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決断②

「ねえ、今から三人で、一緒に行ってみない?」

 登下校の途中、道草をしてはいけないことになっていた。どこから見ても優等生にしか見えない伊織が、そのような秘密をもっていることが意外だった。

 紗季が返事に困っていると、伊織は、ほんの少しだけ、寂しそうな表情になった。

「だって、もうすぐ紗季ちゃんと会えなくなっちゃうでしょ。だから、今まで誰にも言わなかった秘密の場所なんだけど、特別に教えてあげる」

 その頃、伊織と葵の姉妹は近々、K市に住む里親のもとに引き取られるという話が持ち上がっていた。まだ正式に決まっていないため、施設のほとんどの子供たちは知らなかったが、紗季は数日前に伊織からこっそりと打ち明けられた。

 もちろん、寝耳に水の話だった。

 そのとき、伊織たちと離れ離れになった自分を想像して、紗季は内心、うろたえた。

 ――その家の人たちって、どんな人たち? いつ行っちゃうの?

 聞きたいことは、山ほどあった。

 しかし、詳しく聞けば聞くほど悲しさが募る気がしたし、そうなれば、自分はこの話が破談になることを願うようになってしまうかもしれない。

 ――伊織ちゃんたちが幸せになる邪魔をしちゃいけない。

 幼いながらに、そんなことを漠然と考えた紗季は、以後、その話題を自分から持ち出そうとはしなかった。むしろ、心の奥のほうに仕舞い込み、できるだけ考えないように心がけていた。

 だから、二人の間でこの話題が出たのは、二回目だった。

「伊織ちゃんたちが施設を出たって、普通に会えるよ。学校帰りに毎日、こども公園で待ち合わせればいいんだから」

 会えなくなってしまうという伊織の言葉にドキリとした紗季は、思わずむきになって答えた。こども公園とは、小学校から東側に延びる坂道を五分ほど上った場所にある小さな公園で、正式な名前を「北山(きたやま)こども公園」といった。

 二人が引き取られるK市は、三人が住むY市からは電車で一時間ほどかかるので、今まで通りに会うというのは、冷静に考えれば現実的な話ではなかった。しかし紗季には、会えなくなるという現実を正面から受け止める勇気が、未だになかった。

 すると、葵が横から呑気な声で口を挟んだ。

「毎日は無理だよ。だって遠いもん」

 小学一年生が無邪気に言い放つ一言に、紗季は現実を思い知らされた。

 確かに、毎日会うにしては、電車で一時間という距離は遠過ぎた。それは、紗季が受け止めるか受け止めないかに関わらず、紛れもない事実だった。

「でも、いい方法がある。紗季ちゃんが私と結婚すればいいんだ。そしたら、毎日会える」

 あまりにも唐突な一言に、紗季は思わず葵を振り向いた。自分が語っている内容の重大さに気づいていない様子で無邪気に笑う葵の笑顔が、そこにあった。

 瞬間、紗季の頬が、自分の意志と関係なく熱く火照った。

「女の子どうしは、結婚できないんだよ。馬鹿なこと言ってないの」

 硬直した紗季の前で、呆れ顔の伊織が葵の頭を軽く小突いた。

「葵ったら、本当に馬鹿よね」と同意を求める伊織の言葉に、紗季は黙ったまま、ぎこちなく俯いた。

 一方の葵は、紗季に向かって舌を出しながら首をすくめると、目の前の青信号に視線を移した。恐らく一刻も早く、その空き家に行きたくて仕方がないのだろう。

 次の瞬間、横断歩道の横にある自動車用の信号が、赤に変わった。すると、青信号を待ち切れないでいた様子の葵が、正面にある歩行者用信号が青に変わる前に、横断歩道に足を踏み出した。

 伊織は、そんな葵のランドセルをすかさず掴むと、葵の体を歩道に引き戻した。ほぼ同時に、三人の目の前を、一台の車が猛スピードで走り抜けていった。

 恐らく、あのまま葵が横断歩道に足を踏み出していたら、軽い接触ではすまなかったろう。紗季は、最悪の場面を想像して背筋が寒くなると同時に、そうならなかったことに心の底から安堵した。

 ランドセルを掴まれたまま驚いている葵に向かって、伊織が咎めるような口調で言った。

「いつも言ってるけど、お姉ちゃんがどんなときもあなたを守ってあげられると思ったら、大間違いよ。もうちょっと落ち着いて歩きなさい」

 伊織が口にした「どんなときも」という言葉には、二人にしか理解できない意味があることを、紗季は知っていた。伊織は、両親を亡くした事故のとき、まだ赤ちゃんだった葵を抱き上げて助けたのだという。「どんなときも」という言葉は、そのできごとを前提に成り立っているのだった。

 伊織の言葉に、半ばうわの空で「はーい」と返事をした葵は、今度は先ほどよりも心なしか大人しい足取りで横断歩道を渡った。

 団地の先にあるT字路を左折し、細い路地に入って数十メートルほど歩くと、小さな神社がある。その神社の前を通り過ぎてさらに奥まで進むと、やがて背の高い木々が生い茂る雑木林が姿を現した。

 三人は、そのまま薄暗い林に足を踏み入れる。団地や住宅街と小高い山を隔てるように、東西百メートル、南北数十メートルほどにわたって広がる、この辺りでは格段に広い林だった。

 この林の鬱蒼とした雰囲気が、明るい住宅街とは不釣り合いに思えた紗季は、以前、なぜこのような場所に広い林があるのか、施設の先生に尋ねたことがあった。先生の言うには、住宅街が開発されるとき、この一角だけは地主が首を縦に振らず、雑木林のままで残る結果になったという話だった。

 足を踏み入れてみると、外から眺めていたときに想像していた通りの、不気味という言葉がまさにぴったりの雰囲気をもつ林だった。

 枝を広げた広葉樹が頭上を覆い、空からじりじりと照りつける七月の太陽を遮っていた。雑木林に特有の、むせ返るような甘く青臭い臭いが鼻を突いた。

 時折、正体不明の鳥の鳴き声がギャーギャーと響き渡った。カナブンだか、大型のハチだかの翅が空を切るブーンという重低音が、耳をかすめた。

 紗季は、僅かな風にかさかさと音を立てている落ち葉を踏み締めながら、二人から遅れないように足早で歩いた。しばらく進むと、目の前が急に明るくなった。

 足元を見ていた目線を上げると、三人から十数メートルほど先に、林の切れ目が見えた。空から差し込んだ光が、地面を眩しく照らしていた。

 明るく照らされた地面の向こう側には、一軒の民家が建っていた。

「ここだよ。凄いでしょ」

 伊織が、弾むような声を上げながら、右手の人差し指で得意げに民家を指し示した。いつも冷静な伊織にしては、珍しく興奮している様子だった。

 民家の周囲は、かつて生垣だったと思われる低木が、隙間なく覆っていた。三人は、びっしりと並んでいる低木の切れ目を見つけて敷地内に入り込むと、木造の建物を間近から見上げた。

 遠目には立派な屋敷に見えたが、近くで見ると、伊織が最初に説明してくれた通り、至る所が朽ち果て、ボロボロになっていた。ガラスは割れ、一部のドアは蝶番の部分が外れて傾いていた。

 壁も、多くの部分が剥がれ落ち、下地を晒している。縦横に組まれた柱や木材が露出している場所もあった。

 ガラスのない窓から見える内部は、もちろん真っ暗だ。まるで、夏休みの時期にバラエティ番組などで見る心霊スポットそのものだった。

 気後れする紗季をよそに、伊織と葵は斜めになったドアを慣れた手つきで開けると、土足のままで室内へと足を踏み入れた。紗季も、慌てて続いた。

 入ってすぐ、床が一段高くなっていた。

 その先は、どうやら廊下らしかった。

 砂利なのだろうか、割れたガラスの破片なのだろうか。一歩進むごとに、ジャリジャリと耳障りな音が足下から響いた。その音とともに、埃臭い臭いが床から立ち上り、鼻の奥を不快に刺激した。

 紗季は、正体がわからない何かに躓きそうになりながら、伊織と葵の後を懸命に追った。数メートルほど歩いたところで、右側の壁が終わり、その奥に空間が現れた。

 部屋への入り口らしいのだが、奥は暗くて見えなかった。

 と、目の前が急に明るくなった。明かりの中に、伊織と葵の姿が、ぼうっと幻のように浮かび上がった。

 伊織の手には、小ぶりな懐中電灯が握られていた。こっそり、ランドセルに入れていたのだろう。伊織は、その懐中電灯を、天井からぶら下がっているフックに手際よく引っかけた。

 懐中電灯が、ちょうど部屋の照明のような効果を生み出し、室内全体を照らし出した。

 部屋の中央には、合成皮革でできているのだろうか、黒くて古めかしいソファが置かれていた。表面は所々、破れてスポンジが露出していた。

 ただ、ソファの上には明らかに新しいと思われる一枚の大きな毛布が敷かれ、破れの大部分を隠していた。

「この毛布、近所のごみ捨て場に捨てられてたんだよ。まだ使えそうだから、葵と一緒に持ってきたの」

 伊織が、自慢げに言った。

 葵が「漫画も、いっぱいあるよ」とソファの横を指さした。葵が指を差す方向には、やはり古びた棚があり、中には数ヶ月前のものらしい漫画雑誌が数冊、置かれていた。

 その横には、数年前に流行ったテレビアニメのキャラクターのカードゲームやトランプ、そして動くのかはわからないが、可愛らしいピンク色の小さなCDラジカセまで用意されていた。

 ソファの後ろには窓があった。だが、雨戸が閉まっているため、外からの光が室内に差し込んでくることはなかった。逆に考えると、室内の光が外に漏れることもなかった。

 なるほど、外の目を気にすることなく、こっそりと自分たちだけの時間を過ごすには、うってつけの部屋だった。

 紗季がそんなことを考えていると、葵がランドセルから一体の人形を取り出した。幼児向け特撮ヒーロードラマの主人公の人形だった。

 そのヒーローは、子供たちの間で当時、大人気を博していた。葵は女の子であるにもかかわらず、そのヒーローの大ファンだった。日本中の多くの男の子と同じく、毎週、放映時間になるとテレビの前に座り込み、動かなくなるのが常だった。

 そんな葵のために、伊織はある日、そのヒーローの人形をプレゼントしたのだという。

 その人形は、当然のように葵の大のお気に入りとなった。以来、葵はその人形を肌身離さず持ち歩くようになっていた。

「葵、その人形は学校に持ってきちゃダメだって、この間、言ったでしょ」

「たまたま、入ってたんだよ」

 伊織の叱責をすまし顔でかわした葵は、漫画雑誌を手に取ると、勢いをつけてソファに寝転んだ。溜め息を吐いた伊織は、紗季の顔を見つめて苦笑いをした。

「ああ言えば、こう言う。そもそも女の子なのに、何で特撮ヒーローなんだろうね」

 やがて、伊織はランドセルを床に置くと、葵の足下近くに腰かけた。右手でポンポンとクッションの表面を叩きながら、紗季に向かって微笑んだ。

「紗季ちゃんは、ここに座って」

 紗季は言われるがまま、伊織の隣に腰かけた。肩にかかる長さの紗季の髪の毛が、背中まで伸びた伊織のロングヘアと絡み合った。触れ合う肩を通じて、伊織の体温が伝わってきた。

 紗季は、改めて周囲を見回した。

 さっきは気づかなかったが、壁には一面に絵が貼られていた。紗季は、その多くに見覚えがあった。確か、伊織と葵が学校の図画工作の時間に描いた絵だった。

「凄い。美術館みたいだね」

 紗季が感心すると「今度、紗季ちゃんの絵も飾ろっか」と、伊織が嬉しそうに紗季の顔を覗き込んできた。

「うん。今度……」

 持ってくるよ、と言いかけた、そのときだった。入り口のほうからミシミシと床が軋む音が聞こえた。

 三人は、同時に息をつめた。反射的に、音の方向に目を遣る。懐中電灯が生み出す弱々しいオレンジ色の光の中に、人の姿があった。

 見知らぬ男だった。

 青い作業着に身を包み、顎から揉み上げにかけて無造作に伸びた無精ひげが、顔の輪郭を覆い隠していた。頭部は、しばらく風呂に入っていないのだろうか、ボサボサの頭髪に覆われていた。

 そんな頭髪に半分隠れた太い眉の下では、大きく見開かれた目が、三人をギョロリと睨んでいた。

 男は、三人の前に仁王立ちのまま、血走った目で叫んだ。

「ここで何をしている!」

 その形相は、まさに怒りに満ちた鬼のそれだった。

 やがて男は、胸の奥から強く息を吐きながら「ここに座れ!」と部屋の隅を指差した。

 逆らえるはずもなかった。紗季たちは男に言われるまま、薄暗い部屋の隅に移動すると、膝を抱えた状態で床の上に座り込んだ。床の冷たさが、足の裏と尻から少しずつ体に染み込んできた。

 そのまま、どれくらいの時間がたっただろう。

 緊張と恐怖で、時間の感覚が正常に働いていないことは明らかだった。

 紗季は、ふと我に返って考えた。

 ――今、何時頃だろう。

 暗い部屋の中では、日が暮れたのかどうかさえわからなかった。

 紗季は、隣を見た。同じように膝を抱えて俯いている伊織と葵がいた。

 目の前では、男が先程と変わらない表情で、無言のまま三人を見下ろしている。その顔には、怒りとも緊張ともわからない、硬い表情が浮かんでいた。

 傍らには、男が持ってきた大きなポリ容器が置かれていた。

 男は、ふうと小さく息を吐くとソファに体重を預け、静かに口を開いた。

「実は、俺はこの家の持ち主なんだよ。と言っても俺の名義ってわけじゃなくて、親族を代表して住んでたってだけなんだけどな。名義、わかるか?」

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