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遺体

遺体 ――十月二十一日(土)十四時四十八分――


 岡田真菜に話を聞いた翌日、環は第一校舎の一階にある下駄箱の前に、一人で立っていた。

 数日前に近所の神社で何気なく引いたおみくじの結果に反して、待ち人が現れる気配は、まだなかった。

 腕時計を見る。約束の時間である十四時四十五分を、三分ほど過ぎていた。

「まったく。自分で時間を決めたくせに」

 腕時計から目を離した瞬間、甘い匂いが環の鼻孔をくすぐった。顔を上げると、揃いの黒いTシャツにエプロンを着重ねた生徒たちが、山盛りのワッフルを載せた皿を大事そうに抱えながら、目の前を慌ただしく通り過ぎていった。

 ――ザ・アオハルだね。

 いや、単語の最初が母音なので、この場合はズィ・アオハルなのだろうか。生徒たちの後ろ姿を遠巻きに眺めながら、そんなことを思う。

 今日は、十一月二十一日土曜日。文化祭の初日だった。なぜ、学生時代随一の晴れ舞台ともいえる重要な日に、青春を謳歌する生徒たちと精神的かつ物理的な距離を置きながら、待ち合わせなどしているのか。

 それには、理由があった。

 ことの発端は、昨日の夜、一人の男からかかってきた一本の電話だった。ただし、相手はイケメン男子などではなく、残念なことに腐れ縁の啓太だった。


「明日の十五時から、近くの喫茶店でN新聞の人から当時の話を聞けることになった。文化祭の当日だけど、その人が時間をつくれるのは明日だけらしくて、取り敢えず文化祭を抜け出して会うことにしたよ。タマはどうする? もし忙しかったら、タマは来なくても大丈夫だと思うけど」

 まさか、本当にマスコミ関係の人から直接、話が聞けるとは思っていなかったので、正直なところ驚いた。文化祭の会場をこっそり抜け出すという罪悪感がないわけではなかったが、こんなチャンスを逃す手はない。

「行く、絶対行く!」

 先日の図書館、昨日のバスケットボール部員と二度の空振りを喫している環にとって、三度目の空振りはさすがに許されない。何としても手がかりを得たい環は、二つ返事で参加を告げた。

「じゃあ、十五分前の十四時四十五分に、下駄箱の前で待ち合わせな」

 啓太は言った。


 だが、今日。

 約束の時間になっても、言い出しっぺの本人は一向に現れる気配を見せない。徐々に大きくなっていく苛立ちを鎮めるため、目の前を通り過ぎる生徒たちを上目遣いで眺めながら、小さな声で呟いてみた。

「早くしないと、遅れちゃうじゃん、あのバカ」

「バカはバカなりに忙しいんだよ」

 声に驚いて振り向くと、啓太が立っていた。両手に軍手をはめ、腰からタオルをぶら下げたその姿は、まるでベテランの肉体労働者だ。妙に似合っているのが可笑しくて、怒る気も失せた。

「でも、申し訳なかった。体育館の設営を手伝ってたら、いつの間にか、こんな時間になっちまった」

 啓太は軍手を外すと、本当に申し訳なさそうに頭を掻いた。外したタオルで額の汗を拭きながら「石塚は、どうだって?」と続ける。

「紗季は、やっぱりだめみたい」

 今日の昼過ぎ、生徒会室の前で紗季に会ったときに、出席できるかどうか確認してみた。


「文化祭当日の今日はいろいろと忙しいから、ちょっと無理なの。本当にごめんね。でも、環と鷹水君の二人なら、任せても大丈夫だって信じてるから」

 紗季は申し訳なさそうに、軽く頭を下げてきた。


 環の話を聞いた啓太は、残念そうに呟いた。

「そうか。生徒会長っていうのも、大変だな」

「うん、倒れたりしなきゃいいけど」

「で、坂元は?」

「本人に直接、聞いたわけじゃなけど、紗季の言うには、坂元っちゃんも今日は難しいだろうって話だった」

 紗季と佑希の二人、とくに当事者である紗季が来られないというのは、正直な話、想定外だった。しかし、環と啓太はかなり詳しい部分まで話を聞いているのだから、少なくとも啓太がいれば何とかなるはずだ。そう、楽観的に考えた。

「ということは、今回も俺たち二人か」

 啓太は、小さく頷く環の前を通って「鷹水啓太」と書かれた下駄箱を開けると、黒い革靴を取り出し、土間に置いた。

「どっちにしても、あんまり時間がない。急ごう」

 言いながら、脱いだ上履きや軍手、タオルを慣れた手つきで下駄箱に放り込む。そのまま靴を履き、手に持っていたブレザーを羽織りながら、のしのしとドアに向かって歩き出した。

「ちょっと、待ってよ」

 ――時間がないのは、遅れて来たアンタのせいでしょ。

 と抗議する間もなく、環は慌てて靴を履き替え、啓太の後を追った。


          *


 二人は、生徒とその保護者たちで賑わう校舎前を抜けると、モールや風船で飾りつけられた正門のゲートをくぐって、待ち合わせの喫茶店に向かう。

 大股で歩く啓太を早歩きで追いかけながら、環は啓太の後ろ姿に声をかけた。

「それにしても、まさか新聞社の人に直接、話を聞けることになるなんて思わなかったよ。ホントに驚いた」

 地域の有力者の親戚という強大な権力をもって、衆人を意のままに操る悪の組織のラスボスのような啓太が、ちょっとばかり頼もしく思えた。ただ、待ち合わせに遅刻したという減点要素があるので、トータルで考えると頼もしさポイントはプラスマイナスゼロなのだが。

 そんな環の辛口評価に気づくはずもなく、啓太はちょっと得意げな表情で、昭和のガキ大将のように鼻の下を右手の人差し指で擦る。それは、褒められて有頂天になったときに見せる、小学校の頃からの啓太の癖だった。

「うちの爺ちゃんが懇意にしてた竹内(たけうち)さんって人の長男が、今はN新聞の社会部で記者をやってるんだ。俺も小さいころにはときどき遊んでもらってたから、よく知ってる人なんだけどな。その(みのる)兄ちゃん、稔さんに『学校の同級生に、九年前の火事の当日、友だちと一緒に現場にいた女の子がいる。その彼女が最近、当時の火事が原因で、ちょっと困った事態に巻き込まれている』って説明して、『当時の状況を知っている人がいれば、話を聞きたい』って伝えたんだ。そしたら……」

「そしたら?」

 もったいぶった態度がもどかしい。待ちきれずに、先を促す。

「稔さんが『その事件の担当記者だった人を知ってる』ってことで、わざわざ声をかけてくれたんだ」

 よりによって話をしてくれるのが、事情を知っている人どころか、担当の記者さんとは。啓太の人脈に驚きを新たにしながらも、すべてを無条件に信じられない環は、思わず確認する。

「ホントに、現役の記者さんが、そんな話をしてくれるの?」

「いや、その人は数年前に定年退職したんだ。だから、正しい肩書は、元記者だ。それに、事件自体が現在進行形じゃなくて、もう終わったことだからってことで、話をしてくれる気になったらしい」

「ふーん」

 そんなこともあるのかと、環は曖昧に頷いた。


          *


 目指す喫茶店は、駅の手前の交差点を右に入って、すぐの場所にあった。オフィスビルが立ち並ぶ一角に、狭いながらもオープンカフェのスペースを備えている、今風のお洒落な店だった。

 建物内に入ると「いらっしゃいませ」というウェイターの声が店内に響いた。啓太に続いて中に入った環は、注意深く周囲を見渡す。採光性を考慮した明るい店内には、明るい茶色のテーブルが十台ほど置かれ、店内には、いかにも仕事が捗りそうな落ち着いた曲調のピアノ曲が流れている。

 客は、手前のテーブルでノートパソコンを広げている若いサラリーマン風の男性客と、奥の席に並んで座っている二人の男性客だけだった。

 と、奥の男性客の一人が、こちらに向かって手を挙げた。啓太は、それに応えて軽くお辞儀をしながら、奥に進んでいく。多分、手を挙げた人物が、啓太の知人である竹内という人物なのだろう。環も啓太に続いた。

 啓太は二人の席まで行くと、もう一度軽くお辞儀をして、向かいの席に腰かけた。環も倣ってお辞儀をし、啓太の横に腰かける。啓太は、どこからともなく影のように現れたウェイターにコーヒーを二つ注文すると「今日は、お忙しいところ、すみません」と、二人にお礼を言った。

 竹内は「いや、今日は休みなんだ」と、心配無用とばかりに顔の前で大袈裟に手を振ってみせた。

「で、この人が今回、お話を聞かせてくれる梅沢(うめざわ)さん。今、俺がいるN新聞の社会部にいらした方で、数年前に退職するまで愛情をもって、それはそれは厳しく指導してくれた大先輩だ」

 竹内は目を細めながら、梅沢にちらりと視線を送った。

「実は以前、梅沢さんから、例の火事に端を発する事件を担当してたことがあるって聞いた記憶があってね。それで、今回の件を鷹水さんから相談されたときに早速、連絡を取ってみたんだよ」

 “鷹水さん”とは、恐らく啓太のおじいさんを指しているのだろう。そう推測する環の正面で、梅沢が柔和な笑顔を見せた。

 梅沢は小柄で優しそうな人だが、目には鋭い光が宿っているような気がしないでもなかった。

 ――さすがは、元とはいえ多くの事件に関わってきた元記者さんだ。

 環は感心した。

「それにしても、承諾してくれるとは、思ってもいませんでしたよ」

 竹内が笑うと、梅沢はコーヒーに手を伸ばしながら小さく頷いた。

「鷹水さんには、私も随分とお世話になったからね。断れんよ」

 どうやら、梅沢も啓太の祖父と面識があるようだった。

「それにしても、日時を半ば強引に決めてしまって、申し訳なかったね。実は、明日から講演のために一週間近く、九州に行かなきゃならなくてね。空いている日が、今日しかなかったんだよ」

「いいえ。こちらこそご無理を言って、本当にすみません」

 環が精一杯のお礼を述べていると、コーヒーが運ばれてきた。環は、手元にあったシュガーポットからスプーン四杯の砂糖を入れ、続いてミルクポットからありったけのミルクをカップに注ぎ込んだ。スプーンを入れてかき混ぜると、コーヒーがみるみるうちに白く染まった。いっぽうの啓太は、ブラックのままのコーヒーを口に運ぶ。

 環と啓太がコーヒーを一口飲んだのを確認すると、竹内がテーブルの上で手を組みながら、環たちに提案した。

「まずは、石塚さんという友だちが、九年前の火事の現場で体験したことを聞かせてもらえるかな」

 混み入った内容を要領よく説明するのは、啓太の得意技だ。環は敢えて一任するという意思表示の視線を啓太に送った。

 啓太は環の視線を受け取ると、「どうせ、そういうことだと思ったよ」という諦めの表情をした後、竹内たちに向かって紗季の体験を話しはじめた。


 あの日、石塚紗季と雨宮姉妹は、三人で無人の家屋を訪れたところ、男に捕まったこと。

 妹と紗季は解放されたが、その直後、火の手が上がったこと。

 その火事で、姉の雨宮伊織が命を落としてしまったこと。

 幼かった紗季は、火事の真実を誰にも告げることができず、今に至ってしまったこと……。


「なるほど……」

 腕組みをしながら啓太の話を黙って聞いていた梅沢は、話を聞き終わると顎に右手を当て、小さく呟いた。

「話はわかった。だが、君たちは勘違いをしている」

「勘違い……、ですか?」

 啓太が驚いて聞き返した。

「ああ、現場から発見された女の子の遺体なんだが……」

 ――伊織ちゃんの遺体のことだ。

「その遺体は、焼死体じゃなかったんだ。焼けた建物の床下、つまり土の中に埋められていた」

 発見まで一週間近くかかったというタイムラグの理由が、初めて理解できた。同時に、環は混乱した。

 ――焼死体じゃない? 床下? どういうこと?

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