伊織と“あの事件”
伊織と“あの事件” ――九年前――
九年前のあのとき。
朽ち果てた建物の室内が炎に包まれていくなかで、伊織は気を失った。
気がついたときには、見知らぬ部屋の布団に寝かされていた。家具がほとんどない、安アパートの質素な一室だった。布団の横には、建物に火をつけた男が座っていた。
男は、東谷和彦と名乗った。
和彦の話によると、炎に包まれた建物が崩れ落ちる寸前、裏口から伊織を連れ出したとのことだった。その後は、関西の町工場で働いているときの知人に頼み込んで部屋を借りてもらい、その部屋で伊織を看病していたらしかった。
伊織は、右足の一部に火傷を負い、左足を酷く挫いていた。ほかにも、足や腕には無数の擦り傷があった。
部屋の中で、和彦は本当の我が子を看病するように、親身になって伊織の面倒を見てくれた。一週間ほどして何とか歩けるようになった後も、日常生活に支障をきたしていた伊織は、逃げ出すこともままならず、アパートに留まったまま、なし崩し的に和彦と一緒に暮らした。何より、逃げ出そうとしたら暴力を振るわれるかもしれないという恐怖心が、逃げることを躊躇わせた。
――焦る必要はない。しっかり歩けるようになったときに、逃げ出せばいい。
子供心に、自分にそう言い聞かせた。
*
和彦から聞いた話によると、彼には娘がいたが、数年前に亡くなってしまったとのことだった。もし生きていれば、ちょうど伊織と同じぐらいの年齢で、香澄という名だったという。
その話を聞いたとき、和彦が親身になって伊織の世話を焼いてくれた理由が、おぼろげながら理解できた気がした。自分の行為が原因で、伊織が怪我をしてしまったというのももちろんあっただろうが、それ以上に、伊織の容姿に亡くなった香澄の面影を見ていたのだろう。
一度だけ、和彦から香澄の写真を見せてもらったことがあった。色褪せたカラー写真の中で微笑む香澄は、伊織よりもやや幼い印象ではあったものの、確かに伊織によく似ている気がした。
その後、伊織は健康を取り戻した。挫いた足はまだ多少痛かったが、それ以外の面ではまったく問題なく日常的な生活を送ることができるようになった。
普通に暮らせるほどの健康を取り戻しても、伊織は和彦とともに暮らし続けた。自分でも驚くほど、違和感がなくなっていた。
最初は和彦を恐れ、憎んでいたものの、熱心に看病をしてくれる姿を見たり、自分と同い年ぐらいの娘が病気で亡くなってしまった話を聞いたりしているうちに、気がつくと負の感情は薄れていた。
両親がいない自分にとって、実の親ではないとはいえ、父親ができたように思えて、むしろ嬉しく思うことさえあった。
もちろん、妹は心配だった。
心配のあまり、学校が終わる昼過ぎや夕方頃、帰ってくる妹を学校の前や施設の近くで待ち伏せしたことも、何度かあった。しかし、妹と会う願いは叶わなかった。
そんなある日、施設の近くにある電柱の陰から周囲の様子を観察していると、施設に入ろうとする二人の男の子とすれ違った。顔に見覚えがなかったことから推測すると、恐らく入所したばかりの子供たちだったのだろうか。
そのうちの一人が、伊織とすれ違いざまにポツリと呟いた。
「葵ちゃん、今週の金曜日にいなくなっちゃうんだって」
そのとき、伊織は妹と出会えないことを、神が定めた避け難い運命であるかのように感じた。
決して確信ではなかった。しかし、妹とは二度と会えないという漠然とした思いが、絶望的な感情を伴って伊織の心に、確かに大きな染みをつくった。
*
その数日後のことだった。
伊織が安アパートの部屋で、いつものようにこたつに寝転びながら体を休めていると、仕事から帰ってきた和彦が、いきなり傍らに正座した。思いつめたような和彦の表情にただならぬ雰囲気を感じた伊織は、自分から上体を起こして、眉間に皺を寄せている和彦の顔を見上げた。
「香澄の話なんだが」
短い前置きを口にすると、和彦は一つ一つの単語を噛み締めるかのように、ポツリポツリと語りはじめた。
「実は、香澄は病気で死んだんだ」
想像はしていた。特段、驚くような内容ではなかった。
「本当なら、病院に連れて行かなきゃならなかったんだろうが、金がなかった。その代わり、俺は家で一生懸命に看病した。だが、ある日、容態が急変して、何もできないうちに香澄はそのまま息を引き取ってしまった。本当に、あっという間だったんだ。俺には、どうしようもなかった」
和彦は息を止め、次に大きく息を吸い込む。そして、その息に告白の言葉を乗せながら、ゆっくりと吐き出した。
「俺は、香澄の死を現実のこととして受け入れられなかった。葬式を出すお金もなかった。だから、死亡届は出さなかったんだ。つまり、香澄は今も、法律上は生きていることになっている」
さすがの伊織も、驚いた。
まだ小学生だったが、ことの重大さは幼いながらにも、十分過ぎるほどに理解することができた。
紗季が驚愕のあまり、和彦の顔を見ながら身を硬くしていると、彼が突然、目の前で土下座をした。額を畳にこすりつけんばかりに深く頭を下げた状態のまま、途切れ途切れに言葉を繋ぐ。
「家に火をつけたときは、自暴自棄になっていたから、お前と死のうと思っていた。だが、真っ赤な炎に照らし出されたお前の顔を見て、驚いた。死んだ香澄の顔にそっくりだったんだ。気がつくと俺は、火傷を負って気を失っていたお前を抱え、無我夢中で建物から飛び出していた。お前には、本当に申し訳ないことをしたと、今も思っている。どうか許してくれ。この通りだ!」
心の底から絞り出すような、悲痛な声だった。続いて和彦は、さらに驚くべき言葉を口にした。
「頼む、俺の娘、香澄になってくれ! そして、一緒に暮らしてくれ! お願いだ。香澄として、一緒に……」
哀れなまでの覚悟を伴っている懇願は、やがて嗚咽に変わり、部屋の中に長く響き渡った。
その姿を目の当たりにしながら、伊織は考えた。
もし施設に戻ったとしたら、再び親のいない子として生きていかなければならないだろう。妹との再会も果たせないまま、親がいないという十字架を背負って一生を生きていくぐらいだったら、香澄として和彦と一緒に生きていくほうが、自分にとっては幸せなのかもしれない。
小学生なりに考えを巡らせた伊織は、意を決して首を小さく縦に振った。
こうして、東谷香澄としての暮らしがはじまった。だが、そのような新しい暮らしも、長続きはしなかった。伊織が東谷香澄になった二年後、和彦は警察の事情聴取で放火の事実を認め、留置所で自殺したのだ。
本当に和彦の娘なのかと刑事たちに何度も尋ねられたが、「和彦の娘、東谷香澄です」と嘘をつきとおした。親子であるかどうかが確実にわかるという、DNA鑑定という検査も断った。
なぜ、嘘をつきとおしたのか。
理由は、東谷香澄という名を受け入れたときと、ほぼ同じだった。
今さら妹のいない施設に帰って、親のない子に戻りたくないという考えが大きかったし、両親のいない自分を、まるで我が子であるかのように世話してくれた和彦に対する感謝の気持ちもあった。
当時、まだ小学五年生だった香澄にとって、単なる思い込みと客観的な事実を判別することは困難だった。結果として、東谷香澄が別人である事実も、自分の正体が雨宮伊織である事実も明らかにすることはなく、施設に戻ることもなかった。
その後、香澄は県内のS市にある裕福な家に引き取られることになった。
もし、和彦の実の娘ではないという真相を明らかにすれば、引き取られる話が破談になるかもしれない。そんな考えが頭の中をかすめたため、香澄はその後も真実を口にすることはなかった。
*
引き取られた畑中家での令嬢としての生活は、想像通り、幸福に満ちていた。だが、香澄は妹の葵という存在を忘れることは、決してなかった。年齢を重ねるごとに、葵の消息を知りたいという欲求は、確実に大きくなっていった。
――たとえ、家族として一緒に暮らす望みは叶わなくても、せめて元気で幸せに暮らしていることを、この目で確認したい。
やがて高校三年生になった香澄は、葵について調べはじめた。
まず、ほしのそら学園に連絡を取ろうとしたが、調べてみると、施設はすでになくなっていた。財政難と理事長の急逝が原因のようだった。
そこで、両親に内緒で探偵を雇い、調べてもらおうと試みた。結果は、火事の約半年後、A市に住む遠縁の親戚に引き取られたが、それ以降の行方はわからないとのことだった。
直接的な方法で葵を捜すことを諦めた香澄は、インターネットを通じて捜すことに決めた。
まず、「雨宮葵」というキーワードで検索してみた。しかし、ヒットすることはなかった。葵が、今もまったく同じ名前で暮らしていると思っていなかった香澄は、結果を当然のこととして受け入れた。
次に、記憶の中にある葵の特徴や嗜好で検索した。だが、やはり葵を見つけることはできなかった。
八方塞がりになっていた香澄だったが、ふと思いついた。
――ギガソルジャーで調べてみたら、どうだろう?
当時、妹はギガソルジャーの大ファンで、伊織が懸賞に応募してプレゼントしてあげたソフトビニール人形を、肌身離さず持っていた。そんな妹のことだ。今もあの人形を大切に持っているかもしれない。そう期待した。
ダメでもともとと思いながらも、微かな期待を寄せながら「爆裂闘士ギガソルジャー」、「ソフトビニール人形」、「限定」という三つのキーワードを入力して、検索を試してみた。
ギガソルジャーによる検索では、思いのほか多くの件数が表示された。香澄は、その一つ一つに丁寧に目を通していった。多くのサイトに掲載されているのは、自分たちのコレクションであるギガソルジャーの限定人形を自慢する内容だったが、一件だけ気になる検索結果があった。
ブログだった。運営者名を確認してみると、SWEET DARKNESS152となっていた。
そこには、ギガソルジャーの写真とともに「悪を決して許さないギガソルジャーの生き様は、私自身の生き様でもある」という一文があった。
そして、その文の下には、ギガソルジャーの写真が貼りつけられていた。香澄自身が妹にプレゼントしたソフトビニール人形に、瓜二つだった。
香澄は、画面をスクロールさせながら、記事の内容を確認する。思いつきとしか思えない統一感に欠ける記事の羅列の中に、香澄にとって気になる情報が断片的に散りばめられていた。
香澄は、その情報をコピー&ペーストして整理する。
私には両親がいなかった。
唯一の家族だった妹とは、火事が原因で離れ離れになってしまった。
それもこれも、すべて“アイツ”のせいだ。
“アイツ”を懲らしめて、理不尽な呪いを終わらせようと思う。
すべてが終わったとき、きっとこの備忘録も終わりを告げる。
妹である葵が、香澄自身を騙って書いたブログである可能性が限りなく高い。そう考えた香澄は、SWEET DARKNESS152にメッセージを送ることにした。妹に違いないという確信に近い思いはあったが、人違いである可能性を考え、自分の正体を隠して慎重に言葉を選ぶ。
私は昔、とある児童養護施設にいました。
その施設には、ギガソルジャーが大好きな一人の女の子がいました。
その子は、小学校低学年のときに、里親に引き取られて施設を出ていきました。
その子は、雨宮葵という名でした。
あなたは、雨宮葵さんではないですか?
だが、返事はなかった。恐らく、悪戯の類と思われたのだろう。それでも、香澄はその後も、ことあるごとに彼女の記事をチェックし続けた。
同時に、妹の標的であろうと思われる紗季の行方も探した。しかし、九年という歳月の間に彼女の名字を忘れてしまっていたため、インターネットによる検索で見つけ出すことはできなかった。
そして二ヶ月後の今日、犯行声明ともいえる、例の記事を見た。
貼りつけられている写真には、位置情報が紐づけられていた。敢えて情報を残すことで閲覧者を誘い、自分が今からやろうとしている行為の立会人的な存在にしようと考えたのかもしれない。
――止めなければ。
監禁場所があるY市の山城町までは、車で一時間弱だろうか。香澄は家を走り出ると、タクシーを拾って乗り込んだ。




