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呪われた忘却の魔女ですが、王太子が私を忘れてくれません  作者: 榛乃


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砕け散った硝子

 このまま帰ってほしい、と、フィオナは思った。思うというより、それは殆ど願いだった。このまま彼が帰り、扉を閉めればきっと、またあの“日常”のようなものが戻って来る。どうにか側だけ拵えた、あの無彩色な“日常”が。シリウスがいなくなった日々には、何の鮮やかさもなく、ただ白と黒だけの世界が“そこにある”だけだ。そんな世界に再び色が差すのかどうかは、分からない。“愛”とは随分と厄介な感情だと、フィオナはつくづく思う。随分と厄介で、そしてとても執拗な感情だ、と。


 頭上に注がれていた視線が不意に逸れた気配を感じ、フィオナは少しだけホッとする。もしかしたら帰るつもりになったのかもしれない。勝手に泣き出し、話の通じない女など相手にするのは、きっと面倒だろう。それでいい。それでいいのだ、と、フィオナは自分自身に言い聞かせるように、何度も何度も胸の中で繰り返す。すっかりぼろぼろになってしまった胸の中で。まるで呪文を唱えるみたいに、何度も、何度も。


 そうやって、シリウスが踵を返すのをただひたすら待っていたフィオナは、しかし次の瞬間、息を呑んだ。


「――俺は、あのソファによく座っていた気がする」


 弾かれたように顔を上げ、フィオナは愕然としながらシリウスの横顔を凝視する。聞き間違いかと思った。きっと聞き間違いだろう、と。或いは幻聴だ、と。けれどもシリウスは、フィオナから逸らした視線を、窓辺に置かれたソファの方へと向けていた。年季の入った、それでも今だ艷やかさを保つ革張りのシェーズロング。確かに彼は、よくあそこに座っていた。この家に来たら必ず。お茶を飲む時も、お菓子を食べる時も、談笑をする時も、そして昼寝をする時も。日当たりがよく、キッチンの中の様子も見えるからと、と言って、彼はそのシェーズロングを“特等席”と決めとても気に入っていた。


「あそこでよく、紅茶を飲んだかもしれない。……ああ、そうだ、お菓子も。たとえば……タルトタタン、とか。そういうのを食べた気がする」


 ソファを見つめたまま、シリウスはゆっくりと瞬く。そうする度に、まるで何かを見つけたみたいな顔をして、ひとつひとつ言葉を紡いでゆく。何が起こっているのか、フィオナにはまるで分からなかった。彼の並べる言葉はどれも正しい。正しいからこそ、今目の前で何が起こっているのか、少しも理解することが出来ない。それらは疾うに失くなった記憶のはずだ。あのシェーズロングによく座っていたことも、そこで紅茶を飲んだりお菓子を食べたりしていたことも、そして彼が最後に食べたお菓子がタルトタタンであったことも。


 困惑するフィオナをよそに、シリウスは流れるように視線を移し、今度はキッチンをじっと見据える。けれど彼の青い瞳が映しているのは、キッチンでありながら、その実キッチンではないようにフィオナには感じられた。今そこにあるものたちを見ているのではなく、そこにあったはずの“何か”を見ているような気が。


「あそこはいつも、甘い匂いがしていたな。お菓子の甘い匂いと……それから多分、紅茶の匂い」


 まるで独り言のようにそうこぼし、シリウスは再び顔を動かして、今度は調薬室の方へ目を向けた。


「俺はあの部屋で……何の部屋かは分からないが、兎も角俺はあそこで、じっと、小さい背中を見ていた。ほっそりとした華奢な背中なんだが……俺はその後ろ姿を、とても……」


 言葉を途切れさせ、シリウスはゆっくりと何かを確かめるように瞬いて、そうしてフィオナのかんばせを見下ろす。豊かな睫毛に囲われた、まるで宝石のように佳麗なアイスブルーの瞳。その瞳に映ることはもう二度とない、と思っていた。向けられる眼差しを受け止めることも二度とない、と。


 けれども今、彼は静かにフィオナを見つめている。あの頃と変わらない真っ直ぐな眼差しで。


「ああ、そうだ……君は魔女だ。この森に棲んでいる、魔女。あの部屋で俺が見ていたのは、君の背中だったんだ。魔女……そうか、ああ、そうだな。君は魔女だ」


 そうしてふっとこぼれるように顔を綻ばした彼は、おろしていた右手を再び上げて、そっと、まるで繊細な硝子細工でも扱うようなやさしい手つきで、フィオナの頰に触れる。その掌から、フィオナはどうしても逃げることが出来なかった。


「――王都の外れにある森には、“忘却の魔女”が棲んでいる」


 そう紡いだ瞬間、シリウスが目を見開いた。今までで一番大きく。青い瞳の丸さがはっきりと分かるほど。“驚いた”というより、まるで何かを“見つけた”ように、彼は大きく目を瞠った。


 けれどもすぐに彼は目を細めると、何故だかおかしそうに、或いは楽しそうに、くすくすと笑った。そうして、フィオナの頰をつたい落ちる涙を、親指の腹で撫でるようにしてやさしく拭い取る。ぽろぽろ、ぽろぽろ、と、何度こぼれてきても。


「“忘却の魔女”、か。……懐かしい響きだな」


 記憶はないはずなのに。疾うに消えてしまっているはずなのに。“懐かしい”と、そう囁いた彼に、フィオナは口にする言葉を見失う。向けられる瞳を見つめたまま、どうすることも出来なかった。何かを言うことも、手を振り払うことも、怒ることも呆れることも、何もかも。肯定をすることも、否定をすることも出来ず、フィオナに出来るのは、アイスブルーの瞳をただただ見つめ続けることだけだった。


 それなのに頭の中には、様々な言葉がぐるぐると駆け回っている。どうして? 何故? 嘘でしょう? やはりちぐはぐだ、と、それらひとつひとつの言葉を意識の端でとらえながら、フィオナは思う。唇を開くことも、視線を逸らすことも、身動きすることも出来ないのに、頭の中だけは妙に活発なのだから。


 そんな彼女の心中を見て取ったのか、シリウスはほんの一瞬だけ困ったように苦笑し、頰を撫でていた指先で、涙をたっぷりとためた目の端に触れる。睫毛が震え、貼り付いていた小さな水の粒が、はらはらと落ちてゆく。それらを、シリウスは拭うことも、床に触れる様を見届けることもしなかった。


「もう一度、名前を呼んでくれないか」


 突っぱねたはずの頼みを、シリウスは再び口にする。その声に、心臓がとくりと反応して、強く噛み締めていた唇からゆるゆると力が抜けてゆく。あんなに拒んでいたのに。嫌だったはずなのに。それなのに今、唇を開くことを、どうしてとめられないのだろう。さっきまでは微動だにしなかったくせに。声が、言葉が、喉を駆け上ってくる。その衝動に、フィオナは抗うことが出来なかった。


「――シリウス、殿下」


 震えた声だった。所々掠れた、それでいてとても熱のこもった声。

 それを耳にした瞬間、シリウスはほんの少しだけ目を瞠り、そうして端麗な顔いっぱいにやさしい笑み浮かべた。嘗て共に過ごした彼の――「愛している」と言ってくれた彼の笑顔そのままで。やさしく、あたたかく、そして溢れ出す想いをたっぷりと滲ませたようなその笑みに、フィオナの胸は激しく高鳴った。


 どうして。どうしてそんな顔をするの――。そう問いかけたかったけれど、しかしフィオナがそれを口にするより先に腕を引かれ、気付いた時には、彼の逞しい腕の中にいた。息苦しいほどきつく抱き竦められて。


「君は魔女だ。この森に棲む“忘却の魔女”。……ははっ、何で思い出せなかったんだろうなあ、俺は。こんなにも君を求めていたのに。……ああ、そうか。“忘却の呪い”のせいか。君は魔女で、俺たちはここで出逢って、そして俺は君に惹かれ、君を愛した。……なあ、そうだろう? 俺は今でも君を愛している。心の底から、君だけを」


 身体を包み込む腕に、ぎゅっ、と、さらに強く力がこもる。肩に埋められた顔から、くつりと笑う声がした。


「――フィオナ。フィオナ・クレイン」


 何かが弾ける音がした。或いは、割れるような音が。


 頭の中で、まるで硝子の破片のようなものが、きらきらと光を撒きながら散ってゆく。そのひとつひとつに、見覚えのある顔が、見覚えのない顔が、知っている場面が、知らない場面が幾つも映っている。誰かを見つめながら、嬉しそうに含羞の笑みを湛える、テラコッタ色の髪をした女。あの石造りの冷たい部屋に横たわる彼女。遠ざかってゆく逞しい背中。涙を流して蹲る栗色の髪の女。上等な服に身を包んだ男に縋り付く痩せ細った女。虚しく空を切る細い指先。幸せそうな笑顔。目が腫れ、ぐっしょりと濡れそぼった生気のない顔。そして、憂いを含んだ、それでいてひどくやさしくもある、ブロンズ色の瞳。


 その破片は、そこに映されたものたちは、どれもこれも鮮明だった。まるで今目の前にあるみたいに。もしかしたらそれらは、頭の中ではなく、正に目の前で散っていたのかもしれない。目の前で散り、そして目の前で様々な光景が繰り広げられていたのかもしれない、と。


 しかしそれらは、フィオナがひとつ瞬いた後にはもう、すっかり消えてしまっていた。頭の中からも、目の前からも。そうしてその硝子たちと入れ替わりに、堰を切ったように感情が溢れ出す。愛しさと、嬉しさと、様々なものが入り混じった、とても大きくてあたたかな想いの塊が。


「……でん、か」


 漸く――。震える両腕をゆっくりと彼の背中へ回し、フィオナはまるで縋り付くように抱き締め返しながら思う。漸く全てが終わった、と。それはとても不思議な感慨だった。何が終わったのか、どうしてそう思うのかは分からない。けれどもとにかく、漸く全てが終わったのだ、と思いながら、フィオナはいっそう涙をこぼしながら微笑む。嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、そして、愛しくてたまらない、と。


「シリウス殿下っ……」


 名前を紡ぐと、それに応えるように、抱き締める腕に少しだけ力がこもる。あまりにきつく抱き竦められているせいで息苦しい。けれど、離れたいとは思わない。離れたくなかった。少しも。放してほしくなかった。それを伝えたくて、フィオナもまた腕に力をこめれば、シリウスはふっとこぼれるように笑って、彼女の後頭部に回した手でやさしく髪を撫でてくれた。まるで梳くように、そっと。


 彼のぬくもりで満たされた身体のそこここで、愛が、喜びが、まるで噴水から噴き出す水のように次から次へと溢れ出している。こんなにもたくさんの感情が身体のあちこちに潜んでいたのかと、フィオナ自身でも驚くほどに。もしかしたらこれらの感情は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と、そう思ってもしまうほど。フィオナの小さな身体は、湧き上がるやさしい想いと、シリウスから惜しみなく与えられるぬくもりで、いっぱいだった。それ以外のものなど感じられる余裕もないほど、何もかもが全て、満ち満ちていた。

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