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魔女の棲む森

 ――王都の外れにある森には、“忘却の魔女”が棲んでいる。


 もう何度耳にしたか分からない言葉を頭の中で諳んじながら、フィオナは森の入口に立てられた、随分と脆弱な造りの看板――というにはあまりにもおこがましい、ただの木板の組み合わせ――を見下ろす。どこかから拾ってきた廃材で作ったのだろうそれには、拙い筆跡で、“まじょのすむもり”と書かれている。無論、フィオナにはそんなものを作った憶えはまるでない。作るならもっとまともな、風雨に晒されてもびくともしない立派なものを立てている。


 どうせまた、近隣に住む子どもたちの悪戯だろう。そう呆れながら、フィオナは廃材の継ぎ接ぎを横目に森の入口に足を踏み入れ、苦笑とともに小さく息をつく。彼らに悪気がないことは、知っている。子どもたちにあるのは、ただの純粋な好奇心と、未知に憧れる冒険心だ。それを鬱陶しいとは思わないし、寧ろ可愛らしいことだと思うと同時に、少しだけ羨ましいとも思っている。幼さ故のそれらは、大人になるにつれ薄れてゆくものだ。いつしか純粋な好奇心は危険だと思うようになり、未知は恐ろしいものだと思うようにもなる。だから子どもだけが持つそれらは、きらきらとしていて眩く、とても美しい。


 けれど――。真昼でも薄暗い一本道を進みながら、フィオナは再び溜息をつく。折角作ったものを引き抜くのは可哀想なので、そのままにしておいたけれど。しかしあれを放置していれば、間違いなく“彼”の目に留まるだろう。そうすればまた、一頻りからかわれるのは火を見るよりも明らかだ。


 やっぱり引き抜いてしまった方がいいだろうか。そう考え倦ねながら、時折目についた薬草を摘みつつ森を歩いていると、やがて鬱蒼とした木々の群れが途切れ、春陽が燦々と降り注ぐ開けた場所に行き着いた。森の一部を丸く刳り貫いたようなそこは、周りを丈高い木々に囲まれ、地面には瑞々しい若葉色をした芝草がびっしりと生えている。あたたかな風にそよぐ愛らしい蒲公英、緩くうねった小川、白と赤の花をびっしりとつけた灌木、苔の生えた小ぶりな古井戸。


 そんな原っぱ――というには幾分狭いが――の真中を突っ切るようにして伸びる小道の先には、真壁造の平屋がぽつんと建っている。切妻屋根からはえた四角い煙突、小さな菱形の柵を嵌め込んだ窓、錬鉄製のランプが掲げられた玄関。漆喰の壁には所々ひびが入り、或いは削げ落ちて内側の木材が僅かに顔を覗かせている。随分と古びた建物だ。まるでそこだけが時代に取り残されているような、そんな錯覚すら抱かせるほどに。


 事実、それだけの長い年月が、たっぷりと蓄積されているのだけれど。そう思いながら目を凝らしたフィオナの視線が、平屋の前に佇む一人の男をとらえる。その瞬間、彼女は苦々しく眉根を寄せた。


「なんだ、買い物に行ってたのか」


 歩み寄ってきたフィオナを見つけ、男は片手を挙げてにっこりと笑う。陽光を浴びて輝く白銀の髪の毛が、今日も今日とて嫌味なほど美しい。


「……何のご用件でしょう」


 ついむすっとした声が出てしまったのは、森の入口に立てられていたあの立板が、すっと脳裏を過ったからである。道すがら、引き抜くか否かについて色々と考えていたけれど、それはどうやら無駄であったらしい。あんなにも目立つ所――入口の真ん中――にあったのだから、フィオナよりも先にここへ来ていた彼が、それを見ていないはずがない。


「用事がないと来てはいけないのか?」

「当たり前です」


 男の横を素通りし、ポケットにしまっていた鍵を取り出して、フィオナはそれを錬鉄製の鍵穴へ差し込む。一捻りすれば、ガチャ、と錠の開く低い音が聞こえ、ノブに手をかけて扉をゆっくりと押し開けば、たちまち甘く爽やかな芳香が鼻孔をくすぐった。カーテンを開け放したままにしていたおかげで、室内は灯りを点けずとも十分に明るい。たっぷりと差し込む春陽が、壁や天井や、至る所に吊るした薬草やポプリを淡く照らしている。


「そういえば、森の入口に立派な看板が立っていたな」


 話題を逸らした男の、機嫌の良さげな声を背中で聞きながら、フィオナは抱えていたバスケットをテーブルの上に置き、羽織っていた薄手のショールを椅子の背に掛ける。


「魔女の棲む森、か」


 ソファに腰掛ける音がして振り返ると、男は窓辺に置かれた革張りのシェーズロングに腰掛け、悠然とした様子でフィオナを見ていた。自然と視線が交わり、男はふっと口元を綻ばす。そんな仕草さえ、実に上品で洗練されているように見えるのはきっと、生まれ持った性質かなにかなのだろう。白いシャツに暗青色のズボンというラフな格好をしていても、男の身体に染み付いた優雅さは少しも薄れない。艷やかな白銀の髪の毛も、滑らかな白い肌も、長く濃い睫毛に縁取られた切れ長の目も、その真中で輝くアイスブルーの瞳も、何もかも。


 ――シリウス・エルヴァイン。大陸の南に位置するレグナリス王国を統べるダリウス・エルヴァイン国王夫妻唯一の王子であり、レグナリスの未来を背負う若き俊英だ。現在は王太子として国王の補佐を務め、その上、騎士団長として精鋭揃いの騎士団を纏め上げてもいる。


 そんな王太子が、王都の外れにある森にいるだなんて、近隣に住む人々どころか王都の人間たちでさえ――一部の人間を除き――誰も思いもしないだろう。しかも、“忘却の魔女”が棲まう森に。護衛騎士どころか気心の知れた従者すら連れず、ただ一人で。


 それはフィオナもまた同じことだった。思わないというより、思いたくないと言った方が正しいのだけれど。


「前の看板はどうしたんだ?」

「さあ、存じません。子どもたちが引き抜いたんじゃないでしょうか」


 来るな、と言ったところで、彼がそれを素直に聞き入れることはないと、知っている。今までに幾度も門前払いを試みたが、シリウスは一度たりとも大人しく踵を返したことはない。はじめの内こそ何らかの適当な用事を取り繕って足を運んでいたが、今ではそれすらなく、隠すつもりも微塵もないようだった。


 何故こんなことに――。呆れを含んだ息をつきながら、フィオナはキッチンに足を踏み入れ、琺瑯製のケトルに水を入れる。火にかけて沸騰するのを待つ間に、戸棚からピオニーシェイプのティーカップを二揃い取り出し、茶葉は少し迷った末、最近購入したばかりのダージリンを選んだ。


「子どもは怖いもの知らずだな」


 それは貴方も同じでしょう、とは敢えて口に出さず、フィオナは喉元に引っかかったそれを、吸い込んだ空気と共に呑み込む。子どもは幼さ故だとしても、この男はそうでないのだからたちが悪い。

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