君に逢いたかった
満月よりも貴方の方が美しい、と、喉元まで出かかった言葉を、しかしフィオナは夜気とともに呑み込む。そんなことを言えばきっと、ロマンチストだなんだと笑われてしまうだろう。シリウスはなにかとフィオナをからかって遊ぶのが好きだ。時には目に涙をためて一頻り笑い尽くすこともある。そういう時の彼は、“レグナリス王国の王太子”ではなく、往々にして“シリウス・エルヴァイン”という一人の青年だった。年相応の、他の誰とも同じ一人の青年。もちろんそうであっても彼の気品は少しも薄れることはないし、“王太子”であることも変わりはないのだけれど。しかしそういう、普段とは違う一面――素の姿――を見せてくれることが、フィオナはとても嬉しかった。アレンほどとはいわなくとも、少しは心を許してくれているのだろうという気がして。
そんなことを密かに思いながら、玄関口までやって来たシリウスを、フィオナはいつものように室内へ招き入れようとしたが、しかし彼は少し何かを思案した後、静かにかぶりを振った。今日は外で話そう、と。折角月が綺麗なのだから、それを眺めながら話すのも一興だろう? とも。そう紡いだ低く落ち着いた声が、とても心地良と思った。
「ガゼボはないので……そこのベンチでよろしければ」
玄関脇の壁に沿って置かれたベンチ――とはまるで程遠い、ただの太く大きな角材――を目線で示し、フィオナは小さく苦笑する。温室にあった上等なガーデンベンチとはまるで違う質素なそれに、けれどシリウスは満足げに頷いて、楽しそうにくつりと笑った。
籐編みのトレイにティーカップを二つと、クッキーを盛った小皿をのせて屋外へ出ると、あたたかな夜風にふわりと頰を撫でられた。夜独特の、清潔で澄んだ、しっとりした空気。遮るもののない夜空からは青白い月明かりが煌々と大地を照らし、小川を流れる花筏が、ゆるゆると下ってゆくのが見える。
シリウスは角材の右側に腰掛け、無数の星々がきらめく夜空を、朗らかな面持ちで静かに眺めていた。その横顔が何故だか幸せそうに見え、フィオナは声をかけていいものだろうかと躊躇う。けれどもすぐに彼女の存在に気付いたシリウスは広大な夜空から顔を逸らし、傍らに立つフィオナの双眸を見つめ、ふっ、と笑みの滲んだ吐息をこぼした。
「今日のお月さまは青白いですね」
月というのは本当に不思議なもので、夜空に浮かんでいるそれは全く同じものだというのに、日によって色も形も異なるのだ。まんまるだったり細い弧を描いていたり、カスタード色だったり青白かったり。その不思議さを、フィオナはとても面白いと思っている。だから子どもの頃からずっと、夜空を――そこに鏤められた星々やぽっかりと浮かぶ月を――見るのが好きだった。そんな月夜を二人で眺められるというのは、なんて幸せなことだろう。
「お仕事の方は大丈夫なんですか?」
ティーカップを差し出しながら尋ねると、シリウスは片眉をひょいと上げ、それからおどけたように肩を竦めた。どうやら大丈夫ではないらしい。
「アレンの目を盗んで抜け出してきた」
今頃王城中を探し回っているであろう従者の困り顔を想像しながら、フィオナは角材の右端に腰掛ける。万一にも、何かの拍子で彼に触れてしまうことがないよう、ちゃんと人ひとり分の隙間をあけて。
「アレン様、今頃困っているんじゃないですか」
「困ってるだろうな。色々放置して出てきたから。……まあ、ここにいるのは分かっているだろうが」
琥珀色の水面からゆらゆらと立ち上る白い湯気を見つめながら、フィオナはそっと口元を綻ばす。隣にシリウスが座っている――。ただそれだけだというのに、身体中に詰まっていた疲れが一気に溶けて、雲散霧消してしまったような気がした。すっきりしていて、頭の中もとても軽い。けれども胸だけは、凄く賑やかだった。どきどきしていて、わくわくしていて、そして少しだけこそばゆい。忙しくても、その合間に――こっそり抜け出したのだとしても――逢いに来てくれることを嬉しく思うのは、アレンに対してあまりにも失礼だろうか。
「あまりアレン様を困らせるのはどうかと思いますよ。可哀想です」
だから、口を衝いて出た言葉は、本心のようで本心でないような、なんとも可愛げのないものだった。本当はすぐにでも王城へ帰すのが正しい判断なのだろう。仕事は相も変わらず山積みなのだろうし、それを前にして――或いは出奔して誰もいなくなった主の部屋を前にして――アレンは頭を抱えているに違いない。いくら居場所を把握しているとはいえ。それはあまりにも可哀想だ。
けれども――。ティーカップをゆっくりと持ち上げ、華奢な縁にやさしく唇を触れさせながらフィオナは思う。けれどもそうすることが、どうして出来ないのだろう。“どうして”と思いながら、でも、その答えをフィオナは知っている。考えるまでもない。ただ言い訳がほしいだけなのだ。どうしてだろう、と、分からないふりをすることで出来る言い訳を。
そんなフィオナの心情などまるで知る由もないはずのシリウスは、悠然とした仕草で紅茶を飲み、そうして漆喰の壁に寄り掛かりながら夜空を見上げた。どこからともなく、虫の鳴き声が微かに聞こえる。庭を横切るように緩やかにうねりながら流れる小川は、まるで夜空の色をそのまま溶かしたように暗い。夜風の作る小さな漣に、月明かりの落とす光が反射して、小さな光の粒がきらきらと幾つも輝いている。
「――君に逢いたかったんだ。無性に」
紡がれた言葉の意味を理解する前に、フィオナは思わず感嘆してしまう。なんて純真な声なのだろう、と。純真で、とても清らかな声。それは鼓膜をやさしく撫ぜ、すうっと、まるで溶けるようなやわらかさで、体の奥へと流れてゆく。その心地好い余韻に、フィオナは暫くの間浸っていた。ほんの数秒の、僅かな時間だったけれども。
言葉の理解は後から追いついて、そこで漸く、フィオナは隣に腰掛けるシリウスへ顔を向けた。途端に目が合い、フィオナはどきりと心臓を飛び跳ねさせる。ついさっきまで夜空を眺めていたはずなのに、いつの間に視線を移していたのだろう。月明かりによって僅かに睫毛の影が落ちたアイスブルーの瞳は、真っ直ぐに、まるでそれ以外のものなど見えていないのではと思うほど真っ直ぐに、フィオナへと注がれていた。
この人は、なんて実直なのだろう――。穏やかな眼差しを受け止めながら、フィオナはそれを嬉しくも、そして悲しくも思う。素直な言葉は、幸せを与えてくれる一方、鋭く尖った刃でもあるのだから。
「実は、討伐作戦の決行日が決まってな」
唐突な報せに、フィオナはシリウスの双眸を見つめたまま目を見開かす。いつか必ずその日が訪れることは、分かっていた。分かっていたし、覚悟もしていた。魔獣の根城が見つかったという報を聞いた時から、ずっと。シリウスは間違いなく前線へ出るだろう。彼やアレンは、騎士団にとって最も重要な戦力だ。指揮を執りつつ、実際に剣も振るうだろう。――そういう日が必ず訪れることを理解していたし、覚悟もしていたはずなのに。
胸がざわざわと嫌な波を立て、鉛のように重たい何かが、ずんっ、と奥へ落ちてゆく。それは溶けて消えることなく、胸の奥に落ちたまま微動だにせず、黒く淀んだ空気を漂わせながら、“そこにある”ことをありありと主張してくる。それが何なのかは、まるで分からない。けれどもそれが“恐ろしい”ものだということだけは、感じられる。恐ろしくて、嫌な感じのする、何か。
「……いつ、ですか」
唇の合間からこぼれた声は、微かに震えていた。それに気付いたらしいシリウスは、まるで安心させるようにやさしく目を綻ばせ、
「明後日」
と、落ち着いた――いつも以上にやわらかな――声で答えた。
彼の紡いだその言葉を頭の中で何度も繰り返しながら、フィオナはティーカップのハンドルに絡めた指に、ぎゅっと力をこめる。何か言わなかればと思うものの、しかし声が喉に貼り付いて何も出てこない。ただただアイスブルーの瞳を見つめることしか出来ずもどかしさを感じていると、シリウスは空気を和らげるようにくつくつと笑って、それから再び夜空へと視線を戻した。
「だから君に逢いに来た」
それではまるで最後の――。思いかけ、フィオナは慌ててかぶりを振る。どうしても思考が悪い方へ悪い方へと向かってしまう。緊張のせいか、不安のせいか。それとも、そのどちらのせいでもあるのか。兎も角悪いことは全て頭の中から追い払い、気持ちを落ち着けようと、フィオナはあたたかな紅茶を一口飲む。喉を滑り落ちてゆくぬくもりが、そこにこびりつく恐怖を溶かしてくれれば、と、そう思いながら。




