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呪われた忘却の魔女ですが、王太子が私を忘れてくれません  作者: 榛乃


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呪いの終わり

 目覚まし用に、二人分のコーヒーを淹れた。濃い色をした、芳しい匂いのするコーヒーをマグカップいっぱいに。フィオナは自分のものにだけミルクを垂らし、それから昨日買ったばかりの桃をひとつ剥いた。「これが一番美味しい」とあの快活な女店主が豪語していた、果汁も果肉もたっぷりと詰まった、瑞々しくて甘い香りのする桃。


「婚約? ……ああ、あの話か。するつもりはないぞ」


 食べやすい大きさに切り分けた桃のひとつをフォークで突き刺しながら、シリウスはまるで何でもない事のような――或いは、他人事のような――口調でそう言った。フィオナは呆気にとられ、思わず目を見開く。


「で、ですが、今王都中で話題になっていますよ?」


 みながそれを喜び、祝福しているということは、なんだか口に出来なくて、フィオナは喉元まで迫り上がったそれを、朝の新鮮な空気とともに呑み込む。王太子と公爵令嬢。美男と美女。彼ら二人ほどお似合いのカップルはそうそういないだろう。きっと誰もがそう思っているし、当然二人は結ばれるものだと信じ込んでいる。


「どこかから漏れた噂が、勝手に広まっているだけだ。婚約の話が出ているのは事実だが、俺もアメリアも承諾していない」


 えっ、と間抜けな声が漏れたのは、アメリアが婚約話を拒んでいるという事実に驚いたからだった。白薔薇の咲き乱れた中庭で二人を見かけた時、アメリアは穏やかに微笑みながら、とても楽しそうに話をしているように見えた。温室で邂逅した時も、彼女はかなり親しげにシリウスと話していたはずだ。あの女神のように美しい微笑を湛えて。彼女の、シリウスを見つめる眼差しはいつも、やさしさで満ち溢れていたように思う。だからてっきり、彼女はシリウスに対して、何か特別な感情があるのかもしれないと、そう考えていたのだけれど。


 マグカップを両手に包み、薄茶色の水面を見つめながらそう告げると、シリウスは一瞬ぎょっとしたような顔をして、それから心底おかしそうに笑った。


「彼女は誰に対しても、基本的にはああいう感じだ。寧ろ幼馴染故か、俺に対しては厳しい方だぞ」


 フォークに突き刺した桃を口へ運びながら、シリウスは更にくつくつと笑う。


「それに彼女は、昔からアレンに首ったけだ。他の男と結婚する気など毛頭ないだろうさ。……まあ、アレンが気付いているかは知らんが」


 フォークを小皿の上に戻し、マグカップの取手に指を絡めながらシリウスはにこやかに言う。カーテンが開かれ、朝の光が燦々と降り注ぐ四角い窓を背に。所々白く照った革張りのシェーズロングに腰掛け、彼は優雅な所作でコーヒーを飲む。ただそれだけのことなのに、フィオナはつい見入ってしまった。――今、彼がここにいる。その現実を、フィオナはまだ信じ込めずにいた。幻覚を見ているような、或いは夢を見ているような、そんな気がどうしてもしてしまう。ふと目を離した隙に消えてしまうのではないかと、一抹の不安が常に胸の中にわだかまっている。


「ああ、このことは秘密にしておいてくれ。君に言ったと知れたら、アメリアに叱られるからな」


 そう言って、シリウスは苦笑をこぼしながら人差し指を唇にあてた。その仕草がなんだかおかしくて、フィオナはついくすりと笑ってしまう。


 アメリアとアレン――。二人が並んで笑い合っている姿を想像し、フィオナは自分自身のことではないにもかかわらず、何故だかくすぐったい思いがした。そして同時に、ほっとした安堵も、胸の底にすとんと落ちる。いくら彼が記憶を取り戻したとはいえ、アメリアとの婚約が決まっていれば、また逢えなくなるのは時間の問題だった。王族の挙式は国を上げて盛大に行われるので、多くの民から祝福を受ける二人を、否が応でも眺めることになっただろう。記憶がなくての別れと、記憶があるままの別れでは、また違った苦しみに苛まれることになったはずだ。


 けれど――。あたたかいカフェオレを一口だけ啜り、フィオナはそっと僅かに目を伏せる。たとえアメリアと婚約しなくとも、すぐにまた別の縁談が持ち上がるだろうことは明白だった。ローレンス公爵家には公女がいないので、恐らくは他の貴族家から選ばれるか、或いは、他国の姫を迎え入れるという可能性も十分にある。貴族の家柄でもなければ、もちろん他国の姫でもない、ただ王都の外れの森に棲む一介の魔女に、彼の隣に並ぶ資格はない。


 つまり、またいずれ終りが来る、ということだ。また別れの時がやってくる。


「……君は、“王家の呪い”について、知っているか?」


 唐突に話題が切り替えられ、フィオナはぱちりと目を瞬かせて、正面に腰掛けるシリウスの双眸を見つめる。


「いえ、存じません。……呪いが、あるのですか?」

「実際に“呪い”があるわけではない。ただ昔から、そういうふうに喩えられているだけだ」


 マグカップをテーブルの上に置き、シリウスは長い脚をゆったりを組みながら自嘲気味に笑った。


「王家の血を継ぐ者は、“本当に愛した者”とは結ばれない……と、そう言われている。ただの迷信だと嗤う奴もいるがな」


 そう言いながら組んだ足に頬杖をつき、シリウスは切なげに笑みを深める。


「だが、あながち“迷信”とは言い切れないだろう。……父上には昔、心から愛し合った女性がいたそうだからな」


 もちろんそんな話は、初耳だった。王城の中で噂されていたとしても、それが王都の外れまで流れてくることは殆どない。そもそも現国王夫妻は、とても仲の良い夫婦として知られている。国王は王妃を大切にし、尊重し、そして王妃もまた国王を何よりも大事に想っている、と。それはフィオナの目から見ても明らかなことだった。


 フィオナの困惑を、少しだけ翳ってしまった表情から見て取ったのだろう。シリウスはかぶりを振ると、まるで安心させるようにやさしく目を細めた。


「無論今は、母上を大切に想っているさ。幸せだ、とも言っていたしな。二人の間に愛情があることは、俺の目から見ても十分に感じ取れる。……ただそれが、“家族”としての情なのか、それとも、数々の困難を共に超えてきた“戦友”としての情なのかは分からない」


 再びマグカップを持ち上げ、白い縁にそっと唇を寄せるシリウスのかんばせを眺めながら、フィオナは背を向けあった男女の姿を想像する。心から愛した人がいた国王と、そんな彼に愛されていた女性。交わることのなかった二人の道が、果たして正しかったのかどうかは、きっと当人たちにすら分からないことだろう。


 ふと、あのテラコッタ色の髪をした女の顔をが頭を過ぎり、フィオナはゆっくりと目を伏せる。砕け散った硝子の中に、彼女が傭兵に連れられてゆく場面もあった。そしてそれを見つめる、顔も名前も分からない男の姿も。石造りの冷たい部屋の中で憔悴していた彼女は、果たしてあの後どんな未来を辿ったのだろう。


「実際、王族の血を継いだ何人もの人間が、父上と同じ経験をしたと聞いている。先々代も、その前も、さらにその何代も前の王も、だ。……それを、ただの偶然とは思えなかった誰かが、“王家の呪い”と言い始めたのだろう」


 彼の紡ぐ話を聞きながら、フィオナは夢の中で見たもうひとりの女を思い出す。牢獄のような冷たい部屋の中で婉然と微笑んでいた、ブロンズ色の瞳をした女。彼女は、傍らに横たわる女に向かって囁いていたはずだ。「貴女のせいなのでしょう?」と何度も繰り返す、テラコッタ色の髪をした女に向かって。彼女の美しいかんばせにそっと頰を寄せて。どこか遠くにあるものを見つめるように目を細めて。

 だってこの呪いは、ある意味“王族(彼ら)”への――。


「まあ、王族や貴族の結婚は、政略的なものが殆どだからな。特に王族は、他国との繋がりや複雑な政治的絡みもある。恋愛結婚をするのが難しくてもしかたがない」


 つまり、それは――。飛び出しそうになった言葉を慌てて呑み込み、フィオナは静かに、手元のマグカップへ視線を落とす。そもそも王太子と一介の魔女ではあまりにも身分が違いすぎる。王家の呪いだろうが何だろうが関係がない。言われなくても、分かっていたことだ。ずっとずっと、分かっていたこと。だから今更傷つく必要などないのに、けれど、心はずきずきと痛んで、小さな悲鳴をあげている。


 記憶が戻ったことを、とても嬉しいと思っていたけれど。少しだけぬるくなったカフェオレに口をつけながら、フィオナは胸の中でそっと嘆息をこぼす。本当にそれで良かったのだろうか、と、苦しく思いながら。


「フィオナ」


 名前を呼ばれ、フィオナは慌てて顔をあげる。そんな彼女に、シリウスは苦笑の混じった、けれどとてもあたたかな眼差しを向けた。


「そんな顔をさせたくて、この話をしたわけじゃない」

「……そんな顔って、どんな顔ですか」

「今にも泣き出してしまいそうな顔」


 そう言って、シリウスはふっと笑った。とてもやわらかに。フィオナの瞳を真っ直ぐ見つめたまま。


「ただ……終わった、という気がしたんだ。全てが終わったような気が」


 感慨に耽るような声だった。或いは、遠い昔を懐かしむかのような声。シリウスの言わんとしていることが、でも、フィオナにはとてもよく理解出来た。終わった、というあの感覚――。昨夜のことを思い出し、フィオナはばらばらになって消えていった破片のひとつひとつを思い浮かべる。この気持ちを、感覚を、言葉で表すのはきっと難しい。ぴたりと当てはまるものが、ひとつも見つけられないのだ。故に、他の誰かから共感を得ようと思っても、それは殆ど不可能なことだろう。言葉に出来なければ伝わらないのだから。


 けれど――。穏やかな瞳を見つめ返し、フィオナは安堵のこもった笑みをそっと浮かべる。他の誰にも伝わらなくても、きっと彼にだけは通じるだろう。同じ感慨を抱いた者同士として。シリウスならきっと、理解し、そして共感してくれるはずだ。


 なんだかそれが嬉しくて、でも、少しだけ恥ずかしくもあって。それがつい顔に出てしまいそうになり、フィオナは慌てて咳払いをすると席を立った。シリウスの要望でいつもより濃い目にコーヒーを淹れたせいで、牛乳を混ぜていてもやっぱり苦い。


「そういえば、まだ返事を聞いていなかったな」


 砂糖の小瓶を取りにキッチンへ向かおうとしたフィオナの背に、シリウスの楽しげな声が飛んできた。何を、なんて問わなくても、彼の言う“返事”が何を指しているかなんて、考えるまでもない。


「私はちゃんと、“次”お逢いした時に伝えましたよ」


 足をとめ、振り向きざまにそう返すと、シリウスは不服そうに片眉をあげた。


「それは、俺が毒のせいで昏睡していた時だろう? 意識がない時に告げるのは、フェアじゃない」


 そうきっぱりと言い放ち、シリウスはにやりと口角を上げて、シェーズロングから腰を上げる。


「聞いていないのなら、言っていないも同然だ」


 確かに彼の言っていることは尤もだ、とフィオナも思う。思うけれども、いざ意識のある彼を目の前にして言えるかといえば、それはとても無理な話だった。恥ずかしすぎて、きっと爆発してしまう。今だって、“返事”の話題を出されただけで、心臓がどきどきしているというのに。


「い、今じゃなくても。そ、その……あとで……」

「もうじきアレンが来るだろう。それでもいいのか?」


 おどけたように小首を傾げ、シリウスはじりじりと歩み寄ってくる。にっこりとした笑みを満面に湛えたまま。それがなんだか恐ろしく、フィオナは彼が一歩近づいてくる度、一歩、また一歩と後退る。アレンがいる前で想いを告げるなんて言語道断だ。けれど、だからといって今口に出来るかといえば、それももちろん出来るわけがない。


 どうにかはぐらかして逃げようと、慌てて考えを巡らせるも、悲しいことに、代わりとなる妙案は何も思いつかない。その間にもシリウスは少しずつ距離を縮め、フィオナはその分後ろへ逃げ続ける。


 しかし、そんな彼女の背中に、ぴたり、と冷たいものが触れた。冷たくてかたい、漆喰の壁が。それを肩越しにちらと一瞥し、フィオナはぎょっとする。足音も、気配も、すぐそこにまで迫っているというのに、逃げ場を断たれてしまった。

 いや、遮られたのは後ろだけだ。まだ横へ逃げればどうにか――。なんて浅慮なことを考えている隙に、視界の端を逞しい腕が掠めた。顔のすぐ横の壁につかれた手の気配が、生々しく伝わってくる。どうやら完全に逃げ場はなくなってしまったらしいことを悟り、フィオナはおずおずと、正面に立ちはだかるシリウスの、相も変わらず――憎たらしいほど――端麗なかんばせを見上げた。


「殿下だって、一度しか……」

「俺は何度でも言えるぞ。君が望むなら。聞きたいか?」

「い、いえ……結構です……」


 胸の高鳴りが激しすぎて、フィオナは気が狂いそうになる。あまりにも恥ずかしすぎて、心臓が口から飛び出してきてしまいそうだ。その上、顔が、身体中が熱くてたまらない。鏡を見ずとも、熟れた林檎のように真っ赤になっているだろうことは明白だった。その自覚があるからこそ、なお羞恥が身体中を駆け巡る。何故シリウスが平然としていられるのか、フィオナにはまるで分からない。寧ろ彼の方が狂っているのではないかとすら思え、フィオナはたじろぎながら顔を俯ける。唇の間からこぼれる吐息まで、熱っぽい。


「……言ってくれないのか?」


 耳元で囁かれた寂しげな声に、フィオナはぐっと奥歯を噛み締める。なんて狡い男だろう。恐らく彼は、フィオナの心中をすっかり見抜いているはずだ。その上で演技をしてくるのだから、本当に狡い男だ、と、フィオナは苦々しく思う。そして多分、彼は分かっているはずなのだ。“愛”という感情がどれほど厄介で、融通の効かないものであるかを。


 まるで彼の掌の上で転がされているようだ。そう思いながら唇を尖らせ、フィオナは胸の内で溜息をつく。弄ばれているのが、悔しい。悔しくて悔しくてたまらない。こんな時に負けん気を出すのもどうかとは思ったけれど、くすり、と笑う声が頭上から聞こえ、フィオナはぎゅっと右手を握り締めた。――仕返しをしてやろう。そう決意しながら。


 たとえば、彼の間抜けな顔でも見れたら。意表を突かれたような顔を、一瞬でも見られたら。そうしたら仕返しは成功だ。


 どくどくと、心臓が激しく鳴っている。耳の中で。煩いくらい大きな音を立てて。顔は相変わらず熱いままだ。多分、耳や首筋まで真っ赤に染まっているだろう。けれどそれらを鎮められるだけの余裕は、今のフィオナには少しもなかった。どう頑張ったって、シリウスが眼前から退いてくれない限り、それらはきっと落ち着かないだろう。しかし彼が、“返事”を聞く前に逃がしてくれるとはとても思えない。思えないから、やるなら今しかないのだ。


 ゆっくりと深呼吸をし、フィオナは握り締めた手に更に力をこめ、一、二、三と胸の内で数える。そうして意を決した末に顔をあげた。たくさんの想いをたっぷりと詰め込んだ、満面の笑みを湛えて。きっとこれまで浮かべたどの笑みよりも最高の笑顔を。


「愛しています、シリウス殿下」


 そう告げた声は、フィオナ自身でも驚くほど落ち着いていて、そしてとてもやさしかった。やさしく、あたたかで、そしてむず痒くなってしまいそうなほど甘い声。


 シリウスはまるで時が止まったように、ぴたっ、と表情をとめた。目を見開かせ、驚いた顔のまま。そのかんばせを見つめながら、フィオナは内心くすくすと笑う。仕返しは、多分、成功だ。それが嬉しくて――だからつい、気が緩んでしまった。油断してしまった。ふはっ、と、噴き出すように笑ったシリウスが、もちろんその隙を逃すはずもなく。一瞬にして端麗な顔が目の前に迫り、えっ、とこぼれかけた間抜けな声は、音になるより前に、唇に触れたやさしいぬくもりによって呑み込まれてしまった。

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