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訪問②

 翌日の午後、紗季はしいの木苑の最寄りの駅に降り立つと、施設へと続く道を歩いた。

 施設に向かう道すがら、紗季は環のことを思った。

 ――環ってば、本当にお節介なんだから。

 だが同時に、今回の事件に関しては、そのような環の行動力に感謝している自分がいた。環がいなければ、紗季は自分から行動を起こすこともなく、ただ悶々とした気持ちのままで毎日を過ごしていただろう。

 周囲からは、常に冷静で大人びた性格に思われがちな紗季だったが、自身のメンタルがそれほど強靭でないことは、紗季自身がもっともよく知っていた。

 ――自分に、もし環みたいな行動力や決断力があれば、もっとものごとにしっかりと向き合えるかもしれないのに。

 自分の不甲斐なさを思い知らされた気がして、紗季は歩きながら小さく息を吐いた。

 環の性格が心底、羨ましかった。

 とはいうものの、そんな環のお節介ともいえる行動の理由が、“あるできごと”に由来していることも、紗季は知っていた。

 以前、少しだけ話してくれたことがある。


「私、こう見えて、小学校高学年のときにいじめられた経験があるんだ。原因はいじめられている子をかばったことで、内容は結構、陰湿だったんだよね。担任の先生は私たちに寄り添って、いじめを続ける児童に毅然とした態度で接してくれたんだけど、私は事態が大きくなるのを望まなかったから、最初は先生の行為をお節介のように感じてたの。だけど、それでも辛抱強く解決を目指してくれた先生のおかげで、いじめは小学校生活が終わるころには終息したわけ。それ以来、私はその先生みたいに、お節介な人になることを心に決めたんだ」

 環は紗季の目を見ながら、そう打ち明けてくれた。紗季がその話を聞いたときは、真っ直ぐな性格の環らしいエピソードだと納得したものだ。


 そんなことを考えながら歩いていると、ふと環の笑顔が頭に浮かんだ。瞬間、胸がキュンと微かに収縮した。

 実は、紗季は環の笑顔を間近に見るたび、なぜか胸の鼓動が、いつもより少しだけ速くなる。今、考えてみると、そのような生理的変化は、環に対する憧れの感情に起因しているのかもしれなかった。

 気がつくと、いつの間にか施設のすぐ手前の交差点に差しかかっていた。青になった信号を渡って、施設の門をくぐる。

 建物に足を踏み入れると、数人の男の子たちが愉快そうに笑い声を上げながら、玄関前の廊下を走り抜けていった。

 続いて、一人の女性が「待ちなさい!」と叫びながら、室内用のシューズをパタパタと鳴らして走ってきた。山本だった。以前、会ったときに比べると、少しばかりふくよかになったように見えた。

 山本は、紗季の目の前まで来たときに、初めて紗季の存在に気づいたようだった。足を止めて懐かしそうに微笑んだかと思うと、紗季に駆け寄って華奢な体を両手できつく抱き締めた。

「まあ! 石塚……、紗季ちゃんね! 久しぶり!」

 そのまま、しばらくの時間が過ぎた。やがて、山本は紗季の体を解き放つと、やや恥ずかしそうな表情で「ごめんなさい。つい懐かしくて」と笑った。

「十六時頃って話だったけど……。あら、もうこんな時間なのね。ごめんなさい。うっかりしてたわ。さ、上がってちょうだい」

 紗季は、勧められるままにスリッパを履くと靴を揃え、山本の後ろ姿を追いかけるように廊下を進んだ。

 ちょっとくすんだ薄茶色のリノリウムの床、ところどころに汚れが染みがついた白い壁、やや色あせたベージュの柱……。紗季が幼い頃の一時期を過ごした、ほしのそら学園とよく似ていた。

 通されたのは、園長室の横にある応接室だった。「お邪魔します」と言いながら室内に入り、山本が手で指し示す椅子に腰を下ろした。

「お茶でいい? それともコーヒーかしら」

「あ、お茶でいいです。すみません」

 紗季が恐縮しながら答えると、山本は小さく頷き、せわしない様子で部屋の外に消えていった。

 山本の後ろ姿を見送った後、一人残された紗季は室内を見渡した。応接室と言っても、重厚なテーブルや革製のソファなど、高級な応接セットが設えられているわけではない。むしろ会議室のイメージに近い、質素なつくりだった。その佇まいも、また紗季を懐かしい心持ちにさせた。

 視線を入り口の方向に向けたとき、ドアの陰からこちらの様子を窺っている子供たちが見えた。にこりと笑いかけると、子供たちは驚いた様子だったが、すぐに恥ずかしそうな笑顔で頷いた。

 ほどなくして、山本がお茶を載せたお盆を持って戻ってきた。緑色の湯飲みを紗季の前に、青色の湯飲みを向かいの席に置くと、彼女は青色の湯飲みを置いた席に腰かけた。紗季は、改めて挨拶をする。

「お久しぶりです」

「本当ね。紗季ちゃんも、こんなに大きくなって。私も年を取るはずだわ」

 確かに、今、目の前にいる山本は、記憶の中の彼女よりも幾分、年を重ねているように見えた。目元の皺やほうれい線が、月日の長さを物語っている。だが、明るく元気な笑い声は、当時のままだった。

「確か、今はお父様のご親戚の方の家で暮らしてるのよね。その……、暮らしは、どう?」

「はい。お父さんもお母さんも、とても優しいです。競技かるたを続けたいっていう我儘も聞いてもらっちゃって」

「あら、よかった。紗季ちゃんは、ほしのそら学園にいた頃から、競技かるたが好きだったもんね」

 山本は、昔を懐かしむように宙を見つめた。紗季に、競技かるたの楽しさを最初に教えてくれたのは、誰あろう山本だった。ホールに置かれた古い百人一首のかるたで遊んでいる紗季に、競技かるたを教えてくれたのだ。確か、施設に入って数ヶ月がたった頃だったと思う。

「今度、東京のT大学に推薦で入学することになったんです」

「まあ、凄いじゃない。私がお世話した子が、そんな優秀な大学に進学するなんて。みんなに自慢しなくちゃね」

「いえ、まだ正式に入学したわけじゃないですし、何より卒業しなきゃ、意味がないですから」

 気恥ずかしくなって、紗季は本題を切り出した。

「あの。実は、今日伺ったのは、先日お話しした通り……」

「ああ、そうだったわね。葵ちゃん。雨宮葵ちゃんの話ね」

 山本は、少々難しい顔になった。

「葵ちゃんは、紗季ちゃんが今のお家に引き取られたすぐ後、数ヶ月後だったかな。A市に住んでるお母様の遠縁に当たるご親戚のところに引き取られていったの」

「じゃあ、今はA市に?」

「それがね……」

 山本の顔が、心なしか曇った気がした。

「今、どこにいるのか、わからないの……」

 覚悟はしていた。しかし、面と向かってはっきり言われると、やはりショックだった。

「当時の事情を詳しくご存じの方は、いないんですか?」

「当時、子供たちの受け入れ先との遣り取りは片山さんが担当されてたんだけど……。ほら、片山さん、覚えてる? 背が低い、ちょっと恰幅のいいおじさん」

「はい、覚えてます」

「その片山さん、その後、ご病気になられてね……」

「辞められたんですか?」

「三年ほど前に亡くなられたの。で、当時の詳しい事情を知ってる人は、もう誰もいなくなってしまって……」

 紗季の呼吸が、一瞬止まった。

 片山先生が亡くなったことは、とてもショックだった。だが、それだけではない。雨宮葵に繋がる唯一の糸が切れてしまったことも、大きなショックだった。二つの落胆がごちゃ混ぜになって、紗季の心を冷たくした。

「紗季ちゃんも知ってると思うけど、施設の子供たちは、施設を出た時点で私たちの手を離れてしまうの。だから、職員は基本的に施設を出た子どもたちの、その後の動向を知ることはできないのよ。プライバシーの問題もあるしね」

 重苦しい空気のなかで、山本は続ける。

「ただ、本当はあまりいいことじゃないんだけど、片山さんが亡くなった後で、先生も葵ちゃんについて少し調べてみたことがあるの。あくまでも、個人的な範囲内でなんだけどね。そうしたら、葵ちゃんを引き取られたご夫婦は、その二年後に事故で亡くなられていたことがわかったの。そしてそれ以降、葵ちゃんがどこにいったのかは、結局わからなかった……」

 山本は、そこまで話すと湯飲みに手を伸ばし、お茶を口に運んだ。

「お姉さんがあんなことになってしまったことに加えて、数年後には新しいご両親までお亡くなりになられて、葵ちゃんは精神的にも本当に大変だったと思うのよね。せめて、今は少しでも幸せでいてくれるといいんだけど……」

 そのまま、二人の間に無言のときが流れた。

 紗季も、湯飲みを取り上げてお茶を飲んだ。お茶はすでに冷めていた。


          *


 その後、他愛のない世間話を数分ほど続けた後、紗季は施設を後にした。

 駅へと続く夕暮れの道を歩きながら、伊織について考えた。

 山本に会うまでは、伊織が今、どこに眠っているのか聞いてみたいと思っていた。

 だが、いざ山本を前にすると、伊織の墓前で手を合わせる覚悟をもてていない自分に気づき、つい聞きそびれてしまった。

 ――今回の事件が一段落したら確認してみよう。急ぐ必要はない。

 紗季は、そう自分に言い聞かせながら、オレンジ色に染まった空を見上げた。

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