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決断①

決断 ――十月十三日(金)――


 それは、環から手紙のことについて聞かれた日の夜のことだった。

 紗季は、夢を見た。

 夢の中で、紗季は薄暗い空間に一人で佇んでいた。

 ――ここは、どこだろう?

 周囲を見回してみたが、薄暗さに目が慣れていないためなのか、景色がはっきりと見えない。周囲を確認することを諦めて視線を正面に戻したとき、目の前に一人の女の子が立っている事実に気がついた。

 紗季は、その女の子が誰なのか確認しようと、その顔を凝視した。だが、顔の周辺だけ靄がかかったようになっているため、誰だかわからない。

 ――学校の友だちだろうか。それとも、まったく知らない誰かだろうか。

 そう考えている間にも、その子は紗季の顔を覗き込むような仕草をしながら、こう言った。

 ――紗季ちゃん。私、忘れてないよ。

 瞬間、心臓の鼓動が速くなった。

 どうしていいかわからずに身を硬くしていると、突然、女の子の顔がどろりと溶け落ちた。女の子は、半ば液体と化した皮膚や筋肉を滴らせながら、紗季に一層、顔を近づける。

 紗季は顔を背けようとしたが、体が言うことを聞かない。

 ――あのとき、一人で逃げ出したでしょ。

 やがて、女の子の顔は、火に炙られているかのように泡を立てながら、赤黒く変色していく。あまりの悍ましさに、紗季は自由にならない体を懸命によじった。


         *


 思わず悲鳴を上げたところで、目が覚めた。

 気がつくと、寝間着であるTシャツは、汗でびっしょりと濡れていた。

 ベッドの上で、ゆっくりと上半身を起こす。体じゅうが、鉛のように重かった。半ば硬直した筋肉が動くたびに、全身の骨という骨がギシギシと締め上げられる感覚だった。

 息が苦しい。胸に手を当てると、心臓が早鐘のように打ち続けていた。大量の汗がこめかみを伝わって顎から滴り落ち、布団に吸い込まれていった。

 紗季は汗を拭いながら、半ば無意識のうちに昼間の環との会話を思い返していた。

 火事に関する細かい点をはっきりと覚えていないという話は、嘘ではなかった。だが、紗季は環に対して一点、嘘をついていた。

 その火事で、紗季は大切な友人を一人、失っていた。

 紗季が火事に関する細かい記憶を失っている大きな理由の一つに、友人を失ったという事実があることは、疑いようがなかった。恐らく、罪悪感に押し潰されそうな幼い心と体を守るために、自己防衛本能が働き、記憶を封印してしまったのだと思う。

 だが今、紗季の中では大きな変化が起こっていた。

 紗季は息苦しさに耐えながら今一度、頭の中でその変化を確認する。

 ――やはりそうだ。間違いない。


 目覚めた紗季は、あの日の詳細な記憶を取り戻していた。


 思い出している自分に気づいたとき、今の今まで当時の事件の詳細を忘れていた自分自身の無責任さに驚愕し、後悔した。

 ――私は、こんなに大切なことを忘れていたなんて……。

 たとえ、自己防衛本能による記憶の封印という不可抗力が理由だったとしても、自分で自分を許す気にはなれなかった。

 自分は、あの日のできごとに向き合わなければならない。強く、そう思った。

 だが、自分一人で向き合える自信はなかった。

 紗季は、思うように力が入らない右手で懸命に汗を拭いながら、左手で枕元のスマートフォンを確認する。

 午前一時を過ぎていた。

 考えてみれば、二十二時以降の記憶がなかった。いつの間にか、眠りに落ちてしまっていたのだろう。秒針の動きを見つめていると、不意に昼間の環の言葉が記憶の底から沸き上がってきた。

 ――もし、何か思い出したら、いつでもいいから、ぜひ教えてね。私たちが絶対に紗季を守ってあげるから。

 環の優しげな笑顔と力強い言葉が、この上なく懐かしく思えた。

 ――環……。

 気がつくと、紗季はスマートフォンのアドレス帳を開いていた。鷺沢環の名前を探し出すと、躊躇することなく右手の人差し指でタップする。

 二コールの後、環の声がスピーカーから響いた。

「もしもし!」

 聞き慣れた、元気のいい声だった。

「環? 私、石塚だけど、こんな時間にごめんなさい」

「紗季! 別に大丈夫だよ。ちょうど、動画を見てたところだったから。それより、何?」

 いつも通りの明るい声が、紗季をほんの少しだけ安心させてくれた。紗季は、動悸に伴う声の震えを懸命に抑えながら、環に向かって語りかける。

「私、思い出したの! あの日、あそこで、いったい何があったのかを……」


          *


 それは、夏休みを間近に控えた七月の蒸し暑い日だった。

 午後三時になると、放課後の訪れを知らせるチャイムが校内に響き渡った。すると、それを待っていたかのように、今まで静寂に包まれていた校内が、にわかにざわつきはじめた。

 三年二組の石塚紗季は、教室内の喧騒を聞き流しながら、ピンク色のランドセルを背負った。教科書やノートのほかに、昼休みに図書室で借りた本が二冊入っているランドセルは、いつもより重かった。

 紗季は、ランドセルの重さに負けないように肩に力を入れ、やや前のめりになりながら歩きはじめた。すると、それを待っていたかのように、同じクラスの雨宮(あめみや)()(おり)が軽い足取りで近づいてきた。

 彼女は、背中まで伸びたロングヘアを窓から吹き込んでくる微かな夏の風に揺らし、小学生らしからぬ大人びた笑顔で、唇を柔らかく動かした。

「一緒に帰る?」

 疑問形ではあったが、いつも通りの台詞だった。紗季は小さく頷くと、伊織とともに教室を出た。

 下駄箱の方向に足を向けたとき、「お姉ちゃん! 紗季ちゃん!」と叫ぶ声が聞こえた。振り向くと、一人の女の子が廊下を走ってくる姿が見えた。伊織の妹で、一年生の(あおい)だった。

 葵の足が床を蹴るたびに、耳が隠れるぐらいのショートヘアがふわりと柔らかく、上下に波打った。

「葵、廊下は走っちゃダメでしょ!」

 伊織が、葵の頭に右手でげんこつを振り下ろす仕草をした。葵はさっと素早く身をかわすと、伊織に向かって小さく舌を出して見せた。

 これも、紗季にとっては見慣れたいつもの光景だった。

 今日は木曜日。学校がある平日の五日間のうち、木曜日だけは三年生以下が五時間授業だ。そのため、紗季と伊織、そして葵は、木曜日には三人で揃って学校を出るのが習慣になっていた。

 紗季と伊織は、下駄箱で靴を履き替えると、並んで小学校の正門を出た。そんな二人の周囲をくるくると回りながら、葵が落ち着きなく歩いた。

 紗季と伊織に纏わりつく葵の姿は、まるで飼い主にじゃれる子犬のようでもあったし、地球の周りを回る月のようでもあった。

「お姉ちゃん、自分の名前、漢字で書ける?」

 二人の正面に回りこんだ葵が、得意そうに言った。

「今日、私、テストの答案に、初めて自分の名前を漢字で書いた」

「そんなの、書けて当たり前じゃない」

 伊織の塩対応に不満そうな表情になった葵は、紗季に向き直ると同じ質問をぶつけてきた。

「紗季ちゃんは、自分の名前、漢字で書ける?」

 どうやら葵は、名前表記の勝負で何とか勝ちを手にしたいらしい。

「うーん。今は書けるけど、一年生のときは、書けなかったかも」

 実は、小学校に上がる前から書けていたが、葵に花を持たせた。案の定、葵は「凄いでしょ、私」と鼻を膨らませた。

 学校を出ると、今まで一様に校門を目指していた大勢の子供たちが、夏の夜空で弾けた花火のように散り散りになっていった。しかし、三人は並んだまま、当然のように同じ方向に足を向けた。

 帰る場所は、一緒だった。小学校から歩いて十分ほどの場所にある、児童養護施設の「ほしのそら学園」だ。

 もともと母子家庭に育った紗季だったが、二年前に母親と兄が帰らぬ人となり、身寄りがなくなったため、この施設に入所した。一方、事故で両親と死別した伊織と葵は、伊織が四歳のときに施設に入所していた。

 当初、紗季にとって、姉妹は大勢の子供たちの中の二人に過ぎなかった。しかし、気がつくと大の仲良しになっていた。

 理由は、よくわからなかった。ただ、何ごとにも積極的で、紗季と同い年ながらも大人びた雰囲気をもつ伊織に対する、憧れのような気持ちがあったのかもしれなかった。

 微かな記憶がある。あれは、紗季が施設に入って、まだ数ヶ月ほどしかたっていないときのことだったろうか。


 遠くに行ってしまった母親と兄を思い出した紗季は、夜、部屋の隅で声を潜めて泣いていた。すると、背後から急に抱き締められた。

 紗季は、驚いて振り向いた。つい今しがたまで、確かに眠っていたはずの伊織だった。紗季の密かな嗚咽に気づいて、目覚めたのだろうか。

 紗季は恥ずかしくなって、涙を拭こうとした。しかし、そうするよりも前に、伊織は一層強く紗季を抱擁した。

 腕の自由が効かなくなった。紗季は、仕方なく目を瞑って伊織に身を任せた。

 匂いがした。母親に似た匂いだった。思わず、伊織の顔を見上げた。

 伊織は、無言だった。だが。

 ――大丈夫。寂しくないよ。私がそばにいてあげるから。

 そう言われている気がした。再び目を瞑ると、伊織の体温とともに悲しみの感情が少しずつ癒されていくのがわかった。

 紗季はそのまま、伊織の腕の中で癒しのひと時を過ごした。

 伊織と紗季の心の距離は、そのできごとをきっかけに急速に縮まった。


 そんなことを思い返しながら交差点の赤信号で立ち止まっていると、今まで前を向いていた伊織が、紗季を振り向いた。

「ねえ、団地の裏に、林があるでしょ?」

 突然の質問だった。伊織の言葉の真意を測りかねた紗季は、黙って伊織の顔に視線を移した。好奇心に輝く二つの瞳が、紗季の顔を見つめていた。

 団地の裏の林は、もちろん知っていた。東の外れに小さな神社がある、鬱蒼とした雑木林だ。知っているという前提なのか、伊織は紗季の返事を聞くまでもなく、顔を近づけながら続けた。

「あの林の奥に、誰も住んでない家があるの、知ってる?」

 今度の話は、初耳だった。気味が悪いため、林の奥にまで足を踏み入れた経験はなかったからだ。

「知らない。どんな家なの?」

「結構、大きな家だよ。ただ、空き家になって結構な時間がたってるみたいで、ボロボロだけどね」

 伊織は、左右を見回すと、紗季の耳元に唇を近づけて囁いた。その囁き声に反応した葵が、大きな声で補足した。

「私とお姉ちゃん、ときどきこっそり、その家に行ってるんだよ」

 伊織は、唇の前に人差し指を添えると、葵に叱責の視線を送った。

「しっ。ほかの子に聞かれるから、大きな声出しちゃダメでしょ!」

 伊織は再び紗季に向き直ると一層、顔を近づけた。

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