訪問①
訪問 ――十月十七日(火)、十八日(水)――
生徒会室で、事件について四人で話し合った日から四日がたった日の夕刻。
学校を終えた紗季は、自宅からほど近い場所にある公民館にいた。
室内は静寂に包まれ、張りつめたような緊張感に支配されていた。
正座で身を乗り出した人々が固唾を飲み、畳の上に並べられたかるたの取り札を一心に見つめている。
今日は、競技かるたの上達を目指す生徒たちが集まる、かるた道場の練習日だった。
『小倉百人一首』を用いた競技かるたは、平安貴族の子女の遊びだった貝合わせから発展して戦国時代に現在に近い形になったといわれ、明治時代に統一ルールのもとで正式な競技として成立した。『小倉百人一首』を用いるといっても、百枚の取り札すべてを使用するわけではなく、半分の五十枚を、それぞれの競技者が二十五枚ずつ、自陣に並べて取り合う。
自陣の取り札の並べ方は自由で、その並べ方によって勝負の行方が左右されることも少なくない。そのため競技者は、各々が自分の戦略に合わせて工夫を凝らした取り札の並べ方で相手と対峙し、より多くの取り札を取ろうとしのぎを削る。
紗季も、今日はそのような競技者の一人として、この場所にいた。
やがて。
室内を包み込んだ静寂を破るように、机の上に置かれたCDラジカセから、序歌の上の句が響き渡った。
なにわづにー さくやーこのはなー ふゆーごもーりー
序歌は『小倉百人一首』には含まれていない和歌で、競技かるたの始まりを告げるために読まれる。応神天皇の時代に、今の朝鮮半島にあった百済から渡来した王仁という人物の歌とされている。
続いて。
いまをーはるべとー さくやーこのはなー
序歌の下の句の読み終わりとともに、生徒たちの緊張感が、さらに高まった。
次の瞬間。
CDラジカセのスピーカーから、音になり切っていない空気の震えが漏れ聞こえたかと思う間もなく、バシッバシッと室内に畳を叩く鋭い音が響き渡る。一瞬の間をおいて、飛び散った取り札をパタパタと拾いに走る生徒たちの足音。
そして、読手の読み終わりとともに、再び訪れる束の間の静寂……。
同じような瞬間が、何度繰り返されただろう。やがて、微かな緊張と緩和の狭間で、室内の空気が微妙に変化しはじめた。ある場所では緊張感が一層高まり、ある場所では勝負の行方が見えてきたのか、空気が微妙に緩む。
さらに、勝負が中盤から終盤に差しかかると、部屋のあちらこちらから「有り難うございました」と、試合の終わりを告げる声が上がりはじめた。そして、それから数十分後。バンという一際大きな打音とともに、最後の一組の勝敗が決した。
「有り難うござました」
向かい合っていた紗季と正木あかねが、同時に頭を下げた。
つい今しがたまで室内に充満していた緊張感が一気に弛緩し、空気が解放感に満たされた。ふうという溜め息にも似た息遣いが、あちこちから漏れ聞こえてきた。
そんな空気の変化を確認したかのように、室内に先生の声が響き渡った。
「今日は、ここまでにしておきましょう」
先生の声を待っていたのだろうか。生徒たちが思い思いに立ち上がりはじめた。多くは、まるで目に見えない空気の流れに吸い出されるかのように、入り口の方向に歩を進めてゆく。ある者は一人で反省しているのか俯いたまま足早に、ある者は友人と談笑しながらゆっくりと。
「やっぱ、斎藤には敵わねえなあ」
「中盤の『村雨の~』で相手陣内を抜いて、一気に流れが変わったな」
「地区予選に向けて、今から調子を上げていかないと、ヤバいかもなあ……」
喧騒が少しずつ室外に移動していくなか、紗季は入り口の横にかけてあった自分のタオルに手を伸ばし、首筋の汗を拭いた。
「石塚さん、調子はどう?」
背後から声が聞こえた。振り向くと、先生が立っていた。
「はい。まあまあです」
汗を拭きながら、平静を装って答える。
「そう、それならいいけど……」
先生は、納得がいかない様子だった。
「“感じのよさ”が武器の石塚さんにしては、いつもの思い切りのよさがなかったようだし、差がつきはじめた中盤では、肝心な場面でも反応が今一つだったでしょ。ちょっと石塚さんさらしくないかなと思って。集中、できてなかった?」
さすがは先生だ。よく見ている。
先生の指摘は、まさに紗季自身が感じていることだった。
紗季の最大の武器は、読手の口から発せられる音の僅かな違いを感じ取り、スピード勝負で札を取る“感じのよさ”だ。対して、今日の最後の練習相手だった正木は、同じ高校生だが、紗季とは対照的に鉄壁の防御が特徴だった。
相手に取られないように札を守る囲い手などのテクニックを駆使して、自陣の札を確実に拾っていくという彼女の戦い方は、攻撃的な紗季にとっては、どちらかというと苦手なタイプといえた。
とはいえ、総合的な実力では紗季のほうが一ランク上だ。楽勝とは言えないまでも、そこそこの差をつけて勝つことができる相手のはずだった。
しかし、今日の紗季は、ちょっと違っていた。
いつもよりも腕が重く感じられ、思ったように札に手が伸びない。おまけに、徐々に引き離さなければならないはずの中盤に、数回にわたって相手陣内でお手つきをした。最終的には何とか勝つことができたが、不満の残る内容だった。
不調の理由は、はっきりしていた。例の脅迫状だ。
差出人は誰なのか、目的は何なのか。練習の最中もずっと、脅迫状の文面が頭の中にちらつき、勝負に集中できていない自分がいた。
「地区予選が近いんだから、集中が大切よ。何か気になることがあるんだったら、先生が相談に乗るから」
「有り難うございます。そのときは、よろしくお願いします」
先生はそれ以上、何も聞かなかった。無言で頷くと紗季の肩を軽く叩き、心配そうな表情を浮かべながらも静かに部屋を出ていった。
――そうだ。もうすぐ地区予選がはじまる。勝負に集中しなきゃ。
集中するには、どうすればいいのか。答は、明らかだった。
心を乱している問題を、解決するしかない。紗季は、かるたの練習場所である公民館を出ると、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
*
あれは四日前、生徒会室を出るときのことだった。
環が紗季に話しかけてきた。
「ねえ、私、思うんだけどさあ。伊織ちゃんって子の妹、葵ちゃんっていうんだっけ? その女の子って、今どうしてるんだろう?」
突然の内容に、紗季は戸惑った。
ここ数日のできごとを通じて、伊織についてはいろいろと考えていたが、正直な話、葵について考えたことはほとんどなかったからだ。
「葵ちゃんとは、火事の日以来、全然、話をしなくなっちゃったから……。しかも私は、それからすぐに施設を出ちゃったし」
「もし紗季がよかったらなんだけど……。その葵ちゃんって子に、会ってみるっていうのはどうかな?」
「実は、私がいた施設は、財政難だったことや理事長先生が亡くなられたことで、数年前に閉園してしまったの。だから、葵ちゃんがどこにいるか、今はわからないのよ」
「施設にいた先生の連絡先とかは、知らないの?」
「山本って先生なら、電話番号がわかるけど」
「じゃあ、その先生に会って、葵ちゃんがどこにいるか、聞いてみようよ」
正直、姉の伊織を見殺しにしてしまったという罪悪感を抱えたままで葵に会うのは、怖いの一言に尽きた。
紗季は、環の少々強引な提案に困惑しながら、力なく答えた。
「ちょっと、考えさせて」
その遣り取り以来、ずっと葵のことが心に引っかかり、頭から離れなくなっていた。
――葵ちゃんは今、どこでどうしているんだろう。
――葵ちゃんは、あの日のできごとについて、どこまで知っているんだろう。
環から提案された当初は、葵に会うなどということは考えられなかった。だが、週末から今日にかけて悩み続けた紗季の考えは、徐々に変化しつつあった。
そもそも、会いたいとか会いたくないとかいう気持ちとは関係なく、いつか謝罪しなければならないことに、代わりはないのだ。
――会うという決断を下せるかどうかはわからない。でも、葵ちゃんの居場所だけは知りたい。そして、そのうえで、葵ちゃんと会うべきかどうか、今一度、自分としっかり向き合いながら考えたい。
気がつくと、紗季はそう考えていた。
*
紗季は、取り出したスマートフォンを起動させると、アドレス帳で山本先生の連絡先を探し出し、表示されている通話ボタンを押す。
プルルルという短い呼び出し音の後、いかにも年配といった雰囲気の女性の声が、受話器から響いた。
「はい、山本です」
「もしもし、私、以前ほしのそら学園でお世話になっていた石塚紗季と申します」
相手は一瞬、言葉に詰まった後、声を大きく張り上げた。それは、心の底から喜びを爆発させるかのような声だった。
「まあ、石塚紗季ちゃん? 久しぶりねえ! 私、山本よ、山本! 何年ぶりかしら。懐かしい!」
懐かしく思ったのは、紗季も同じだった。
それにしても。
山本の番号にかけたのだから、電話に出るのは山本以外に考えられない。そんなに興奮して名乗らなくてもいいだろうにと思うと同時に、山本の相変わらずの天真爛漫ぶりに、思わず笑みがこぼれた。
山本は、施設の職員のなかでも、とくに紗季に親切にしてくれた先生だった。当時、職員のなかでも在職期間が比較的長く、女性ながら熱血先生といった雰囲気で、紗季たちに厳しくも優しく接してくれていた。
しかし、施設を出て以来九年、山本と直接、連絡を取ったことは数えるほどしかなかった。最後に連絡を取り合ったのは、四、五年ほど前だろうか。
――それなのに、覚えていていてくれたんだ。
嬉しさに、思わず頬が緩む。だが、懐かしがってばかりはいられない。紗季は気を引き締めると、本題に入った。
「ところで、一つお聞きしたいんですが……」
「あら、なにかしら?」
「葵ちゃん……。雨宮葵ちゃんが今、どうしているかご存じないでしょうか」
山本の声が、打って変わって一段低くなった。
「ええと……。実は、私は今、別の施設で働いているんだけど、ちょうど今から施設に関する会議に出席するために市の福祉課に行かなきゃならないの。電話で話すのはちょっと難しい内容だから、もしよかったら、明日の午後、施設に来れる? K市にある『しいの木苑』っていう施設。久しぶりに、会ってみたいし」
確かに、個人情報にも関わるデリケートな内容だし、数年ぶりに電話して、いきなり要件をすまそうとするのも失礼に当たる。
「わかりました。何時にお伺いすればいいでしょうか。学校は十五時過ぎに終わるので、十六時以降なら伺えると思いますが」
「じゃあ申し訳ないけど、十六時でいいかしら」
「はい、わかりました」
紗季は「失礼します」と電話を切ると、小さく深呼吸をした。ほんの僅かだったが、確かに一歩、前へ進めた気がした。
――そうだ、環にも電話をしておこう。
山本に葵の話を聞くことになったと、一応、報告しておくべきだと考えた。
スマートフォンのアドレス帳から呼び出した環の電話番号に電話をかけると、彼女はすぐに電話に出た。
「はい」
「もしもし、環? 私、紗季だけど。実は……」
明日の夕方、山本先生と会うことになった旨を告げた。
「紗季、とうとう決心したんだね。どんなことにでもしっかりと向き合う紗季のことだから、きっとそうくるって信じてたよ」
環は、受話器の向こうで嬉しそうに声を上げた。
「実は明日の放課後、図書館で啓太と一緒に事件について調べてみる約束をしたんだ。紗季が山本先生に会いに行くんだったら、役割分担ってことになるね」
紗季は、スマートフォンを耳に当てながら、小さく頷いた。




