温室での邂逅
土の匂いがする。土の匂いと、瑞々しい緑の匂いと、それから甘く華やかな花々の芳香も。
真昼の陽光にあたためられた、しっとりとやわらかな空気を肺いっぱいに吸い込みながら、豊かな自然の精気が身体中に満ち満ちてゆく感覚に、フィオナはうっとりとする。チェストベリー、ローズマリー、アニス、キャラウェイ。温室の入り口脇には、大きなマロニエも植わっていた。撒水をした後なのか、ツワブキの丸くぽってりとした肉厚の葉が、幾つもの光の粒を反射させてきらきらと輝いている。
シリウスに案内された温室は、宮殿の裏側に広がる大庭園の一角にあり、全面ガラス張りのドーム型――てっぺんにはクーポラがのっている――をしたそれは、今までフィオナが目にしてきたどの温室よりも一番大きかった。家が一つや二つ、なんなら小さな村が丸ごと収まるのではないかと思うほど巨大なそれの中には、見渡す限り一面に緑が溢れ、様々な種類の木々草花が、何らかの法則に従って丁寧に区分けされ植えられている。恐らく外国から輸入したのだろう、独特の形をした単子葉植物。たわわにに実った、ぷっくりとして愛らしい赤い果実。白い石畳で舗装された道の両側には、背の低いペレニアルやアニュアルが植えられ、所々に女神や天使、或いは動物を象った白いオーナメントが飾られている。
「あっ、これって、隣国にしか生えていない植物ですよね!」
フィオナが連れて来られたのは、温室の一角にある、薬草専用に作られた区画だった。右を見ても左を見ても前を見ても、白石で囲われた区画をぐるりと一周してみても、そこには薬草やハーブだけがいっぱいに植わっている。森に自生しているものもあれば、庭で育てているもの、それから市場ですら滅多に目にすることの出来ない希少種までもが豊富に生えているその光景に、フィオナは胸を躍らせずにはいられなかった。
温室へ行かないか、と誘われた時には驚いたし、もちろん申し訳ない気持ちの方がとても大きかったけれど。目の留まったものひとつひとつをじっくりと観察しながら、フィオナはふふっと顔を綻ばす。こんなにも素晴らしい植物たちに出会わせてくれて、今はただただ感謝でいっぱいだった。ここでしか見られないだろう薬草を隅々まで観察することが出来たし、それに――。
背中に注がれたまま微動だにしない視線がなんだかこそばゆく、フィオナは屈めていた腰をゆっくりと上げて振り返る。五本の柱と、蔓薔薇の茂ったパーゴラを被った、小ぶりな白いガゼボ。その中央に置かれた椅子に腰掛け、ガーデンテーブルに頬杖をついたシリウスは、フィオナをじっと見つめながら、何故か心底愉快そうに――或いは、面白そうに――やわらかく微笑んでいる。会話をしていたわけでも、植物を見て回っていたわけでもなく、薬草を見ては興奮し小躍りしているフィオナをただただ眺めているだけだというのに。
フィオナが振り返った今も、彼は朗らかな顔をしたまま、彼女の双眸を――或いは全体を――見入っている。長く濃い睫毛に縁取られた、宝石のように美しいアイスブルーの瞳で。そうやって見つめられると、どうしても心がむずむずしてしまう。
「……何故そんなに楽しそうなんですか」
眉を顰め、訝りながら小首を傾げると、シリウスはそれすらも面白そうにくすくすと笑った。
「君があまりにも幸せそうだから」
それは、とても真っ直ぐな言葉だった、真っ直ぐで、混じり気の殆ど無い、純粋な言葉。彼の口調から、声音から、眼差しからしっかりとそれを感じ取れるからこそ、フィオナは思わずどぎまぎしてしまう。確かに彼の言う通り、今とても幸せだ。滅多に市場へ出回らない希少種をじっくり見ることが出来たし、それ以外にも多種多様な薬草をゆっくりと観察出来もした。
それに何より――。少し躊躇いながらも、澄んだ青い瞳を見つめ返しながら、フィオナは思う。それに何より、貴方と二人でいられるから、と。だからこのひとときが、とびきり幸せなのだ、と。
けれどもそれを素直に口に出せるわけもなく、フィオナはひとつ咳払いをして、シリウスへ背を向ける。まだまだ観察したいんです、と。だから邪魔しないでくださいね、と。そんな嘘をたくさん貼り付けた背中で視線を遮り、まるで逃げるようにして。
温室へ行く、と言ったシリウスを、アレンはもちろんとめようとした。まだ書類が残っているからだとか、王妃とのお茶の約束があるからだとか、彼はたくさんの言葉をあれこれと並べ必死に引き留めようとしていたけれど。しかしシリウスはにべもなくそれらを一蹴すると、「少しくらい休憩したっていいだろ」と言い放ち、無理矢理部屋を出て行った。無論、呼び止めるアレンの声などまるで無視して。
あの後部屋に一人残されたアレンは、いったいどうなったのだろう。シリウスの代わりに書類を片しているかもしれない彼の姿を脳裏に思い浮かべなら、足元に咲いている小花を観察しようと腰を屈めた、その時だった。ふふっ、と、鈴を転がすような笑い声が聞こえたのは。
「貴方でもそういう顔をするのね」
まるでガラス細工のように繊細な、とても清らかで美しい声だ、と思った。もしかしたら大天使や女神の声なのではないか、と、ついそんなことを考えてしまうほどの、麗しい声。
その聞き覚えのない声にハッとして、フィオナは慌てて腰を上げる。ガゼボへと通じる小道の方へ目を向けると、そこにはテールグリーンの上質なドレスを身に纏った女性が一人で立っていた。毛先に向かって緩くウェーブのかかった艷やかなブロンドの髪の毛、陶器のように滑らかな白い肌、長い睫毛に囲われた大きな目、アンバーのような丸い瞳。
アメリア・グランディール――。間近で見るのは初めてだが、その美貌は正に“美と愛の女神”そのものだった。彼女を形作る何もかもが寸分の狂いなく整えられ、まるで精緻に造られた人形のようだとも思う。その均整とれたあまりの美しさに、フィオナは思わず見惚れてしまう。彼女と自分が同じ世界に生きていて、同じ生き物――魔女と人間という違いはあれど――であるということが、フィオナにはとても信じられなかった。
「帰ったんじゃなかったのか」
「所用を思い出しまして」
フィオナを一瞥だけし、傍を素通りしていったアメリアは、ヒールの音を響かせながら悠然とした歩みでシリウスのもとへと近寄ってゆく。その華奢な背中を暫し呆然と見つめていたフィオナは、しかし我に返った途端、ぎゅっと胸を締め付けられる強烈な感覚に襲われた。そのあまりの苦しさに、フィオナは狼狽える。どうすればいいのか分からず、とりあえずばたばたとその場を逃げ出したものの、彼女にゆく宛などあるはずもない。
聞いてはいけないだろう話を聞かないようにする為だ、とか。二人の会話を邪魔してはいけないから、とか。色んな言い訳を頭の中で繕うけれど、実際はそのどれでもないことは明白だった。
声が聞こえなくなるところまで走り、隠れられそうな巨木を見つけたフィオナは、その太い影に身を潜ませ、その瞬間、力が尽きたようにくたりとその場に屈み込んだ。“植物を観察している”というふうに見えていればいいな、と、そう思うけれど、きっとそうは見えないだろう。分かっているけれど、しかし今はこれ以上どうしようもなかった。締め付けられた胸が、あまりにも苦しすぎて。ちくちくと針で刺されているみたいに、心が痛くて痛くてたまらない。
 




