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攻防①

攻防 ――十月二十一日(土)十六時二十七分――


 薄暗い部屋の中には、後ろ手に縛られたままで座り込んでいる紗季と、復讐に燃える佑希、そして両の拳を固く握り締めたままで佑希と対峙する香澄がいた。

 紗季は当初、突然現れた女性と佑希の遣り取りを、力なくうな垂れた状態で聞き流していた。だが、二人の会話が進むにつれて、ある可能性を考えはじめていた。

 ――今まで想像もしていなかった、奇跡とも思えるようなできごとが、今、目の前で起こっているのかもしれない。

 とはいえ、果たして本当にそのようなことがあるのか、心の奥底では未だに信じられないでいる。

 紗季は、真実を見極めようと顔を上げ、今一度、女性の姿を凝視した。その大人びた顔には、確かに伊織の面影があった。

 ――伊織……ちゃん?

 瞬間、紗季は確信した。

 ――そうだ。今、私の目の前にいるのは、紛れもなく伊織ちゃんだ。

 ――間違いない。

 火災から逃れて施設に帰った紗季は、当然のごとく、伊織が火に巻かれて死んだと信じて疑っていなかった。だが、今になって冷静に考えてみると、伊織が死んだということを確認したことは、一度としてなかった。

 当時、施設の職員たちは伊織がいなくなったとは言っていたが、死んだとは言っていなかった。思い返してみると、葬儀が執りおこなわれたという記憶もなかった。

 つまり、伊織は火事で命を落としていなかった。幼い紗季が、あまりにも凄まじい炎を前に、伊織は死んだと勝手に思い込んでいただけだったのだ。

 今、紗季は抜き差しならない状況の中にあった。だが、そのような状況にあっても、紗季は心の中でこの上ない喜びを噛み締めた。安堵感と幸福感に満たされた紗季は、自由を奪われていることも、監禁されていることも忘れて、香澄の背中に語りかけた。

「伊織ちゃん、生きてたんだね……。よかった……」

 気がつくと、両目から嬉し涙が溢れ、頬を伝った。

 途切れ途切れに吐き出す紗季の懺悔の言葉に、香澄が振り向き、柔和な笑顔を見せた。三人が大の仲良しだったあの頃と変わらない、天使かと見まがうような慈愛に満ちた笑顔だった。

 その笑顔に、紗季は多少なりとも救われた気がした。

 だが、伊織が生きていたということのほかに、紗季にとって驚くべきことがもう一つあった。

 今、目の前の香澄は、佑希のことを「葵」と呼んだ。

 ――坂元さんが、葵ちゃん?

 頭の中が混乱した。

 一方の祐希は、目の前に姉がいる事実に、紗季以上に混乱しているようだった。大きく見開いた眼で香澄を凝視したまま今一度、問いかけた。

「お姉ちゃん、生きてたんだ……?」

 香澄は、佑希に視線を戻すと、ゆっくりと口を開いた。

「私は、あの火事で死ななかった。そして、今は畑中香澄として生きているの。だから、紗季ちゃんは人殺しなんかじゃない。葵、馬鹿なことはやめて」

 こめかみに、うっすらと汗が滲んでいるのが見えた。表には出すまいとしているが、佑希を説得し、事態を打開しなければならないというプレッシャーを感じていることは明らかだった。

「うるさい!」

 我に返った佑希の声が、香澄の声を遮った。

「僕の中では、お姉ちゃんはあのとき、燃え盛る炎の中で死んでしまった! もう手遅れだ!」

 次の瞬間、佑希は室内に反響する自分の声に後押しされるように、右手に持っていたポリ容器のふたを開けた。瞬間、鼻を突く刺激臭が三人を包み込んだ。いつかどこかで、嗅いだ記憶がある臭いだった。

 紗季は必死の思いで、臭いの記憶を辿る。

 ――そうだ。

 ――九年前のあの日、あの建物内部で火事の直前に嗅いだ臭い……。

 ――消毒用アルコール!

 目の前に、天を衝くばかりに燃え上がる火柱の幻影とともに、あのときの記憶が鮮明に蘇った。

 佑希は、この建物とともに、紗季の肉体までも焼き払ってしまおうと考えているに違いなかった。紗季は、どうすることもできない自分に対して苛立ちに近い感情を抱きつつ、ただ佑希を見つめた。

 佑希が、後ろにある遮光カーテンにアルコールを振りまいたのと、ほぼ同時だった。

「やめろ!」

 部屋の入り口のほうから、声が響いた。紗季は思わず、視線を声の方向へと移動させた。

 啓太だった。後ろには、肩で息をしている環の姿も見えた。

 佑希の顔色が変わった。

「ここに来ることを、二人に喋ったのか?」

 事態を飲み込むことができないまま、紗季は弱々しく否定する。

「私は……、言ってない」

 環も合わせて反論した。

「そうよ。私たちは、紗季から聞いたんじゃない。パソコンを見て、ここへ来たの!」

 佑希は驚いた様子だったが、すぐに冷静な表情に戻ると、環たちがいる入り口に歩み寄った。

「まあ、どっちにしても、あんたたちは単なる傍観者に過ぎない」

 入り口の横には傾いた大きな棚があり、一本の棒で支えられていた。佑希は、身構える啓太たちの目の前で、傾いた棚を支えていた棒を力任せに蹴飛ばした。

 棒が外れるとともに棚がゆっくりと傾き、入り口の前に倒れ込んだ。ズンと腹に響く重低音を伴いながら、建物全体が地震のように揺れ、天井から埃や木屑がパラパラと落ちた。

 一瞬のできごとだった。

 埃が収まったときには、部屋の外と中が、高さ一メートル二十センチほどの障害物で隔てられる形になっていた。

 部屋の内部に入ることができなくなった啓太は、障害物となっている棚の向こう側から、もう一度叫んだ。

「やめろ! 落ち着け!」

 建物の中に、佑希の怒声が反響した。

「たとえお姉ちゃんが生きていたとしても、この石塚紗季がお姉ちゃんを見捨てたことに代わりはない! 許すわけにはいかない!」

 そう叫ぶと、佑希は狂気を湛えた目で雄たけびを上げながら、再びアルコールを床や壁にまき散らしはじめた。そのような佑希の姿はもはや、柔和な笑顔が似合う生徒会書記の坂元佑希でもなければ、ちょっとやんちゃだが姉思いだった雨宮葵でもなくなっていた。鼻を突く強烈な匂いが、先ほどにも増して濃密になり、紗季を襲った。

 アルコールをまく手を止めることもなく、佑希は香澄に向かって激しい口調で詰問した。

「生きているなら、なぜ今まで連絡の一つも寄こさなかったんだ!」

 ポリ容器の口から勢いよく飛び散ったアルコールが、香澄の足下でしぶきを上げた。

「ごめんなさい。私もあなたを捜したの! でも……」

 香澄の声が、徐々に小さくなる。

「でも、見つからなかったの」

 自分がこの場で名乗り出れば、姉が生きていると知った佑希が犯罪を思い留まってくれる。そう考えてここに駆けつけた香澄にとって、佑希の攻撃的ともいえる反応は予想外だったのだろう。香澄は、しぶきを避けることも忘れ、絶望感に打ちのめされた表情で、ただ立ち竦んでいた。

「石塚紗季。お前は、あのときのお姉ちゃんと同じように、炎に包まれて絶望を味わうんだ! そして、死んでいくんだ!」

 佑希は、姉の思いや言葉さえも置き去りにし、自らの論理のみに則って復讐を果たそうとする、鬼になっていた。その行為を止めることは、もはや姉である香澄にも不可能に思われた。

 紗季は、観念して目を瞑ろうとした。

 そのとき。

 紗季の隣でうな垂れていた香澄が顔を上げた。その目には、つい今しがたまでとは打って変わって、強い覚悟が溢れていた。香澄は両足で床を勢いよく蹴ると、佑希に飛びついた。

「お願い、話を聞いて!」

 しかし、飛びつかれた佑希ももはや、九年前の弱々しい小学一年生ではなくなっていった。香澄は佑希にいとも簡単に突き飛ばされ、紗季のすぐ目の前の床の上に倒れ込んだ。

 ほぼ同時に「この野郎、ふざけるな!」と、野太い声が聞こえた。

 顔を上げると、室内に入ろうとする啓太が棚に足をかけ、身を乗り出していた。

「動くな!」

 今度は、佑希がポケットから何かを取り出し、啓太に向けて掲げた。銀色に光る、ギガソルジャーのオイルライターだった。それを見た環が、固い表情で啓太の肩にそっと手をかける。啓太は、悔しそうな表情をしながら、足を下ろした。

 と、紗季の視界の左端に、床を這うようにして近づいてくる香澄の姿が見えた。香澄は、紗季の前に座り込むと、紗季の顔に自分の顔を近づける。

「ごめんね、伊織ちゃん。私のせいで……」

「ううん。紗季ちゃんは悪くない。だって、あのときは立場が逆になっていてもおかしくなかったんだから……。葵も含めて、たまたま、ああなっただけ」

 弱々しい謝罪の言葉を遮るように、香澄の右手の親指が紗季の顔に触れ、紗季の頬を優しく撫でた。

「私は、紗季ちゃんが先に外に出てくれてよかったと、今も思ってる。本当よ」

 香澄は、免罪の言葉を口にしながら、紗季をきつく抱き締めた。

「私こそ、もっと早く葵を捜し出して『自分は生きている』って名乗り出てさえいれば、紗季ちゃんをこんなことに巻き込まずにすんだかもしれないのに……。本当にごめんなさい」

 香澄の確かな胸の鼓動が、紗季の心を静かに揺さぶる。

 ふと考えた。

 こうして香澄、いや伊織と触れ合うのは、何年ぶりだろうか。あの忌まわしい事件が起こる直前だから、ほぼ九年ぶりだ。あの頃は、二人とも今とは比べようもないほどに幼く、純粋だった。

 ――そして、その純粋さゆえに、私は伊織ちゃんに十字架を背負わせることになってしまった。

 だが、香澄に抱かれながら感じる懐かしい温かさとともに、その十字架が昇華し、淀んだ空気の中に溶け込んでいく気がした。

 ――ずっと、こうしていたい。

 束の間の現実逃避に身を任せたとき、環が声を上げた。

「葵ちゃん。あなたは紗季ちゃんが好きだったんじゃないの?」

 ――え? 何?

 予想もしていない言葉だった。

 紗季はゆっくりと顔を上げた。佑希は、明らかな動揺の表情を見せていた。倒れた棚の向こう側から上半身を乗り出した環は、構わず続ける。

「脅迫状と一緒に封筒に入っていた取り札の『忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな』。この和歌は、自分を裏切った相手に対する憎しみを詠んだ和歌。だけど、単純な憎しみじゃない。その根底に流れる感情は、相手に対する恋愛感情。愛する人に裏切られたという、耐え難い絶望感を伴った憎しみ。あなたは、かつて紗季が好きだったから、わざわざあの和歌を選んだんでしょ。あなたは、好きだった人を自分の手で傷つけたいと、本気で願っているの?」

 佑希は苦しげな表情で、大きく見開かれた目を環に向けた。自分の感情をどう整理すればいいのか、わからないでいる様子にも見えた。

 しかし、やがて思い直したように再び前を向くと、怒りを込めた声で叫んだ。

「だから、何だっていうんだ!」

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