外出
外出 ――十月二十一日(土)十五時三十分――
――今日は土曜日。
――娘の香澄が通う高校は何やら学校行事があるとの話だったが、本人は行事を休んで午前中から自分の部屋に籠り、無言でノートパソコンに向かっている。今の時刻は十五時三十分だから、もうかれこれ五、六時間になるだろうか。
和恵はリビングで本を読みながらも、ときどきこっそりと二階に上がり、聞き耳を立ててみた。物音は聞こえない。こういう事態になるなら、キーボードの音が聞こえないノートパソコンではなく、叩く音がパチパチと聞こえるキーボードが付属した、デスクトップのパソコンを買い与えておけばよかったと後悔した。
リビングに戻って二階の気配に注意していると、階段を急いだ様子で下りる足音が聞こえた。廊下を進む足音は、躊躇の気配も見せずに、リビングやキッチンの前を通り過ぎたかと思うと、玄関の方向へと向かう。
和恵はリビングのドアを少しだけ開けて、玄関の様子を観察する。開いたドアの向こうに、玄関を走り出る香澄の後ろ姿が見えた。
和恵は、慌てて玄関に駆け寄り、閉まりかけたドアを押し開いた。香澄の姿は、すでに見えなくなっていた。和恵は、香澄を探しながら木々の間を抜け、門へと続く石畳を必死の思いで走る。
途中、ちょうど買い物から戻ってきていた家政婦の田中と出会った。
「香澄を……、香澄を見かけなかった?」
息を整える間もなく、問いかける。田中さんは驚きながらも「お嬢様は今しがた、門をお出になっていかれました」と、門の方角に視線を送った。
和恵は、彼女へのお礼もそこそこに、再び石畳の上を門に向かって走りはじめる。
門を出ると、すぐに左右を見渡した。道路の右側、数十メートルほど先にある大通りとの交差点付近に、香澄の姿を見つけた。香澄は、歩道の端に立ち、車道に向かって右手を挙げている。
「香澄さん!」
和恵は思わず叫んだが、もちろん、返事はない。振り向く気配もない。
次の瞬間、香澄の前に一台のタクシーが止まった。香澄は、素早く後部座席に乗り込んだ。和恵は必死に追いかけたが、端から自動車の速度に敵うはずがない。彼女を乗せたタクシーは、車線を右側に移動しながらみるみる遠ざかり、やがてほかの自動車に紛れて見えなくなった。
*
和恵は、失意のうちに門をくぐると家に入り、リビングに戻った。そのまま、ソファに力なく座り込み、混乱した頭で思考を巡らせる。
心の中でみるみる大きくなっていく不安に、いてもたってもいられなくなり、自分のスマートフォンを取り上げると、香澄の名前を押してみた。
――お願い、繋がってちょうだい。
しかし、スピーカーからは、無情にも「現在、おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません」という無機質なメッセージが告げられるばかりだ。何回試してみても、電話が繋がることはなかった。
本人への電話を諦めて、今度は父親に電話してみた。すべてが他人事で頼りにならない父親ではあったが、ほかに相談する人がいなかった。父親は、すぐに電話に出た。
「何だ、こんな時間に。今は仕事中だぞ」
戸惑いを隠そうとしない父親の声にも構わず、和恵は苛立ちを押し殺して事情を説明する。話を聞いた父親は、電話の向こうで呑気な声を出した。
「香澄も、もう高校生なんだから、大丈夫だよ。だいたい、母さんは心配性なんだ。取り敢えずは、様子を見ようじゃないか」
明らかに投げ遣りな口調に腹が立ち、和恵はすぐに電話を切った。やはり、電話するべきではなかった。相談する相手を間違えた。後悔した。
和恵は改めて、自分にできることを考える。
――そうだ。ノートパソコンだ。
最近の香澄は、ノートパソコンを眺めてばかりだった。ノートパソコンの中に、何か手がかりが隠されているかもしれない。
和恵は早速、香澄の部屋に入ると、ノートパソコンを起動させてみた。
祈るような気持ちでノートパソコンの画面を見つめていると、パスワードを入れるまでもなく、画面が表示された。意外にも、スリープ状態のままだったようだ。
よほど、急いでいたのだろうか。あるいは、ノートパソコンなどの電子機器に疎い年老いた母親が、自分がいない間にノートパソコンを開くことなど、想像もしていなかったのだろうか。
和恵は、緊張に耐えながら、画面を凝視する。ブログというのだろう、短い横書きの文章が連なっていた。
和恵は、文章の内容を確認する。今日の十六時三十分に、どこともわからない場所で、呪いに終止符が打たれるという内容が書かれていた。
意味がわからなかった。しかし、嫌な予感がした。
――いったい、どういうこと?
一瞬、背中に冷たいものが走った。
混乱しながら画面をよく見ると、文章の下に、一枚の画像が表示されていることに気づいた。
朽ち果てた無人の家屋の内部を写した写真だった。
――文章の中にある「この場所」って、ここ? ここは、いったいどこなの?
香澄にはおよそ似合わない薄汚さに、言いようのない嫌悪感を抱いた。その嫌悪感が、不安をさらに増幅させていく。
耐え難いほどの恐怖と絶望感を感じ、和恵は机の前で崩れ落ちた。
――香澄が、何かとんでもなく悪いことに巻き込まれようとしている……。
そのまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。何をどうするべきか、適切な答を見つけられず、和恵は茫然としたまま大きく息を吐いた。
顔が上を向いた瞬間、壁にかけられている丸い時計が目に入った。
その針は、十五時三十五分を指していた。