エピローグ②
久しぶりに学校の正門をくぐり、下駄箱に靴を放り込むと、上履きに履き替えて教室へと続く廊下を進む。横にいるのが失礼極まりない幼馴染であるというマイナス要素はあるものの、二人で並んで歩く廊下が、妙に懐かしく感じられた。事件があったのは僅か六日前だというのに、ずいぶん昔のできごとのようだ。
――いろいろなことがあり過ぎて、恐らく私の優秀な頭でも、まだ情報を整理し切れていないということなのだろう。
教室に入ると、いつもの仲間がいつものように笑顔で迎えてくれた。
「環、久し振り!」
「元気そうじゃん!」
「宿題、ちゃんとやってきた?」
事件前と変わらないごく普通の会話が、心地よかった。人の心はきっと、このような日常的な会話によって守られているのだ。
他愛ない会話の心地よさに浸っていると、映像研究部部長の玉山が、神妙な面持ちで近づいてきた。
「鷺沢、もう大丈夫なのか?」
「うん。カウンセリングの先生とも相談して、もう大丈夫ってお墨つきもらったから」
環は、それだけが取り柄と言っても過言ではないとびっきりの笑顔で、いつも通りに答える。
「今回の事件、本当に申し訳なかった。うちの部員のせいで……」
玉山は、やや俯き加減になりながら、ぽつりと言った。
「ううん、玉山君は全然悪くないよ。悪いのはあくまで坂元っちゃん……、坂元さんだから。私だけじゃない。紗季もきっと、玉山君は全然悪くないってわかってると思う」
そう言いながら、紗季の席を横目でさりげなく観察する。もちろん、紗季の姿はない。ふと、寂しさが頭をよぎった。
そのとき、教室の前方で男子生徒の声が響いた。
「おーい、鷺沢、お客さんだぞ」
振り向くと、入り口付近に一人の女子生徒が立っていた。恐らく身長一七五センチはあろうかという長身に、ショートカットがよく似合っている。宝塚歌劇団のポスターからそのまま抜け出してきたような、ボーイッシュな美人だった。
環が近づくと、宝塚の女子生徒は、ちょっと要領を得ない様子で自己紹介をした。
「私、一年B組の立石あやめです。三年E組の岡田真菜先輩が、『三年F組の石塚さんと鷺沢さんが探してたよ』って言ってたから、来たんですけど……」
すっかり忘れていたが、環は、その言葉ですべてを理解した。この女子生徒こそ、一時は事件の鍵を握っている重要人物にリストアップされていた、謎のバスケットボール部員だったのだ。
それにしても、わざわざ会いに来てくれるとは、何と律儀な子なのだろう。環は、思わず彼女をハグしたくなる衝動に駆られたが、状況を考慮して耐えた。
あやめは、やや緊張した面持ちではあったが、はっきりとした口調で語った。
「数日前、岡田先輩に『九年前の雑木林の奥で起こった火事のことを覚えてない?』って聞かれて、ここ数日、ずっと考えてたんですけど……。私、思い出したんです。その火事が起こったとき、たまたま林のすぐ近くにいた私は、ほかの野次馬の人たちと一緒に現場を見に行ったんです。そのとき、石塚先輩を見かけて声をかけたような気がするんです。石塚先輩は多分、私のことを知らなかったと思うんですけど、私は知ってたから……。もちろん、ずいぶんと昔のできごとなので『絶対に間違いないか』って聞かれると、自信はないんですが……」
なるほど。環は納得した。
火事の現場で紗季が聞いた「紗季ちゃん」という声の主は、今、環の目の前に立っている立石あやめだったのだ。環は、今回の事件の真相をあやめに語りたいという欲望を覚えたが、それを理性で抑え込んだ。
事件は、もう終わったのだ。関係者ではない人に、その真相を面白可笑しく語ったところで、誰も幸せにはならない。
環は、真相を語る代わりに、優しく微笑んだ。
「わざわざ有り難う。岡田さんに声をかけたときは、いろいろと聞きたいことがあったんだけど、もう解決したんだ。ごめんね。それより、体調は、もう大丈夫なの?」
あやめは一瞬きょとんとした表情をしたが、その後すぐ、気持ちを入れ替えたように笑みを浮かべた。
「うん。もうすっかり元気になりました。文化祭に参加できなかったのは残念だったんですけど……」
飾り気はないものの、一つ一つの言葉に感情が籠った話しぶりには、彼女の真面目な性格が表れていた。
「そっか、元気になれてホントによかった。今年の文化祭は終わっちゃったけど、文化祭は来年もあるしね。文化祭もそうだけど、部活も頑張ってね」
あやめは、頬を紅潮させながら「はい、有り難うございます」と満面の笑顔で答えた。
*
その日は、つつがなくときが過ぎ、気がつくと放課後になっていた。
久し振りの授業を無事に終えた環は、放課後、自分の席の背もたれに寄りかかったまま、大きく伸びをした。
先週までは当たり前のように過ごしていた時間だったはずだが、とにかく疲れた。学校とは、こんなに疲れるものなのかと、我ながら驚いた。
伸びをしながら、周囲を見渡す。教室は、ほかに誰もいなかった。環は、机の上に鞄を置くと自分の席を離れ、窓際にゆっくりと歩み寄る。窓枠に手をかけ、身を乗り出した。
いつもと変わらない、見慣れた景色が眼下に広がっていた。その景色を眺めていると、紗季の顔が頭に浮かんだ。
――紗季、大丈夫かな。
瞬間、十月の涼しい風が開け放たれた窓から吹き込み、環のショートボブの髪の毛を撫でて過ぎていった。その風に身を任せながら、環は思う。
高校生活も、あと四ヶ月あまりだ。四ヶ月たつと、環はこの教室の仲間たちとも、そして紗季とも離れ離れになる。
だから、もし紗季が再び学校に戻って来たときには、今までやってこなかった楽しいことやバカなことに、彼女と一緒にいっぱいチャレンジしよう。もし啓太が望むなら、邪魔にならない範囲内で、少々なら参加させてやってもいい。
そして、三年間の高校生活を最高の思い出とともに締め括ることで、紗季の不幸で悲しい記憶の上に、幸福で楽しい記憶を上書きしてしまおう。
――紗季が、これ以上、過去の記憶に捉われないですむように。
そう簡単でないことは、重々承知している。いや、もしかしたら、環には無理な話なのかもしれない。
しかし環は、いつも自分の席で控えめな笑顔を見せていた紗季を思い出しながら、そう心に決めた。
(了)




