攻防②
紗季は俯いたまま、環の言葉を聞いていた。一つ一つの単語を聞くたびに、胸がどきりと大きく波打った。
そうだ。
幼い頃の紗季は、いつからか気づいていた。
――葵ちゃんは、私を好きなんだ。
そして。
脅迫状の取り札が表していたのは、かつて好きだった人に対する憎しみ。そのような憎しみを自分に向けてくる人物は、唯一人。
――葵ちゃん。
生徒会室での休憩中、脅迫状に添えられた取り札の本当の意味を理解した紗季は、そんなはずがない、そうであってほしくないと強く思いながらも、もしかしたら葵が脅迫犯かもしれないという微かな思いを心の奥に抱いた。
そして、その予感は無情にも、現実のものとなった。
幼い子供の淡い幻のような恋心とはいえ、その想いを叶えることができなかったことに加え、心を引き裂かれるような裏切り行為を目の当たりにした葵の絶望感は、いかばかりだったろうか。
紗季が唇を噛んでいると、香澄は今まで紗季を抱き締めていた手を、ゆっくりと離した。そのまま立ち上がり、一歩一歩、再び佑希に近づいていく。
恐らく、まだ佑希を説得することを諦めていないのだろう。背中に、先ほどよりもさらに強い覚悟が宿っていた。
――行ってはダメ。また暴力を振るわれる!
香澄の背中に、そう叫ぼうと思ったとき。
――紗季。
声にならない声が、後ろから聞こえた。振り向くと、縛られている紗季のすぐ右側に置かれたソファの陰に、環が身を隠していた。
――ついさっきまで、入り口の前で倒れている棚の向こう側にいたはずなのに……。
紗季は、部屋の正面にある入り口の方向に目を遣ると、再び右側の環に視線を戻した。思わず、口の動きだけで語りかける。
――いったいどこから?
環は、紗季の口の動きを確認すると、後ろの壁を指差した。暗くてわかりにくいが、よく見ると、ソファの陰になっている壁の下に、人一人が通れるだけの小さな穴が開いていた。恐らく、長い時間をへて、壁が朽ち落ちてしまっていたのだろう。
あんなに小さな穴を、よく通れたものだと感心する間もなく、環は佑希の死角になるように紗季の体の横に回り込み、手を伸ばした。ちょうど、紗季が縛られている手の付近だった。
「じっとしてて」
環は紗季の耳元で囁くと、紗季の手首を縛りつけている紐を、素早くほどきはじめた。あまりにも大胆な行動だった。もし佑希に見つかったら、ただではすまないだろう。
紗季は、思わず声を上げそうになった。すると、環は鋭い視線を紗季に投げかけると同時に、右手の人差し指を自分の唇に当てて、静かに息を漏らした。
「しっ!」
続いて、桜色の小さな唇を、微かに動かす。
――ダイジョウブ。シズカニ。
そう読めた。
紗季は、何かに取り憑かれたような表情でアルコールをまき散らしている佑希の背中を確認する。そして、音がしないように体をゆっくりとねじり、両手首を環のほうに向けた。
紐がほどけるまでにかかった時間は、十秒ほどだったろうか。環は紐をほどき終わると、紗季の手を固く握った。
――もしものときは、いっしょに逃げよう。
そう言い残し、ソファの陰に再び身を隠す。紗季は、声にならない環の声に、小さく頷いた。ただ、二人だけで逃げるつもりは、毛頭なかった。
――伊織ちゃんも、そして葵ちゃんも……。みんなで一緒にここを出る。
そう決めていた。
だが、そのためにどうすればいいのか、方法がわからない。自分の無力さを思い知らされた紗季は、情けなさに俯いたまま固く目を閉じた。
そのとき、「ガラン」と空虚な音が室内に響いた。
音のする方向に目を遣ると、空になったポリ容器が床の上に転がっていた。その傍らでは、感情の読み取れない笑顔を浮かべた佑希が、ライターを手に佇んでいた。
炎に焼かれて崩れ落ちる建物の情景が、悪夢のように頭に浮かんだ。紗季の全身に戦慄が走った。
「やめるんだ!」
啓太が、再び声を上げた。
しかし、佑希が啓太の声に耳を傾けることはなかった。
「あの事件のとき、僕は二人が心配になって、こっそりと事件現場に戻った。中を覗き込むと、男は二人に向かって『お前たち二人のうち、口が堅いのはどっちだ?』と問いかけていた。そして、その質問に対して、この女はお姉ちゃんを差し置いて真っ先に手を挙げたんだ!」
佑希の叫びが紗季の鼓膜を震わせ、心の奥を深く貫いた。
――私が、真っ先に手を挙げた?
――どういうこと?
佑希の叫びによって貫かれた心の穴から、黒いものがどろりと流れ出した。
遠い過去の記憶だった。今の今まで封印されていた、どす黒い記憶。
紗季は、固く目を瞑り、過去の記憶を改めて辿る。
今まで無意識のうちに心の奥底に追いやられ、数日前に火事の記憶を取り戻したときにも決して思い出すことのなかった新たな景色が、瞼の裏に広がった。
*
あのとき。
男は、無人の家屋の中で、紗季と伊織、葵の三人を前に、自分の不幸な身の上を延々と語り続けていた。
男の話は、小学三年生の紗季にとって、全体的に難しかったものの、部分的には理解できないでもなかった。
だが、当時の紗季にとって、そのような話はどうでもよかった。焦点が定まっていないかのように不安定に彷徨う男の目つきに、ただただ言いようのない不気味さを感じていた。
いつか、どこかで感じた記憶のある、体中にねっとりと纏わりついて離れないような不気味さだった。
――そうだ。あのときのお母さんと同じだ。
そう思った。
母子家庭だった紗季の家では、母親は近所のスーパーでパートとして働いていたが、紗季が小学校一年生のときに一方的に解雇された。店の経営状況が悪化したというのが理由だった。
それまでも、母親は日々の生活に疲れている表情ではあったが、解雇された日以降、それまでとは打って変わって明らかに様子がおかしくなった。
あるときは、ボサボサになった髪を梳かそうともせず、台所に立ってブツブツと独り言を呟いていた。かと思うと、急に明るくなって、紗季たちに取り止めのない思い出話を楽しそうに語って聞かせた。
お金がないはずなのに、突然、食卓に見たこともない高級な総菜がずらりと並べられたこともあった。
そんなときの彼女の目は、怖いほどに虚ろだった。どんなに悲しんでいても、どんなに楽しそうでも、その瞳は常に焦点が定まらないまま、虚空を見つめていた。
そして、ある日の夕方、母親は突然、兄を手にかけると自分も命を絶った。紗季は、たまたま友だちの家に行っていたために難を逃れたが、一瞬のうちに家族を失った。
いったい何がきっかけだったのか、理解できなかった。ただ、自分が不在のときに、二人が自分だけを残して逝ってしまった事実は、確実に紗季の心を蝕んだ。
心の整理をつける時間もないまま、紗季はそれから間もなく施設に預けられることになった。
紗季は、恐る恐る、目の前の男を見上げた。
饒舌に喋り続ける男の目の虚ろさは、あのときの母親の目、そのものと言ってよかった。この世のすべてに絶望した目つきだった。
紗季は、言葉にできない恐怖を我慢することができず、男から思わず目を逸らした。
やがて、もっとも年下である葵が解放された。
葵がいなくなったことを確認すると、男は言った。
「さて、外に出られるのは、あと一人だが……」
二人を交互に見ながら、静かに問いかける。
「お前たちのうち、どっちが年上だ?」
「私たち、同い年の同級生なんです」
伊織が、恐怖を抑え込んだ視線を男に送りながら、小さく答えた。
少し考えた後、男は腕を組んで、再びソファに腰を下ろした。口をへの字に結んだまま、何かを考えているようだった。
「じゃあ、お前たち二人のうち、口が堅いのはどっちだ?」
自分が伊織よりも口が堅いかと聞かれると、自信がなかった。
だが、その時点で紗季の緊張は、すでに頂点に達していた。同時に、耳から入ってくる情報に理解が追いつかず、目の前のできごとに対する適切な対処法について、冷静に考えることができなくなっていた。
紗季の頭の中は、恐怖で真っ白になっていた。
――一刻も早く、外に出たい。
助かりたい一心も、もちろんあった。だが、それ以上に、恐ろしいほどに虚ろな男の目線から、一刻も早く解放されたいという気持ちのほうが強かった。
気がつくと、右手を挙げていた。
「よし、お前は外に出ていいぞ」
声に驚いて見上げると、男が紗季を指差していた。
手を挙げていた自分に対する動揺と、伊織に対する申し訳なさに絡め取られ、立ち上がることができない紗季の顔に視線を寄こしたまま、男は低く呟いた。
「早くしろ。立って、入り口に向かってゆっくりと歩くんだ」
声に、次第に苛立ちに似た感情が見え隠れするようになってきた。紗季は、男の声に仕方なく立ち上がった。
伊織に対しては本当に申し訳なく思ったが、男の視線に逆らうことなどできなかったし、何より男の視線から解放される喜びが、僅かに勝っていた。
紗季は、男の怒鳴り声に追い立てられるように部屋を後にした。
次の瞬間。
微かな刺激臭を感じた。消毒用アルコールの臭いだった。
振り返ろうとするよりも早く、背後が急に明るくなった。同時に、今まで感じたことのない熱を背中に感じた。
――熱い!
「……紗季ちゃん」
声が聞こえた。伊織の声だった。紗季は、思わず振り向いた。壁をオレンジ色の炎が這い上り、天井を舐めるようにうねっていた。
その炎の奥に、男と伊織の姿が見えた。
男は右手でライターを握り、左手では伊織の手首をしっかりと握り締めていた。足下には、ふたの開いたポリ容器が転がっていた。
紗季は、炎の向こう側に揺らめく伊織の姿に、目を凝らす。
何かを訴えかけるような、悲しげな眼差し。
迫りくる死を前に必死に呼びかける弱々しい声。
炎の中で何かを掴もうとするかのように伸ばした右手、華奢な五本の指……。
さらに観察しようとする間もなく、炎は瞬く間に天井に燃え移った。立ち竦むばかりの紗季の目の前で、床にも燃え広がった。
メラメラと揺れ動く巨大な炎のカーテンが、男と伊織の姿を遮った。
「紗季……、ちゃん……」
木がパチパチとはぜる音と、炎が空気を巻き込む轟音の間から、伊織の弱々しい声が、再び聞こえた。顔が、炎の放射熱で焼けるように熱い。目に見えない火の先端が体中に纏わりつき、肩にかかった紗季の黒い髪を焼いた。
――伊織ちゃん!
声を出そうとしたが、口の中がカラカラに乾いて声が出なかった。その間にも、巨大な炎は目の前に迫ってきた。
一際大きな破壊音とともに、真っ赤な火の欠片が辺り一面に飛び散った。幾本もの柱が、眩いオレンジ色に浸食されながら少しずつ傾きを増し、壁板をバキバキと引きはがしていく。何かがミシミシと軋む不気味な音が、あらゆる方向から、紗季を追いつめるように迫ってきた。
頬に当たる火の粉の熱さに、今まで感じることさえ忘れていた、火に対する本能的な恐怖の感情が、心の底で唐突に頭をもたげた。
気がつくと、廊下を出口に向かって懸命に走っている自分がいた。今一度、背中に「紗季ちゃん……」と消え入りそうな声を聞いた気がした。
――きっと消防士さんが来て、伊織ちゃんを助けてくれる。
――そうに決まってる。
紗季は、必死の思いで自分自身にそう言い聞かせながら、無我夢中で走り続けた。
*
九年前の記憶を取り戻した紗季は、建物の床に座り込んだまま、今まで感じた経験がないほどの激しい罪悪感に襲われた。それは、数日前に火事の詳細を思い出したときの後悔の念を、はるかに凌駕するものだった。
――私はあのとき、自分が助かりたい一心で、伊織ちゃんを見捨てた。
――そればかりか、そのことをすっかり忘れていた。
恐らく、良心の呵責に苛まれるあまり、無意識のうちに記憶を自分に都合よく改ざんしていたのに違いなかった。
そんな自分に、果たして生きている資格があるのだろうか。嵐のように押し寄せてくる自責の念に翻弄されながら、紗季はそう自省した。
懺悔の涙が、頬を伝った。自責の念が紗季の体に蜘蛛の糸のように絡みつき、全身を締め上げる。思うように呼吸ができない。
――私は、このまま坂元さん、いや葵ちゃんに殺されてしまっても、仕方がない人間なのかもしれない。
激しい自己嫌悪に絡め取られ、意識が遠のくような錯覚に襲われた。朦朧とした意識の向こう側から、佑希の声が幻聴のように曖昧な響きをもって聞こえてくる。
「当時、僕たち姉妹は、裕福な家庭に引き取られるという話がまとまりつつあった。でも、あの火事でお姉ちゃんがいなくなったことで、その話は白紙に戻された。この女が卑怯なことをしたおかげで、僕たちの人生は無茶苦茶になったんだ!」
紗季が力なく顔を上げると、霞んだ視界の向こうに、佑希が見えた。左手を固く握り締めていた佑希は、右手に持っているライターに火をつけると、アルコールが染み込んだ窓際の遮光カーテンに静かに近づけた。




