訳者解題
本作は、ロンドンのアデルフィ劇場にて、1826年12月4日月曜初演されたメロドラマの台本である。明らかに BLACKWOOD'S EDINBURGH MAGAZINE No. L. MAY, 1821. Vol. IX. 所収『ヴァンダーデッケン望郷の便り、あるいは愛着ゆえの執着 Vanderdecken's Message Home; Or, The Tenacity Of Natural Affection』を下敷にしており、おそらくワーグナーのオペラ『さまよえるオランダ人 Der fliegende Holländer』(1843)の元ネタである。
訳してみると、思ってたのと随分違った。オランダ人船長ヴァンダーデッケンと、操舵手トム・ウィリスの名は Blackwood's Edinburgh Magazine から持ってきたに違いないのに、船名だった筈の "Flying Dutchman" 号がそれとは呼ばれず、絵の中に在るばかり。元の小説にヴァンダーデッケンその人は登場せず、『飛んでいくオランダ人』号の乗組員を使者として寄越すばかりなのに、このメロドラマでは仲間の一人もない。
元の小説に同じく、オランダ人ヴァンダーデッケンに救済はない。それどころか他人の恋人であり、さらに別の他人の婚約者であるレステレを、婚約者に成り済まして拉致に及ぶ始末。掛けられた呪いを解くのは、その恋人の下男という割と無関係な船乗りだし、呪いが解かれたからといって女を解放するでもなく、一貫して悪役のまま。そこに愛はあるのかと聞かれたら、「ない」としか答えようがない。
本作がワーグナーのオペラに影響というか、切掛になったのはほぼ間違いない。ゼンタのアリアがバラードなのも、台詞の引用らしきところが見えるのも納得いった。
ただ、直接の切掛になったハイネの小説については何とも言えない。初演はハイネの渡英(1827年4月〜8月)より前で、あるいはハイネも観劇を楽しみにしていたかも知れない。j. q. davies "Melodramatic Possessions" に拠ると、ハイネの小説がスコットランドを舞台にしたのは、ケープタウン近郊のテーブル湾周辺を象った本作の舞台装置が、スコットランド風に見えた可能性がある。
ところが筋書きを見る限り、実際に舞台を見たのか微妙。冒頭いきなり現れる海の魔女ロッカルダにしても由来不明、Rockalda の名を検索しても後年の W.S. Gilbert "A Sensation Novel"(1871) くらいしか出てこない。同書はギルバート&サリバンのミュージカル台本で、Sir Ruthven Glenaloonとかどこかで見たような名前が出てきて、終いにはシャーロック・ホームズまで追加されるなど興味深いけれど、これは別の機会にしよう。とにかくロッカルダも侍女ルーシーも黒人奴隷スマッタも呪いを解くヴァーニッシユも、ハイネの小説には出てこない。ヴァンターデッケンの名すら出てこないのは、何故かワーグナーも踏襲したところで、著作権のない時代とはいえ興行中の舞台に遠慮したのだろうか。
2004年の論文"Melodramatic Possessions"は全文公開されておらず、勝手に翻訳はできないようで、しかし訳者個人で翻訳権など取得できるのか悩ましい。ワーグナー協会というのに参加してみようか、しかし年会費高いな…
そのうち他の版も翻訳してみたいが、需要あるのかな?『オランダ人』に関しては、海洋冒険小説の開祖マリアット大佐の代表作『幽霊船 The Phantom Ship』が未訳で、影響が大きかった筈だから、此方を優先したい。




