脱出②
あまりにも凄まじい光景に紗季が呆然としていると、環とともに一足先に屋外に出ていたのであろう香澄が駆け寄ってきた。
「俺と石塚は大丈夫。それより、坂元が足をやられた」
啓太が、そう言いながら佑希を背中から降ろす。紗季は香澄とともに、それを手伝った。佑希の右膝はスラックスが破れ、血が滲んでいた。破れた部分から覗く関節付近は、紫色に腫れ上がっていた。
地面に降ろされた佑希は、湿った土の上に座り込むと、俯いたまま投げ遣りに言い放った。
「なぜ、僕を助けたんですか? 僕なんて、この火に巻かれて死んでしまえば……」
言い終わらないうちに、香澄の右掌が佑希の左頬を強く叩いた。パン、と大きな音が響いた。佑希は頬を押さえながら、驚いた表情で香澄を見上げた。
「死ぬなんてこと、言わないで……」
香澄はそう懇願すると、嗚咽を漏らしながら、佑希の首に両腕を回す。そのまま、佑希の体をきつく抱き締めた。
佑希は香澄に抱き締められたまま、肩を震わせた。大粒の涙が頬を伝い、炎を反射してオレンジ色に染まる地面に落ちた。
*
遠くから、環のよく通る声が聞こえた。
「はい。山城町の交差点を右に曲がって林道を入った先にある無人の家屋です。はい、中に人はいないと思います」
どうやら、警察か消防に電話をしているようだった。
やがて、香澄から体を離した佑希は、環が電話をする様子を見ながら、啓太に向かって静かに問いかけた。
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「何だ」
腕組みをした啓太が、佑希を見下ろす。
「ひょっとして、ここに来る前に、僕が犯人だとすでに気づいてたんですか?」
「ああ、そんなことか。実は俺たち、石塚のメールを見てしまったんだ。そして、そこにあった写真を手がかりにして、伊織さんが復讐について語るブログ辿り着いた。すると、そのブログで写真を見ていたタマが、一枚の写真にギガソルジャーのオイルライターが写り込んていることに気づいたんだ。俺は指摘されるまですっかり忘れてたんだが、それは火事の現場に行ったとき、お前が使っていたライターそのものだった。その瞬間、俺たちは坂元佑希が脅迫犯だと理解した。だが、伊織さんは俺たちと同い年だから、二学年下の坂元佑希と同一人物とは考えにくい。そこで俺たちは、ブログは坂元佑希が伊織さんを騙って書いたと考えた。そこまで考えたとき、坂元佑希の正体は、火事の事情をよく知っている人物、つまり雨宮葵意外に考えられないという結論に達したんだ。現場に駆けつけたときに、伊織さん本人がいたことには、さすがにびっくりしたけどな」
その言葉に軽く唇を噛んだ佑希は、次の瞬間、小さく息を吐きながら苦笑した。
「さすが先輩ですね。それと、鷺沢先輩の観察眼も思った以上でした」
「ああ、あいつはああ見えて、意外と鋭いところがあるんだよ」
啓太が、環の方向に視線を送りながら、白い歯を見せて顔をほころばせた。なぜか、少しだけ得意げに見えた。
「俺のほうからも一つだけ、いいかな?」
今度は、啓太が佑希に問いかけた
断るわけにもいかないのだろう、佑希は静かに頷いた。それを確認した啓太は腕組みをし、足元の雑草に目を落としながら、言葉を選ぶように静かに語る。
「人ってさあ、窮地に追い込まれて判断に困ると、瞬間的に自己保身に走ってしまうことがあると思うんだよな。自業自得ってケースならともかく、降って湧いたような窮地の場合は、とくにそうだ。かく言う俺も、自慢じゃないが、似たような経験ならいっぱいある。凄く急いでるときに、困ってるお年寄りを見かけたのに『誰かほかの人が相談に乗ってあげるだろう』って自分に言い聞かせながら通り過ぎてしまったとかさ。まあ、その例えが適切かどうかはわからないけど……。とにかく俺は、もし自分の命がかかってるような場面に遭遇したときに『俺は決して自己保身には走りません』って大見得を切れる自信は、まったくない。俺だけじゃない。きっと、人って、みんな多かれ少なかれ、そうじゃないかと思うんだ」
啓太は、表情を確認するように佑希の顔にちらりと視線を送ると、軽く咳払いをした。
「お姉さんが自宅の火事について告白したとき、お前はライターを落とすほど動揺した。その動揺の理由は、もちろん『お姉さんが嘘をついていた』っていうのが一番大きかったんだろう。けど、そのほかに『自分にも、過去に自己保身に走った心当たりがある』っていうのもあったんじゃないのか?」
佑希が、何かに気づいたように、はっと顔を上げた。それを確認して、啓太は続ける。
「そもそも人間って、切羽詰まった状況に追い込まれたとき、自分のはっきりとした意志や理性で次の行動を決めているかっていうと、意外にそうでもない気がするんだよ。個人的な考えだけど、ちょっとした“もののはずみ”とか“成り行き”、あるいは衝動みたいな要素が凄く多いっていうか……。そんな強烈な衝動が、普段はどう考えてもとらないような行動を、無意識のうちにとらせてしまうんじゃないかな。今、話した自己保身のための行動も、意志というよりは理性を超えた衝動なんだよ、きっと。まあ『だから、すべての人を許すべきである』なんて無責任なことを軽々しく言うつもりもないんだが……。何か、ふと、そんなことを思っただけだ」
柄にもなく、自分の言葉が余計なお世話であるように思えたのかもしれない。最後のほうは、珍しく小さな声だった。佑希は黙って、啓太の話を最後まで聞いていた。
一方の紗季は、啓太の言葉をぼんやりと聞きながら、靄がかかった頭で忌まわしい過去の記憶の断片を繋ぎ合わせていた。
思えば、九年前に火事に遭遇したときの紗季の思考は、確かに何か得体の知れないものに支配されていた気がする。それは、何の前触れもなく、ある瞬間に突然、妖怪のように紗季の心の隙間にするりと入り込んできた。
言い訳じみた話ではあるが、あのときの紗季の行動を生み出したものは、まさに啓太が言う通り、その妖怪が生み出した衝動そのものだったのかもしれない。
「きっと石塚は、炎に囲まれたお前を命がけで助けることで、自己保身に走ってしまった過去の自分にけじめをつけようとしたんだよ。少なくとも、俺はそう思う」
すべてを見透かされている気がして、紗季が思わず啓太を見上げた、ちょうどそのとき。
二人から離れた場所に立っていた環が、通話を終えたらしく、スマートフォンを耳から離してこちらに近づいてきた。
佑希の表情が、強張ったように見えた。厳しい叱責を予想したのかもしれない。だが、環の問いかけは、そんな佑希の想像とは対極にある内容だった。
「坂元っちゃん、大丈夫?」
思いもしなかった言葉だったのだろう。佑希は、ほんの少し驚いた様子だったが、すぐに気まずそうに答えた。
「はい、大丈夫です」
佑希の返事に安どの表情を見せた環は、今度は啓太の顔を覗き込む。
「啓太は……、大丈夫に決まってるよね」
啓太は、心配の欠片も見せずに満面の笑顔で語りかけてくる環を前に、何かを諦めたように微かな溜め息を吐いた。
「ああ、大丈夫だ。で、警察は何だって?」
「『すぐに行くから、安全な場所に避難していなさい』だって。あと、消防にも連絡しておいた」
啓太は一旦頷くと、すぐに顔を上げた。
「ところで……」
そう言いながら、生垣の外側に目を遣った。環は、啓太の視線に釣られて、同じ方向に顔を向ける。数人の男たちの姿が、茂みの向こう側に生えている木の陰から見え隠れしていた。
「あいつらは、いったい何者なんだ?」
「香澄ちゃんが言うには、犯行予告のブログの書き込みを見て見物に来た野次馬みたい」
「なるほど……」
状況が飲み込めたのか、啓太は腰に手を当てながら、静かに息を吸う。次の瞬間、大きく口を開けると、人影に向かって怒鳴り声を上げた。
「もうすぐ警察が来る! そうなったら、お前らも署に連れて行かれて、きっと事情聴取されるだろう! それが嫌なら、とっとと家に帰ったほうがいいぞ!」
二百デシベルを超えようかという大音響が、周囲の空気を震わせた。近くにいた紗季が、思わず耳を覆いたくなるほどの大声だった。
啓太の話の内容に恐れをなしたのか。それとも、啓太の剣幕に本能的な危険を感じたのだろうか。木の陰から生垣越しに中の様子を伺っていた数人の男たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
*
間もなく、傍観者たちと入れ替わるように、パトカーと消防車がけたたましいサイレンの音とともに到着した。
その後、警察から簡単に事情を聞かれた紗季や環、啓太は、後日、改めて事情聴取をおこなう可能性があるという説明を受けた後、解放された。足を負傷していた佑希は救急車に乗せられ、つき添いの香澄とともに病院に向かった。




