脱出①
脱出 ――十月二十一日(土)十六時三十五分――
――引火、する?
紗季の頭を最悪の状況がよぎった、次の瞬間。
「紗季ちゃんは、卑怯なんかじゃない!」
銀色のオイルライターを手にしている佑希の背中に向かって、香澄が叫んだ。
その声に、佑希の動きが止まった。
香澄は数秒の間を置き、宙を見つめたかと思うと、何かを決断するかのように大きく深呼吸をした。
「本当はあのとき、東谷和彦に『口が堅いのはどっちだ?』って聞かれたとき、一瞬、私も手を挙げそうになったの。紗季ちゃんを見捨ててでも、自分だけ助かりたいって考えてしまったのよ」
香澄は視線を落としながら、告白を続ける。今、香澄の目には、朽ち果てた床板のほかに、何が見えているのだろうか。
「でも、妹が先に解放されたんだから、今度は紗季ちゃんの番だとも思ったの。私たち姉妹が先に逃げ出して、紗季ちゃんだけ残すなんて、ずるいなって。私は、あのとき紗季ちゃんが解放されて、本当によかったと今でも思ってる」
目には、涙が浮かんでいた。
「それに、もう一つ言っておかなきゃいけないことがあるの」
香澄は、心の奥底にある仄暗い淵から小さな記憶の欠片を一つ一つ丁寧に拾い上げるかのように、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「葵、あなたはまだ一歳だったら覚えてないかもしれないけど……。お父さんとお母さんが十四年前に死んでしまった事故は、自宅の火事だったの。恐らく、ガスコンロの火が原因だったんじゃないかと思う。私が気づいてリビングに行ったときには、もうかなりのところまで火が回ってた。お父さんとお母さんは慌てた様子で、あなたが寝ている二階の部屋まで、すぐに駆け上がっていったわ。私は、三人が階段を駆け下りてくるのを信じて待ったけど、三人はいつまでたっても下りてこなかった。心配になった私は、熱いのを我慢して、階段を上がった。そして、炎に包まれつつあった廊下の奥に、お父さんとお母さん、そしてあなたの姿を見たの。そのときの光景は、今も瞼の裏に焼きついて離れない」
香澄は両目に涙を浮かべながらも、話すことをやめようとはしない。潤んだ二つの目で、佑希を正面から見据えている。
「一瞬、助けなきゃと思った。でも、それ以上に怖かった。気がつくと、私は三人から逃げるように階段を駆け下りて、裸足のまま家から飛び出していたの。その後、消防隊の人が駆けつけて、三人を助け出したけど、お父さんとお母さんは助からなかった……」
佑希は、目を見開いたまま、立ち竦んでいた。恐らく、香澄の話をすぐには信じられなかったのだろう。心の中に、十四年のときを超えて嵐のような感情が沸き起こっていることは、疑いようがなかった。
「お姉ちゃんは、あなたを見捨てて逃げてしまったの。あなたを助けたなんて言っていたけど、それは後で思いついた真っ赤な嘘……。本当は、お姉ちゃんこそ卑怯な人間なのよ!」
当初は感情を意識的に抑え込んでいるかのように静かだった香澄の語り口は、最後には絶叫に近くなっていた。部屋の空気が大きく震えた。
「お姉ちゃんは、葵、あなたを人殺しにしたくない。でも……、それでも、どうしても人を傷つけたいんだったら、紗季ちゃんの代わりに、私を殺しなさい。十四年前にあなたたちを見捨てて逃げた、この私を……」
絶叫に続き、震える声で紡ぎ出されていた言葉は、徐々に小さくなっていく。最後には、窓の隙間から吹き込む微かな風の音にかき消され、聞こえなくなった。
佑希は、まるで聞いてはいけない話を聞いてしまったかのように、頬を引きつらせた。明らかに狼狽していた。鼻からひゅうひゅうと漏れる荒い呼吸音が、風に乗って紗季の鼓膜を震わせた。
「でも、でも……。石塚紗季は、お姉ちゃんを……」
それ以上の言葉を発することができず、佑希はうな垂れた。血の気が失せたまま、口を固く結んでいる。
そのまま、数十秒のときが流れた。
「訳がわかんないよ……」
佑希は吐き捨てるように呟くと、すべてのエネルギーを抜き取られたかのように、膝からガクリとゆっくり崩れ落ちた。よく見ると、肩を細かく震わせていた。
すべてが終わった。
――よかった……。
紗季は自分の無事を喜ぶよりもまず、佑希が過ちを犯す結果にならなかったことに胸を撫で下ろした。今まで体中を貫き、紗季自身を縛りつけていた緊張感から、一気に解放された。
しかし、紗季はそのような自分の考えが楽観的に過ぎなかったことを、すぐに思い知らされた。
脱力した佑希の手を離れたオイルライターが、崩れかけた柱のせいで傾斜している床に落下した。ライターは、小さな黄色の炎を細長くたなびかせながら、入り口がある壁のほうへと滑り落ちていったかと思うと、アルコールに濡れたポリ容器にぶつかって止まった。
次の瞬間、ポリ容器の周囲に、まばゆいばかりのオレンジ色をした火柱が上がった。火柱は、床にまかれたアルコールを伝わり、すぐに巨大な火のカーテンとなる。室内にいる佑希とほかの三人の間が、巨大な火の壁で隔てられた。
膝をついたまま、茫然と炎を見つめる佑希を横目に、香澄が紗季に駆け寄った。そのまま、紗季を炎の魔の手から守ろうとするように、再び抱き締める。
だが、そうしている間にも、炎は急速に大きくなる。瞬く間に、部屋全体が真っ赤な炎に包まれた。
ソファの陰に潜んでいた環が、身を翻して躍り出た。
「入り口のほうに向かって、走って!」
そう言うが早いか、普段から自慢している快足を生かして、二人を先導するかのように部屋の入り口に向かって走りはじめる。当初、唐突な環の登場に驚いた様子の香澄だったが、その声に我に返ると、すぐに紗季の腕を取って環の後を追った。
すると、そのタイミングを待っていたかのように、入り口を塞いでいた木製の棚が、手前側に倒れてきた。その向こうには、腕まくりをして大きく息を吐く啓太の姿がはっきりと見えた。
――部屋の外に出られる。
そう思いながら振り向くと、佑希は慌てて腰を浮かし、紗季と香澄の二人を追いかけようとする意志を見せていた。しかし、彼女が二人を追いかけることはできなかった。
佑希が一歩を踏み出すよりも一瞬早く、炎が佑希の傍らに放置されていた数個の段ボール箱に燃え移った。炎は、乱雑に積み重ねられている箱全体を上るように燃え広がったかと思うと、可燃性の壁紙が貼られている壁を、一瞬のうちに包み込んだ。
佑希の姿が、真っ赤な炎の向こうに霞んだ。
炎は、さらに紗季と香澄がいる場所をも飲み込もうと、みるみるうちに迫ってくる。
「葵ちゃん!」
紗季は身を翻し、本能が命じるまま、炎に向かって走り寄ろうとした。しかし、強い力が、それを許さなかった。振り向くと、香澄が紗季の腕と肩をしっかりと押さえ込んでいた。香澄に引きずられるようにして部屋の入り口に辿り着いた紗季は、環や啓太とともに、紅蓮の炎の中にある室内を今一度、凝視した。
この世のものとは思えないほどに眩いオレンジ色の光を放つ空間の中で、佑希が熱を避けるように体を捩じるのが見えた。壁際に置かれていた棚に手を突いた拍子に、棚がぐらりと揺れて佑希の体にのしかかった。
ドンという鈍い音が炎を揺らし、紗季の耳をつんざいた。息を飲む間もないほどに、あっという間のできごとだった。
「葵!」
今度は、紗季の横に立つ香澄が、ほとんど反射的とも言える素早さで、佑希がいるであろう方向に向かって手を伸ばした。しかし、目の前で燃え盛る炎になす術はなかった。迫りくる炎が、透き通るほどに白い香澄の肌を赤く染め、黒く長い髪の先端をちりちりと焦がした。
あのときと同じ光景だった。
炎の向こう側で絶望している人物と、こちら側で手を伸ばす人物は異なるものの、既視感を伴って迫ってくる光景……。
紗季は、目の前で室内を舐め尽くそうとする炎の向こうに、伊織の幻を見た気がした。封印されていた記憶が、自分でも信じられないほど鮮明に瞼の裏に蘇る。
轟音と共に渦を巻く炎に見え隠れしながら、紗季を悲しげに見つめる幼い二つの瞳。
肌を焼くほどの灼熱の炎の中から力なく伸びる、華奢な五本の指先。
陽炎のように揺れながら、聞き取れない言葉を必死に語りかける桜色の唇……。
――そうだ。私は今度こそ、伊織ちゃんを助ける。助けなくちゃならない。
「伊織ちゃん!」
紗季は香澄の手を振りほどくと、目に見えない衝動に突き動かされながら駆け出し、炎の中に身を投じた。もはや炎の熱さも、ロープで縛られていた手首の痛みも一切、感じなかった。
「紗季ちゃん!」
「紗季!」
後ろから、香澄と環の叫び声が、同時に聞こえた。
その声を置き去りにしたまま炎の壁を通り抜けた紗季は、四方を炎に囲まれた絶体絶命の状況のなかで、佑希の前に屹立した。自分でも驚くほどに冷静だった。静かに佑希に歩み寄ると、肩を支え、引き寄せようと試みた。
しかし、佑希の体はびくとも動かなかった。ふと足下を見ると、佑希の右足の膝から下が、先ほど倒れた棚の下敷きになっていた。紗季は、慌てて棚を持ち上げようとした。だが、棚は持ち上がる気配を見せない。女性一人の力で太刀打ちできないことは、明らかだった。
――お願い。持ち上がって。
祈りながら何度も腕に力を込めていると、急に棚が軽くなった気がした。同時に、棚がふわりと持ち上がる。信じられない思いで横を見ると、太い二の腕が視界に入った。その腕が、棚を軽々と持ち上げている。
腕の表面に、太く浮き上がる血管の束が見えた。紗季は、幻影を見るような心持ちで、腕のつけ根に向かって、徐々に視線を移動させる。
啓太だった。
「鷹水君!」
勢いを増す炎の中、思わず大きな声で彼の名を呼んだ。
「話はあとだ。それより、俺が持ち上げてるから、彼女を引きずり出して!」
我に返った紗季は、言われるがまま、再度、佑希の腕を引っ張った。今度は、信じられないほどスムースに、佑希の体が動いた。佑希の全身が棚の下から引きずり出されたのを確認すると、啓太は力を緩めた。棚が再び床に倒れ込み、床がミシミシと軋んだ。啓太は、動けなくなった佑希を背負うと、紗季に声をかける。
「部屋の外は、まだそれほど火が回っていないはずだ。玄関まで、走るぞ」
その言葉を信じた紗季は、今にも炎に包まれようとする部屋の入り口を抜けると、啓太の背中を追いかけながら死に物狂いで走った。啓太の言う通り、部屋の外にある廊下は、部屋の中ほどは火が激しくなかった。
だが、炎が廊下にまで到達するのが時間の問題であることは、明らかだった。紗季は啓太に続いて、なおも懸命に走る。玄関までが、やけに遠く感じられた。
足を動かすに従って、玄関から漏れてくる外の光が、少しずつだが明るく、大きくなってくる。
――もうすぐ、もうすぐだ。
自分に言い聞かせながら走り続けた紗季は、最後の力を振り絞って玄関を駆け抜ける。そのままの勢いで屋外に飛び出すと、生い茂る雑草の上に膝を突き、啓太とともに地面にへたり込んだ。
肩で息をしながら、ゆっくりと建物を振り返った。二人が今しがた駆け抜けてきた廊下や入り口は、すでに炎に包まれて赤く染まっていた。
――助かった。みんな、助かったんだ。
そう思った数秒後、建物は地響きを上げながら、轟音とともに崩れ落ちた。無数の火の粉が、灰色の煙とともに夕刻の空高く舞い上がった。




