化物と僕
彼女は先程服屋で恵さんから貰った服を着ていた
黒基調の服は彼女にとても良く似合っている
その立ち姿はまるで1つの芸術品のように美しかった。
しかし
その表情に孕んでいるものは美しさとは遠いものであった。
激昂している、そう表現するのが正しいだろう
イグニカさんからは怒りの感情以外感じなかった。
「その足をどけろ」
「は?」「なにこいつ」「頭おかしいんじゃね?」
口々に奴等は彼女の正気を疑いながら睨み付ける
その内の一人がイグニカさんの方へ歩く。
「あのぉー、あんた誰? いきなり話しかけてきて迷惑なんすけど?」
「もう一度だけ言う」
「だから……」
会話になっていないやり取りをしその1人がイグニカさんの胸ぐらを掴む
そして右手を振りかぶるその行為の目的は明白だった。
「何なんだよテメェはよぉお!!」
男は猛烈な勢いで声を荒げながら右手を握り込み
今まで何度も使ったであろう拳を彼女の顔にぶつけようとする
彼にとっては女性も男性も関係ないのだろう
拳の勢いは明らかに本気で彼女を傷付けようとした。
〈殴られる!? イグニカさんが!!〉
これから起きる事態を止めるために口と身体を動かそうとする
しかし痛みが走り身体が強張る
そして時間はいともあっさりと使い果たされた
これではとても間に合わない
そんな僕に出来る行為は目を閉じこれから起きる現実を目にしない事だけだった。
「……忠告はした……つもりです」
そんな最中彼女がぽつりと呟いた言葉が耳に入る
拳が迫る
狙いは彼女の頬数瞬の後に人の肉を打つ嫌な音が響くだろう
しかし
拳が頬に触れる瞬間イグニカさんの姿が奴等と僕の前から消えた。
「「!?」」
殴りかかった彼も端から見ていた僕も彼女を見失った
そして彼が宙に投げられていた。
彼女は殴られる瞬間にしゃがみ込み彼の足を掬い
自分の胸ぐらを軸に回しその勢いで彼を投げたのだ。
何故見えていないのに投げられたと判断できたのかは分からない
ただ何故かそうだと確信する何かが僕の中にあった。
「……」
佇む彼女は冷めた眼で俯いてる
宙を舞う彼の手は未だ彼女の胸ぐらを掴んでいた
そして
彼女は未だ宙に浮き身動きが取れない彼の顔面を万力の如き力で掴む
彼の顔は手の力に逆らうことなく形を変え
その苦痛を彼の身体に強いる。
幸運かまたは不運か
その痛みを味わう暇を与える気がない事が
彼女のその冷徹な表情から伺えた。
〈まさか……〉
まるでスローモーションの様に見える光景の中で
彼女が何をするつもりなのか容易く理解できた。
瞬時に周りを見る
奴等はその光景に認識が追い付いていない様だった
歩行者達はそもこちらから離れていく
巻き込まれたくないそう考えるのが普通
僕とて当事者でなければ関わろうとはしないだろう
こちらに目をくれず我関せずを貫いている。
今この状況で
この後起きる惨劇を予期できてるのは僕だけだった。
〈止めなきゃ! イグニカさんを〉
しかしその瞬間は刻々と迫る1秒もない瞬きをした時には
そこに見たくもないモノが出来上がることは目に見えている。
〈止めなきゃ! 止めなきゃ!! 止めなきゃ!!?〉
思考が固定化され同じ反応を壊れたように繰り返す
そしてその時は訪れた
イグニカさんの手が
ついに彼の頭を地に叩きつけようと動いた
それはとても僕の目では追えないスピードだった。
〈やめてくれぇ!!〉
「……はい」
衝撃でアスファルトは砕け
巻き上げられた破片がポツポツと雨のように落ちてくる中
イグニカさんは僕の心に返事をした。
彼の頭は地面からほんの1,2㎜浮いている位
ぶつかってると言われたら信じてしまう
そして身体は逆さまに直立していた。
どれ程のスピードで動かせば
こんな不思議なオブジェの様に出来るのか
そして
ゆっくりと彼は重力に従い地面に倒れ伏した
重いものが落ち1度だけ浮き今度こそ力なく沈んだ。
「「……」」
僕も彼等も誰一人言葉を発せずただその光景をじっと見ていた。
手を離し振り向いたイグニカさんがこちらに歩いてくる
その表情には先程までの怒りの色はなく
今の状況に不自然な程優しい表情をしていた。
「……」
その瞳は僕だけを見据え
他のモノなど目に写っていなかった。
「マスター」
「イグニカさん……」
「お立ちになれますか」
「う、ん」
僕の所まで来て
イグニカさんは立ち膝になり聞いてきた
差し伸べられた手を借りながら僕は立ち上る
そして周りを見た。
「「 」」」
誰もが言葉を失っていた
彼等は倒れた仲間を助けに行くことも出来ず
周りの通行人は動きを止めこちらを見ていた
街中で突然衝撃音と共に人が逆さになっていたのだ
見ない方がどうかしている。
その当然の視線に僕は胃液が込み上げてきた
こちらを見つめる瞳全てが僕を責め立てている様に感じた
〈ちがう……僕じゃない、やったのは……この……!?〉
今、一瞬何を考えたのか
その事実に困惑し耐えられなくて目を伏せた
隠したい思いが見られている事に気付いたからだ
余計に自分の犯した行いに押し潰されそうになった。
「ッ……ェツ」
やり直せるならやり直したい忘れたい辛い無くしたい消えたい
そんな遅い後悔と命乞いの様な感情が延々とループする。
「……」
音がする
静電気が走ったような音がそしてそれは右から聴こえていた
次いで光の粒が宙を舞いながら瞬いていた。
「分かりました」
優しくゆっくりと
僕の全てを肯定するような慈愛に満ちた声でイグニカさんが応えた。
「エーテルナノライザー起動、領域認識、生体認識、完了
エーテル体への干渉開始、完了、記憶組成、改竄開始」
温かみのあった声は機械の様な冷えた声に塗り代わり
時計の秒針の様に正確に一言ずつ事項を呟く。
「改竄完了、行動状況齟齬修正、完了、行勢開始」
言葉を言い終えたと同時に光が音を発しそれと共に身体を何かが通り抜けた
今この瞬間何が起きてるのかは僕では分からない
しかし
1つ確定していることは
今僕にとって都合の良いことが起きたのだ。
その事を彼女の哀しそうな笑顔が認識させた
それを確認した僕はゆっくりと眼を閉じそのまま気を失った。