げたくて、原因となったものを忘れ去りたいと望むのもまたよくある話である。同じような依頼を持ちかけられることは、今までに幾度もあった。失恋の記憶を消してほしい、暴力を振るわれた記憶を失くしてほしい、今は亡き人との記憶を思い出さないようにしてほしい――。


 けれどもフィオナが彼らに返せるのは、常に断りの返事だけだった。時には気を楽にするような薬や、心を落ち着かせるようなポプリを渡したことはあるけれど。それでも基本的にフィオナは、“記憶を消す”という依頼にはかぶりを振るしかなかった。してあげたくないわけではない。出来ることならば、望みを叶えてあげたいと思っている。しかしフィオナにはそうしてやることが、どうしても出来なかった。


 “忘却”の力がないわけでは、決してない。ただ、それの効力が働くには、ある条件が必須だった。とても範囲の狭い、当てはまる人間の方が少ない“条件”が。故に、誰にでも“忘却”を与えてやれるわけではなかった。そしてそれは、悪夢に魘されている団員たちもまた同様だった。


 ――君が触れれば、誰でも記憶を消せるんじゃないのか?


 訝しげな顔でそう問いかけられた時のことを思い出しながら、フィオナは沸いたばかりのお湯で紅茶を淹れ、早朝作ったビスコッティを小皿に盛る。なんとも苦々しい思い出だ。依頼を断る時の遣る瀬無さは、それから暫く身体に、或いは頭に纏わりつく。皆が皆、真剣に、そして切実に願っているからこそ、何もしてやれないことがとても歯がゆくてたまらない。


 結局あの時に団員たちへしてやれたのも、悪夢に良いとされる薬草を煎じて渡すくらいだった。二週間ほど経つと彼等は悪夢を一切見なくなったようだが、それが薬草の効果によるものなのか、それとも幾らか混ぜておいた魔力によるものなのかは、直接彼らを診たわけではないので、分からない。無事全員回復した、と報せに来たシリウスは、「君のおかげだ」と言ってとても感謝してくれたけれど。しかしフィオナ自身には、本当にそうなのか、と、あまり信じることが出来なかった。


 だから――。ティーカップと小皿、それからはちみつの入った小瓶をラタン製のトレイにのせながらフィオナは思う。だから彼がここを訪れる理由が分からない、と。頼まれごとは疾うに済んだというのに。それでも適当な用事を作ったり作らなかったりまでして、未だにここへ足を運ぼうとする理由が分からない、と。


 ゆっくりとした足取りで居間へ戻ると、シリウスは相変わらずソファに腰掛けたまま、肘掛けに頬杖をついて窓の外を眺めていた。王都の街並みほど何かがあるわけではない、ただただ長閑なだけの風景を。心做しか、楽しそうに。


「これを飲んだら帰って下さい」


 テーブルにティーカップと小皿を並べ、フィオナはシリウスの向かい側に腰掛ける。その様子を横目で眺めていた彼は、やがて窓の外から顔を逸らすと、差し出されたばかりのティーカップに手を伸ばしながらくつくつと笑った。まるで子どものような、純粋な顔をして。


「アレンが来るまで、ゆっくり楽しむとしよう」


 優雅な所作でティーカップを持ち上げるシリウスを上目で見遣りながら、今頃頭を抱えているであろうアレン――彼が最も信頼している従者――のかんばせを脳裏に思い浮かべ、フィオナは同情のこもった息をつく。行方を晦ました王太子が今どこで何をしているのかなんて、アレンは疾うに見当をつけていることだろう。最近の“サボり場”が専らここであることを、彼はもちろん知っている。


「いい加減、他所へ行かれてはどうですか。殿下の訪問を喜ぶ御令嬢はたくさんいらっしゃるでしょう」


 小瓶からはちみつを一匙掬い取り、ティーカップの中でくるくるとスプーンを回しながら、フィオナは僅かに目を細める。何でもない風を装って、そう言いはしたけれど。つっけんどんとした声で、そう言いはしたけれど。嘘であり、けれど本音でもあるその中途半端な言葉が、胸をぎゅっと締め付ける。自分で言ったくせに。今までに何度も口にしてきたくせに。それでもやっぱり、どうしても、心が痛い。


「ここは居心地が良いんだ」


 記憶さえ、消してしまえば――。日差しに照らされてきらきらと輝く赤褐色の水面を見つめながら、フィオナは胸の内でひっそりと自嘲をこぼす。記憶さえ消してしまえば、と、そう考えたことがないわけでは、決してない。記憶さえ消してしまえば。それさえしてしまえば、彼はフィオナのことなどきれいさっぱり忘れ、もう二度とここへ足を運ぶことはないだろう。そうすれば、胸を締め付けられることも、心が痛むことも、きっとない。きっとなくなるはずだ。――そう分かっているはずなのに。理解しているはずなのに。


 ちら、と視線をあげて、フィオナは真向かいに腰掛けるシリウスの、端麗なかんばせを盗み見る。それなのに何故か視線が交わって、彼はふっと、口元をやさしく綻ばす。とてもあたたかな目だ、と思った。冷たい色をしているはずなのに。命を芽吹かせる春風のような、或いは、燦々と大地を照らす太陽のようなあたたかい瞳だ、と。


 だからこそ耐えきれず、フィオナは目を背け、手元の紅茶に視線を落とす。まるで針に刺されてでもいるみたいに、胸がちくちくと痛んでたまらない。その痛みに襲われれば襲われる度、ああやっぱり――と痛感せずにはいられなかった。やっぱりこれは呪いなのだ、と。呪い以外に有り得ないのだ、と。


 人を愛していけない。誰も愛してはいけない。そう分かっていたはずなのに。理解していたはずなのに。

 ――どうしてまた、人を愛してしまったのだろう。もうあんな苦しみは味わいたくないと、そう思っていたはずなのに。

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