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決断③

 三人の誰も頷かなかった。

 男は、構わず続けた。

「数年前、俺は妻を病気で失った。妻の死を親戚に責められて自暴自棄になった俺は、二年前に家を飛び出すと、関西の下町工場で働いた。だが最近、その工場も倒産しちまった。で、仕事を失って帰ってきてみたら、家はこのざまだ。人が住めたもんじゃない」

 周囲を見回しながら、男はポケットから煙草を取り出した。一本だけ抜き出すと口に咥え、プラスチック製の透明なライターで火をつけた。

「まずは、この家に代わって住むところを探さなきゃと思ったが、金もない。かといって、今の状態じゃ仕事探しもままならない。藁にも縋る思いで親戚に連絡を取ってみたが、みんな、冷たかった。それどころか、相続の問題で、この家に二度と近づかないでくれとまで言われちまった」

 男は、小学生相手に饒舌だった。誰かに、話を聞いてもらいたくて仕方がなかったのだろう。

「悔しいよなあ。もう生きるのに疲れたよ」

 男は上を向くと、鼻と口から煙を吐き出した。白い煙が、薄暗い部屋の空気に溶けていった。

「恥ずかしい話だが、死んだ妻は男が大好きな女でな。俺の目を盗んでは、いろんな男と会っていやがった。俺は、あいつが大好きだったが、同時に堪らなく憎かった。でも、神様はちゃんと見てたんだろうな。まだ若かったのに、あいつは突然、逝っちまいやがった。自業自得と言えば、確かにそうなんだろう。俺は『ざまあ見やがれ』と思ったよ。でも、何故か涙が止まらなかった……」

 やがて、男は床に投げ捨てた煙草を右足で踏みつけると、三人に静かに問いかけた。

「外に出たいか」

 三人は、同時に頷いた。

「よし、外に出してやろう」

 ――よかった。助かった。

 暗闇に包まれていた紗季の胸の中に、一筋の光が射した。恐らく、伊織も葵も、同じ思いだったろう。

 男は、傍らに置いてあった赤いポリ容器を両手で自分の前に移動させ、小さなふたを開けた。液体がタプンと波打つ音が聞こえると同時に、消毒用アルコールの鼻を突く臭いが辺り一面に広がった。

 男は、ふたを外した容器の穴から中の液体を覗き込み、強い口調で言った。

「ただし、外に出られるのは、三人のうち二人だけだ。一人は俺の人質として、この場所に残ってもらう」

 その言葉に、紗季の心の糸が再びピンと張りつめた。

 男は、感情を読み取ることができない虚ろな目をしながらも、野太い声を室内に響かせ続けた。

「まず、最初は……」

 男は、葵の顔に視線を止めると、右手で指差した。

「外に出られる二人のうち、一人はお前だ。お前はまだ小さいからな。ただし、外に出ても、ここでのことは誰にも言わないと約束してもらう。約束できないなら、外に出すわけにはいかない。どうだ。約束は守れるか?」

 葵は、唾をゴクリと飲み込むと、恐る恐るといった表情で男を上目遣いに見上げながら、弱々しく反論した。

「でも、お姉ちゃんたちは……」

「うるさい!」

 男が、葵の言葉を遮るように叫んだ。

「お前は、俺の質問に答えればいいんだ!」

 あまりの剣幕に、葵は黙り込んだ。男は、すっかり大人しくなってしまった葵に向かって、低い声で尋ねた。

「もう一度聞く。約束は守れるのか、守れないのか」

「守れる……」

 蚊の鳴くような声で答えた葵の目には、涙が浮かんでいた。

「わかったら、行け」

 男の言葉とともに葵はゆっくりと立ち上がり、おぼつかない足取りで部屋の入り口へと進む。廊下に出たところで一度だけ振り返ると、一目散に駆け出した。

 ドタドタという幼い靴音が少しずつ小さくなり、やがて室内は静寂に支配された。

 静寂を確認すると男は振り返り、目の前に座らせたままの紗季と伊織に視線を戻した。

 その後のことは、よく覚えていない。

 気がついたとき、紗季は一人で、建物の廊下を玄関に向かって走っていた。

 背中が、やけに熱い。

 思わず振り向くと、背後では建物全体を舐め尽くさんばかりに、巨大な炎の柱が揺れていた。

 ――伊織ちゃん?

 確かめたかったが、足を止めるのが怖かった。紗季は、全身に纏わりつこうとする焦げ臭い臭いから逃れるように、ひたすら出口を目指した。

 ようやくのことで建物から脱出した紗季は、恐怖に突き動かされながら、木々の間を縫うように走った。すると、進行方向から、数人の人々が小走りでやってくるのが見えた。彼らは「おい、燃えてるぞ」、「ヤバいな」、「マジか」と口々に叫びながら、紗季とすれ違っていく。紗季が進むほどに、その人数は急速に増えていった。

 いよいよ雑木林の入り口に近づいた、そのときだった。

 林の奥の方角から声が聞こえた。

「紗季ちゃん!」

 幼い声だった。友だちだろうか。しかし、聞き覚えのない声だった。無視して走り続けていると、もう一度、林の中に声が響いた。

「石塚……、紗季ちゃん!」

 先ほどよりも、呼び止めようというはっきりとした意志が感じられる声だった。しかし、そのときの紗季には、振り返ってその人物と言葉を交わす精神的な余裕はなかった。紗季は、構わず声を振り切ると、雑木林を後にした。

 その後、紗季は住宅街の中を必死で走り抜け、施設に戻った。

 当然のことではあるが、伊織は、やはり施設には戻っていなかった。一方で施設内には、いつになく重苦しい空気が漂っていた。職員たちは、近所で火事が起こっている事実に、明らかに動揺していた。そのような状況のなかで、伊織がまだ帰っていないことに気づいている者はいなかった。

 遠くに、消防車のサイレンの音がいつまでも聞こえていた。

 紗季は、職員にも、ほかの子どもたちにも一切、事件の真相を語らなかった。火事が落ち着き、夜になって伊織がいない事実に気づいた職員から、伊織の所在について聞かれたときも、しらを切った。

 無人の家屋とはいえ、他人の家に勝手に入り込んでいたことがばれたら怒られることは明らかだったし、喋ってしまうとどこからか男の亡霊がやってきて、再び連れ去られてしまうような気がした。

 それだけではない。何より、結果的に伊織を見捨てて逃げてしまったことに対する罪の意識が、紗季の口を閉ざさせた。

 結局、その日、伊織が帰ってくることはなかった。二日がたち、三日、四日と時間がたっても、伊織が施設に戻ってくることは、決してなかった。

 警察官がやってきて、職員たちに話を聞いている場面に何度か出くわしたが、紗季はその度にその場から逃げ出した。

 事件の日以降、紗季と葵が口をきくことはなくなった。葵は、明らかに紗季を避けているようだった。話ができないので確認のしようもなかったが、施設内で事件が話題に上らなかったことを考えると、彼女も紗季と同じように、事件について何も語らなかったのだろう。

 恐らく、紗季と同じように、事件の発覚によって自分の身に何かしらの不幸が襲いかかることを、漠然と恐れていたに違いなかった。

 そして、事件から何日ぐらいたったときだったろうか。施設の廊下で、職員たちが話しているのを聞いた。

「ねえ、聞いた? 例の火事の現場から、遺体が見つかったらしいよ」

 ――やっぱり、男も伊織ちゃんも、あの炎の中で死んじゃったんだ。

 自分が犯した罪を改めて目の前に突きつけられた気がして、目の前が真っ暗になった気がした。

 ――ごめんね、ごめんね。

 底知れぬ深い暗闇の中にうずくまったまま、紗季は心の中で謝罪の言葉を繰り返した。強く閉じた両の瞼から、涙が止めどなく溢れた。

 紗季は、どうしていいかわからずに、裸足のままで施設を飛び出した。

 頭の中が、真っ白になっていた。

 ふと我に返ると、足に包帯を巻き、施設の保健室でベッドの上に寝かしつけられていた。横で心配そうにしている職員に何があったのか聞かれたが、紗季は何も言わず、ただただ泣き続けた。

 その日以降、紗季は小学校を休むことが多くなり、施設に引き籠りがちになった。そして、それから数ヶ月後、同じ県内にあるN市に住む父親の親戚に引き取られることになり、施設を出た。

 その後、伊織に会うことは二度となかった。

 ――火をつけた男の人も伊織も、あの恐ろしい炎に巻かれて命を落としたのだから、会えないのは当然のことだ。

 そう考えた。

 もちろん、その後、葵と再会を果たすこともなかった。


          *


 話し終わって、数秒の後。

 スマートフォンの向こうから落ち着いた、しかし力強い環の声が聞こえた。

「そっか……。話してくれて有り難う。明日の放課後、どうしたらいいかを、一緒に考えよう。きっと大丈夫だよ。だって、ホントに悪いのは、紗季じゃなくて、火をつけた男なんだもん。だから、いざというときには、私が全力で紗季を守ってあげる。私、こう見えて意外と、頼りになるんだよ」

 心強かった。

「うん、私のほうこそ、有り難う。こんな時間に、本当にごめんね」

 紗季は、そう言うとスマートフォンの電源を切った。暗くなった画面を見つめながら、今一度、自分自身の無責任さを痛感した。

 ――私は、こんなに大切なことを忘れていたなんて……。

 言い訳も、できなくはないのだろう。

 ――あのときは仕方がなかったんだ。

 ――誰だって、あの場面ではそうしたに違いない。

 ――まして自分はあのとき、まだ小学校低学年だったのだ。

 実際、今の紗季は、混乱する頭の中で無理矢理、自分にそう言い聞かせようとしていた。

 しかし、そのような言い訳を飲み込む勢いで、忘れていたという罪悪感と、自分がとった行動に対する嫌悪感が、心の中で急速に大きくなるのを感じた。

 嫌悪感と後悔の念はみるみるうちに大きくなり、紗季の全身を包み込んでいく。

 ――ごめんね、伊織ちゃん。

 紗季は、思わず固く目を瞑り、自分自身を漆黒の闇の中に閉じ込めた。体全体を包み込む暗闇の中で思う。今、自分が感じている嫌悪感や後悔は、そもそも自分の行動の結果、いわば自業自得なのだ。

 気がつくと、肥大した謝罪の念が、手紙の不気味さをはるかに凌駕していた。

 ――向き合わなければ。そして、自分自身の中で決着をつけなければ……。

 手紙の差出人が誰なのか、今はわからない。

 だが、差出人が誰であろうとも、その人物に対して、当時の自分の行動をただ謝りたい。そして、決して許されるとは思わないが、謝罪までに十年近くもの月日が経ってしまったことを素直に詫びたい。

 心の底から、そう思った。

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