メール
メール ――十月二十一日(土)十五時四十分――
環と啓太が、喫茶店で竹内と梅沢から話を聞いていた、ちょうどその頃。
紗季は、生徒会室で一人、束の間の休息にあった。
つい先ほどまで、PTA関係者などの来賓を引率しながら、文化祭で盛り上がる校内を案内していた。緊張感を伴った一時間弱にわたる職務がようやく終わり、生徒会室に戻ったときには、十五時四十分になっていた。
この後は、五十分後、つまり十六時三十分からはじまる映像研究部の上映会の準備状況を確認するため、体育館に行かなければならない。
生徒会役員は、佑希を含めてみんな出払っており、部屋には紗季のほかに誰もいない。自分の席に座った紗季は、戻ってくる途中に模擬店で買ったクレープを、遅めの昼食代わりに一口、頬張った。
――美味しい。
思わず溜め息が漏れ、肩の力が一気に抜けた。
二日前、校舎に貼られていた貼り紙のショックが、残っていないと言えば嘘になる。しかし、そのような個人の事情で「文化祭を成功させなければならない」という生徒会長の責務を簡単に放棄してしまうわけにはいかない。生徒会長には個人を超越した、公人としての使命があるのだ。
紗季は、食べかけのクレープを机の上にそっと置くと、両手で自分の頬をぴしゃぴしゃと叩いた。
――今日と明日だけだ。その二日間さえ、頑張れば……。
机の傍らに置いたペットボトルのお茶に手を伸ばすついでに、今後のスケジュールを確認しようと、ノートパソコンの電源を入れた。黒い画面にメーカーのロゴが現れ、しばらくすると、いつも通りの見慣れた壁紙が画面いっぱいに表示された。
――今頃、環たちは記者さんに話を聞いてくれてるんだろうな。
パソコンの画面を何気なく眺めながら、環たちの顔を思い浮かべた。記者から話を聞く場に同席できないことが、心苦しかった。
――記者さんたちに話を聞いて、事件について何か新しい手がかりが掴めるといいけど……。
紗季は、脅迫状に添えられていた和歌を、ぼんやりと思い出した。
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな
今さら言うまでもないことだが、脅迫犯は恐らく、この歌に自分自身の憎しみを投影している。
――それは、私が伊織ちゃんを見捨てて逃げたことに対する憎しみ。
――そして……。
心の奥から、灰色の思考が沸き上がってきた。その思考は、逆流する下水のように、ごぼごぼと粘り気のある音を立てながら、少しずつ心の中に広がっていく。
「まさか……」
心臓が大きく波打った、そのときだった。
立ち上がったノートパソコンのモニター右下に、メールの着信通知が表示されているのが目に入った。
動揺を感じながらも、気づくと無意識のうちにメールを開いていた。
差出人のメールアドレスは、登録されていないものだった。紗季はメールアドレスをダブルクリックして、本文を表示させる。
その文面には、こうあった。
お久しぶりです。
先日、お手紙をお送りして以来、ご連絡を差し上げず、申し訳ありませんでした。
突然ですが、お伝えしたいお話があります。
坂元佑希を監禁しました。
もし助けたければ、本日の十六時二十分に山城町九五二番地にある、添付画像の建物に来てください。
時間厳守です。
遅れると、後悔することになりますよ。
そうそう。
このメールのことは誰にも知らせず、必ず一人で来てください。
もし警察や周囲の人々に知らせたら、その時点で坂元佑希は永遠の眠りにつくことになるでしょう。
楽しみにしながら、お待ちしています。
全身が、凍りついた。
血の気が引く思いで、メールの右上を見る。確かに、二枚の画像ファイルが添付されていた。震える手でマウスを何とか操作し、開いてみる。
一枚は、建物の内部と思しき写真だった。薄暗い画面の中に、朽ち果てた家具や割れた食器、ボロボロになった雑誌らしき本などが写り込んでいる。
その様子は、つい数日前まで紗季の意識の奥底に封印されていた、あの九年前の無人の家屋の景色を思い起こさせた。
そして、もう一枚は……。
後ろ手に縛られた佑希が、床の上に力なく座り込んでいる写真だった。
机の上の時計を見る。十五時五十分を示していた。
十六時二十分ということは、あと三十分しかない。山城町は同じ市内とはいえ、この藤桜学園高校からは少々離れている。恐らく、タクシーなどの自動車を使った場合、所要時間は二十分あまりだろうか。
――警察に、相談したほうがいい?
しかし、当初からの考え通り、警察沙汰にすることには、やはり抵抗があった。
――でも、せめて環や鷹水君には知らせたほうが……。
紗季は、これも慌てて否定する。
今、自分が向かおうとしているのは、この上なく危険な場所であり、この状況を引き起こしたのは、紛れもなく自分自身なのだ。何の関係もない友人たちを、危険な状況に巻き込むわけにはいかなかった。
何より、文面には「警察や周囲の人々に知らせたら、その時点で坂元佑希は永遠の眠りにつく」と書かれている。
一瞬の逡巡の後、紗季は警察にも友人たちにも頼らず、単身で現場に乗り込む決意を固めた。
生徒会室を飛び出し、階段を駆け下りる。そのまま下駄箱で靴を履き替え、生徒や保護者でごった返している正門をくぐると、たまたま通りかかったタクシーに向かって手を挙げた。
急ブレーキをかけて止まったタクシーに乗り込んだ紗季は、運転手に「山城町までお願いします」と強い口調で告げる。
運転手は、緊張感を漂わせた紗季の言葉に、少々慌てた様子でアクセルを踏んだ。動きはじめたタクシーの中で、紗季はさらに言葉を重ねる。
「急いで!」
――お願い。間に合って!
加速するタクシーの後部座席で、紗季は俯きながら両手を合わせ、心の中で祈りにも似た言葉を呟いた。
*
流れる景色を気に留めることもなく、ただ佑希の無事だけを祈りながら後部座席で揺られていると、二十分ほどで山城町の交差点に差しかかった。交差点を右に曲がり、緩やかな上り坂を進めば、数分ほどで指定された場所に着くはずだ。
タクシーは、紗季の指示通りに交差点を曲がり、坂を上る。道は間もなく狭くなり、やがて未舗装の林道に変わった。
林道の手前でタクシーを降りた紗季は、砂利を踏みしめながら林道を奥へと進んだ。二分ほど歩くと、朽ち果てた一軒家が姿を現した。この建物に間違いないと判断した紗季は、敷地に一歩ずつ近づく。
違和感があった。
上手く表現できないが、凍りつくような緊張感とは対極にある、緩んだ空気感だった。好奇心に支配された空気とでも言えばいいのだろうか。
紗季は、朽ち果てた門をくぐる直前に右側へと向きを変え、敷地を取り囲む生垣沿いに回り込んだ。十メートルほど歩いたところで、一本の木の陰から敷地内を覗き込む人影を見つけた。
「何をしてるの」
遠巻きに建物を見つめていた男は、紗季の声に驚いて振り向いた。あどけない顔は、明らかに紗季より年下のように見えた。恐らく、中学生なのだろう。紗季は、厳しい表情で男の子に歩み寄る。
紗季の剣幕に気圧されたのか、男の子は動揺を隠すことも忘れて「すみません!」と叫び、後ずさりをする。数歩下がったとき、今しがたまで身を隠していた木の根に足を引っかけ、尻餅を突いた。
紗季はもう一度「あなたは、何をしているの」と尋ねた。男の子は、観念した様子でグレーのジャンパーからスマートフォンを取り出し、電源を入れる。ブラウザを立ち上げたかと思うと、画面を紗季に向けた。
「このブログを見たら、ここで何かが起こるって書いてあったから……。だから、面白い動画を撮影できるんじゃないかと思って、来てみたんだ」
紗季は、差し出されたスマートフォンの画面を覗き込む。
運営者名はSWEET DARKNESS152。恐らく「甘美なる闇」といった意味なのだろうか。運営者名の下には、このような記事があった。
相変わらず、アクセス数は少ないけど、そんな数少ない閲覧者たちに、プレゼントをしようと思う。
今日の十六時三十分、この場所で面白いことが起こる。
そして、自分を苦しめていた理不尽な呪いに終止符が打たれる。
興味がある人は、この場所に……。
ただ、あなた方はあくまで傍観者だ。
その場所で起こるできごとに介入することは許されない。
もし介入したら、あなた方の身の安全は保障できない。
書き込まれた日付は、今日になっていた。
記事の下には、一枚の画像が表示されている。
紗季が受け取ったメールに添付されていた二枚のうちの一枚、建物内部の写真と同じものだった。
脅迫犯がブログでも犯行予告をしていた事実を、紗季はこのとき初めて知った。だが、一つ疑問に思った。このブログの記事には、紗季宛てのメールと異なり、建物の場所が書かれていない。
「どうして、ここだとわかったの?」
「画像ファイルに埋め込まれた位置情報から場所を割り出しだんだ。多分、この運営者は、この場所を突き止めるための手がかりとして、写真にわざと位置情報を残したんだと思う」
男の子は、首を大きく動かしながら、周囲をきょろきょろと見回した。
「そのことに気づいたのは僕だけかと思ったんだけど、ほかにもここを突き止めた人が何人かいたみたい」
男の子の視線に合わせて周囲を見ると、無人の家屋を取り囲んでいる茂みの中で、数人の人影が動いている気配が、確かに感じられた。
紗季は、男の子が持つスマートフォンの画面を、もう一度確認する。アクセス数は、五十数人だった。
紗季は、五十数人という数字を手がかりに、推理を巡らせた。
閲覧者のうち、ここで何かが起こるという話を信じたのはせいぜい十人弱。さらに、場所を特定したうえで指定時間にここに来ることができた人物が、数人だったということなのだろう。
「もし、この建物の中でアカウントを稼げそうなことが起こったら、動画をネットにアップしようと思ってるんだけど……。ひょっとしたらお姉さん、この中で何が起こるか知ってるの?」
――彼らは今、何も知らず、ただ邪な好奇心だけに衝き動かされている。
そこでたとえ何が起ころうとも、安全な場所で、高みの見物と決め込んでいるのだろう。悪趣味、ここに極まれり、だ。
呆れた紗季は、腹立たしさのあまり恐怖も忘れ、男の子を無視したまま敷地の中に足を踏み入れた。何をするでもなく、ただ黙って紗季を見送るだけの男の子の視線を背中に感じた。
紗季は、草をかき分けるようにしながら進み、建物の前に立った。壁には、至る所に名前のわからないつる性の植物が張りつき、赤茶色をした落葉直前の葉を茂らせている。半分、崩れかけたドアから中を覗いてみると、その奥にはすべての光を吸い込んでしまいそうな漆黒の空間が広がっている。
紗季は、思わず息を飲んだ。
写真を見た時点で、ある程度は予想できていたが、想像以上に、あのときの無人の家屋にそっくりだった。
九年前の情景が鮮明に脳裏に蘇り、足がすくんだ。しかし、逃げ出すわけにはいかなかった。
佑希を助けなければならないという強い思いに突き動かされた紗季は、建物に足を踏み入れながら、伊織に対して思いを馳せる。
――ここに足を踏み入れれば、自分の身が危険にさらされるかもしれない。それでも、私は伊織ちゃんを残して逃げたことを脅迫犯に謝りたい。
そんなことを考えた。
腕時計の時刻は、十六時二十分を指していた。
約束の時間だ。
紗季は、足を一歩一歩、進める。
埃を被った床板が、足を運ぶたびにギイと軋んだ。不吉な予感を増幅させるには十分な音だった。