手紙①
手紙 ――十月十一日(水)、十月十二日(木)――
藤桜学園高校三年F組の鷺沢環は、第一校舎から第三校舎へと続く渡り廊下を、二人で歩いていた。横を並んで歩いている男子生徒の名は、鷹水啓太。環と同じ三年F組の生徒、つまりクラスメイトだ。
啓太の身長は、一六〇センチあまりの環より二〇センチほど高い、自称一八二センチ。知らない人は、彼をラグビー部員に違いないと判断するであろうほどの筋肉隆々の堂々たる体格の持ち主なのだが、その実、趣味が競技かるたという、史上稀に見る身体の無駄遣いが何とも残念な高校生だった。
もっとも、啓太を半ば強引に競技かるた部に誘い込み、目くるめく雅な世界に目覚めさせてしまったのは環本人なのだが、それはこの際、置いておく。
それはともかく、啓太は勉学の成績がつねに学年二十位以内という、悔しいことに環が足元にも及ばない明晰な頭脳の持ち主でもあった。
一見、接点のなさそうな二人ではあるが、校内では一緒にいる時間が比較的、長かった。それは、啓太が環にとって単なる同級生ではなく、小学校低学年のときに知り合って以来の幼馴染であることに起因していた。
いや、その関係は正確に言うと、もはや幼馴染という微笑ましい関係を通り越し、腐れ縁に近いものになっていると言ってもよかった。
そのような二人が、なぜ放課後の校内を第三校舎へと向かっているのか。環が、クラスの文化祭担当委員という重責を担っていたからにほかならなかった。
生徒会からは、文化祭の予算申請書を今日中に提出するよう、厳命が下っていた。文化祭は、すでに十日後に迫っている。本来なら、予算申請はとっくに終わっていなければならない。はずだった。
しかし、もともと小さなことには拘らない鷹揚な環の性格が原因で、書類の不備が二回にわたって発覚した結果、締め切りを大幅に過ぎる結果となっていた。二回目の不備が発覚したことにより、窮地に追い込まれた環は、プライドをかなぐり捨てて頭脳明晰かつ従順な“いい人”である啓太にサポートを依頼した。
「一生のお願い。可哀想な私を、助けて」
両手を胸の前で合わせて悲しそうな表情をすると、啓太は「しょうがねえなあ」と言いながら、まんざらでもなさそうな表情で首を縦に振った。本当にまんざらでもなかったのかは知る由もないが、少なくとも環にはそう見えた。
このような紆余曲折をへて、ようやく完成したA4サイズの申請書を手にした環は、生徒会室に向かう渡り廊下の途中で、啓太を振り向いた。心中を窺うように啓太の表情を確かめながら、恐る恐る尋ねる。
「予算、これで間違ってないよね?」
啓太は、哀れみを前面に押し出した環の言葉にも心をまったく動かされない様子で、間髪を入れず冷徹に答える。
「俺は知らん。ただ、お前がどうしてもって言うから、サポートしてやっただけだからな。もし、間違っていたときの全責任は、担当委員であるタマ、お前が負うべきだ。もう一度言う。俺は知らん」
啓太は、無駄に高い長身から、冷たい目線で環を見下ろした。
ちなみにタマとは、小学校のときからの環のあだ名だった。環だから、略してタマ。何の捻りもなく、しかも猫みたいで気が利かないあだ名なので、決して気に入っているわけではない。
しかし、啓太以外に環をこのあだ名で呼ぶ者はいないし、いくら厳重に抗議しても心を入れ替えて謝罪の記者会見を開くつもりなど毛頭ないようなので、根負けした挙句、なし崩しに認めてしまっていた。
「アンタって、ホント冷たっ! か弱い女子高生に対して、そんなことしか言えないようじゃ、モテないよ」
「別に、お前にモテたいなんて思ってねえし」
何と生意気な。環は、すかさず身構えると、右膝で啓太の左太ももに下段廻し蹴りを入れた。
「痛っ!」と野太い声が廊下に響く。廊下を歩く数人の生徒が、一斉に振り返った。
「そんな感じじゃ、お前こそ一生、男にモテねえぞ!」
足を抱え込みながら、啓太が忌々しげに叫ぶ。
「余計なお世話だし!」
環は、振り向いて啓太にアッカンベーをすると、階段を一段飛ばしで勢いよく上がった。
*
目指す生徒会室は、第三校舎の二階の突き当りにあった。部屋の前に立った環は小さく咳払いをすると、居住まいを正してドアをノックする。
「はい、どうぞ」
声が聞こえた。よく通る声だった。環は声を確認すると、ドアノブを回して啓太とともに中に入った。
中央奥にある大ぶりな机の向こう側に座った石塚紗季が、山積みになった書類に目を通していた。机には、「生徒会会長」と書かれたプレートが立てられている。紗季は、積み上げられた書類に今しがたまでサインをしていた手を止めると、顔を上げて二人の方向に目を向けてきた。
「あら、環。それに鷹水君も」
紗季は、環たちと同じ三年F組の生徒だ。同じクラスになったのは、三年への進級時が初めてだったが、なぜか気が合ったことから、それほどときを置かずして、宿題の答を教えてもらうほどの親しい関係になった。
同時に、金魚のうんこのように四六時中、環にくっついている啓太も、まるでそれが当然の権利であるかのように、紗季に対して馴れ馴れしく話しかけるようになっていた。
だが、今のように親しくなったのには、単純に気が合うという理由以外に、厳然たる理由があった。それは、競技かるたという共通の趣味の存在だった。
ただし、紗季が競技かるたに対してもっている技術と情熱は、素人に毛が生えた程度の環や啓太のそれとは、明らかに次元が異なっていた。何でも、小学校のときにはじめたそうなのだが、すぐに才能が花開いたらしく、由緒正しい大会でたびたび入賞するようになったという。
現在は、環や啓太が所属する学校のかるた部で緩やかに活動するのではなく、町のかるた会で本格的に研鑽を積み、日夜、腕を磨いているとのことだった。
そんな紗季の左隣、やや小ぶりの机では、一人の生徒がノートパソコンのキーボードを叩いていた。名を坂元佑希という。現在、環や紗季たちの二学年下にあたる一年生である佑希は、生徒会の書記代理を務めている。
生徒会役員は、本来なら秋におこなわれる生徒会選挙で、立候補した者の中から選ばれる。だが、佑希は今年、つまり一年生の夏前に生徒会の仕事を手伝うことを希望し、生徒会室に出入りするようになったという。
ほどなくして、見習いのような形で書記の仕事を手伝いはじめたが、その後、書記が体調を崩して退任したため、引き継ぎの必要がない佑希が、特例として書記代理として仕事を任されていた。
ちなみに、佑希は学年きっての秀才で、学費を免除される特待生という稀有な待遇の生徒でもあった。しかも、実家が遠隔地にあり、学校の寮に住んでいるため、寮費も免除されているという話だった。
寮の場所は、環の家からほど近い場所であったため、環はしばしば、登校中に佑希を見かけることがあった。
以前、紗季から聞いた話では、そのような佑希の学業の優秀さが、代理とはいえ選挙という手続きをへないで、生徒会の役員として例外的に認められる一因になったのは間違いないとのことだった。
「坂元っちゃん、元気してる?」
「はい、鷺沢先輩こそ、お元気そうで」
環は、佑希と形ばかりの明るくも軽い挨拶をいつも通りに交わすと、紗季の机に歩み寄る。
「文化祭の予算申請書、修正してきたよ。石塚会長」
持っていた書類を、得意げな表情で紗季に差し出した。
「何とか間に合ったわね。環のことだから、かなり心配だったけど」
環は、親しいからこそ口にできる紗季の本音をさらりと受け流し、自己評価では完全無欠と信じて疑わない笑顔を彼女に向ける。
「今度は、絶対に大丈夫だと思う。私の抜きん出た事務処理能力のおかげか、修正が予想以上にサクサク進んでね」
横では、啓太が苦笑いをしていた。
「まったく……。一言、釘を刺しておこうと思ったんだけど、環の笑顔を見ると、つい許しちゃうのよね」
紗季は困ったように微笑みながら、受け取った書類を机の上に置く。続いて、机の横の鞄を開けて、一冊のノートに手を伸ばした。
すると、鞄が倒れた拍子に、傍らに積み上げてあった郵便物の束が崩れた。紗季は慌てた様子で、落ちた封筒を拾い上げた。
ほとんどは、生徒会宛てに送られてきた請求書などだった。まとめて元の位置に戻そうとしたとき、紗季は手を止めて、一通の封筒に視線を落とした。
その封筒には、差出人の名前がなかった。
ほかの封筒はすべて、宛先である我が校の住所と「生徒会御中」という文字、それに差出人の住所と名前が書かれている。
ところが、その封筒だけは、表に学校の住所と「生徒会長 石塚紗季様」という名が書かれているだけだった。差出人の情報はなかった。
紗季は、封筒を裏返しながら、怪訝そうな表情をする。
「何だろう」
そう言いながら、紗季は封を切り、中に入っているものを引き出した。二つ折りの紙だった。紗季は、折られている部分を慎重に開く。
その手紙には、小学生が書いたような幼い字で、こう書かれていた。
ともだちは、たいせつ。
でも、あなたはたいせつにしなかった。
とっても、あつかったんだよ。
つぎは、だれのばんだとおもう?
紗季は不思議そうに紙を眺めていたが、次の瞬間、微かに息を飲んだように見えた。
「何て書いてあるんですか?」
傍らの机の前に座っていた佑希が紗季に歩み寄り、手紙に顔を近づけた。紗季が両手で持っている手紙に、長身である佑希の灰色の影が落ちる。
手紙の意味を掴みかねて封筒に視線を移動させた環は、中にまだカードのようなものが残っていることに気づいた。
「まだ何か入ってるよ?」
声をかけられた紗季は、手紙を机の上に置くと、封筒に右手を入れてゆっくりと取り上げる。
競技かるたの札だった。
競技かるたの札には、二種類ある。一つは和歌とともに作者の肖像が描かれている読み札、そしてもう一つは下の句のみがひらがなで書かれている取り札だ。競技かるたでは、読手が読み上げる読み札の和歌を聞き、畳の上に置かれた取り札を取り合う。
環が封筒の中に見つけた札は読み札ではなく、畳の上に置かれる取り札のほうだった。
よく見ると、焼け焦げているのか、一部が黒く変色して字が読み辛くなっている。しかし、緩い部活動レベルとはいえ競技かるたを嗜んでいる環には、書かれている歌の文字がすぐに読み取れた。
ひとのいのちの をしくもあるかな
横で佑希が、事態を理解できないといった表情で札に目を落とす。
「どういうことでしょうね。石塚会長、何か心当たり、あります?」
「いいえ。何もない。何もないわ」
そう弱々しく呟く紗季の指先は、何故か少しだけ震えているように見えた。微かに震える手で、封筒の中に手紙を何とか戻し終えると、鞄に入れる。
「ちょっと、気分が優れないから、今日は帰らせてもらうわ」
唐突な意思表示だった。紗季は、やや上ずった声とともに、おもむろに立ち上がる。
「紗季、大丈夫?」
「ええ、大丈夫。ごめんなさい」
心配のあまり、思わずかけた環の声にぎこちない笑顔を見せながら、紗季はまるで正体不明の何かから逃げるかのように、部屋を足早に出ていった。
紗季を心配した環は、慌てて後を追った。しかし、階段の踊り場まで辿り着いたときには、すでに紗季の姿は見えなくなっていた。どうしたらいいかわからずに立ち竦むばかりの環の横を、二人の女子生徒が不思議そうな表情で通り過ぎていった。
環が落胆とともに生徒会室に戻ると、机の上には封筒から零れ落ちた競技かるたの取り札が一枚、残されていた。
佑希が、札を眺めながら呟いた。
「この札の和歌は『忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな』ですね」
啓太が即座に反応した。
「よく知ってるな」
「ええ、僕は競技かるたはやりませんけど、『小倉百人一首』ぐらいなら、だいたい覚えてます」
『小倉百人一首』は、藤原定家が鎌倉時代初期に古今東西の和歌を集めて編んだ和歌集で、言わずと知れた日本を代表する古の和歌集の一つとして知られている。競技かるたの札に書かれている和歌は『小倉百人一首』に収められているものだ。競技かるたを「百人一首」ということがあるのは、そのためだ。
「さすが、優等生はやっぱり違うね」
環が感心する横で、佑希は続ける。
「この和歌は、裏切った相手を恨みつつ、相手に罰が当たることを『気の毒に』と皮肉って詠んだ和歌だといわれています。作者は右近。平安時代中期の女流歌人で、右近衛少将だった藤原季縄の娘だったことから、そう呼ばれています。なかなか恋多き女性で、多くの貴族と浮き名を流したことでも知られています」
まるで、頭の中にある百科事典を読んでいるかのような、完璧な解説だった。
環は今一度、取り札に目を落として、小さく息を吐いた。
「それにしても、この取り札に書かれてる下の句は『あなたが命を落とすことが惜しいです』って意味だよね? 何か、趣味が悪い……」
深く考えることもなく、ふと口にした一言だったが、その言葉で生徒会室の空気が少しだけ重くなった事実に気づいた。




