意外な落とし物
まったくの予想外ながら、東京で会った神楽さんとは、その後もメールや電話で続いていた。
てっきり、それっきりになると思っていたのに、なんだかんだと話題が絶えず、それどころかメールの文面も砕けたものになっていったのだった。
内容は、昨日観たテレビの話だったり、今日あった出来事、他愛もないものがほとんどだったけど、ときどき、
――――――今日は何か描いた?
まるで小学生に夏休みの宿題を確認するように、神楽さんが尋ねるのだ。
あの日、わたしの絵が見たいと言ったのは、単なる社交辞令でもなかったらしい。
けれどわたしは、神楽さんに訊かれるまでもなく、奈良に戻ってからスケッチを再開していた。
再就職の準備すらしていないというのに、あの日神楽さんと会って以来、なぜだか無性に、また描きたくなっていたのだ。
近所の文具店でらくがき帳みたいなものを何冊か購入して、気が向くままに描いてみた。
部屋にあった時計、店から見える街並み、記憶の中にあるどこかの風景……
意識とはまったく別のところで、パッと頭に浮かんだことを描いていたのだが、ふと気付くと、神楽さんの車のエンブレムを描いていたりもしていた。
それは単純な形だけど、あの日の空気感というか、まだ名残がそこにあるように感じられて、わたしは何度もそれを描いていた。
先輩との一件を神楽さんに打ち明けることができて、思った以上に心が軽くなっている自分に、わたしは気が付いていたのだ。
そして、
『未来への入口は、今日なんだから』
その言葉が、やけに耳に残っていたのだった。
だからというわけではないけれど、「再就職なんか急がなくていいから店番手伝って」と言ってくれる母に甘えて、わたしは店番しながらスケッチを増やしていく毎日を過ごしていた。
そろそろ奈良に底冷えの気配が訪れそうな頃、わたしが店の丸椅子に座りながらなんとなくスケッチしていると、海外からの観光客がお土産品のぬいぐるみを手に持って英語で話しかけてきた。
それは鹿のマスコット人形で、その癒し系で可愛らしい顔が特に海外の人に人気な商品だ。
これはアニメーションのキャラクターかと問われたので、アニメーションではないと答え、続けて奈良の鹿について簡単に説明すると、いたく気に入った様子だった。
なんでも、”神の使い” をこういうキャラクターにすることが興味深かったらしい。
すぐに購入を決めたので、わたしは店に出てない綺麗な状態の在庫品と交換して渡した。
持ってきたぬいぐるみは、長い間棚に置かれて、部分的に色が褪せていたのだ。
彼らの上機嫌な後ろ姿を見送ってから、わたしは交換したぬいぐるみを商品棚に戻そうとしたのだけれど、
体をひねった拍子に、レジ台に軽く乗せていたスケッチ帳がバサリと落ちてしまう。
そしてそれを拾おうとしたはずみで、持っていたぬいぐるみまで落としてしまった……
「あー……、もう!」
落としたぬいぐるみが平台の下に転がっていってしまい、つい、苛立ちが口からこぼれていた。
わたしはまずスケッチ帳を拾ってから、店にお客がいないことを確認し、しゃがんで棚の下をのぞいたのだった。
けれど――――――
――――――ぬいぐるみは、跡形もなく、消えていたのだ。
「………え?」
なんで?なんでないの?
今、たった今ここに落としたはずのぬいぐるみが、どうしてないの?
膝をついて平台の下に頭を突っ込んだまま、わたしは固まってしまう。
だって、この下に落ちたのは間違いないんだもの。
絶対に。
それがどうして………
あんな大きなもの、見つからないはずもないのに。
なのに、まるで神隠しにでもあったように、姿形もなかったのだ。
ゾクリと、正体の知れない寒気が背筋を走り抜ける――――――
あるはずものがない。
それも、コインやボタンのようにどこかに紛れてしまうような小さなものではないのに……
そんな、まさかと混乱する頭だったけど、体を起こしてみたとき、
「あれ……」
ふと見た先に、何か折られた紙片があることに気が付いた。
ぬいぐるみが落ちたのとは反対側だ。
わたしは、恐る恐る、それに手をのばしてみる。
手のひらに収まる程度の、長細い紙を三つ折りにしてあるそれは―――――
千円札だった。
「……お札?」
今朝店をあけるときには、確かにここには何もなかったはず。
もしかしたら、お客さんが落としていったのだろうか。
……でも、なんだかこの千円札、まるで今さっきまで誰かに握られていたみたいに、ちょっとぬくもりが残ってない?
いや、そんなわけない。
だって今日はまだ4組ほどしかお客さんは来られてないし、その中でこの辺りでバッグや財布を開けていた人はいなかったと思う。
わたしは不審に感じながら、その三つ折りを解いて広げてみた。
すると、ささやかな違和感を覚えた。
すぐには分からなかったけど、膝をついたままそれを見つめると、違和感の理由に気が付いた。
「これ、旧札よね…?」
色合いや雰囲気が似てるから咄嗟には気が付かなかったけれど、描かれている人物で見分けがつく。
これは、もうだいぶ前に変わったはずの、旧千円札だった。
今はほとんど見かけることもなくなったと思ってたけど……
思いもよらない拾得物に、わたしはしばらく釘付けになっていた。
けれど、
「すみません、お会計いいですか?」
突然そう声をかけられて、慌てて立ち上がった。
「あ、はい。すみません」
拾った千円札はポケットに隠すように突っ込んで、レジ台に戻る。
いまだに旧札なんて出回ってるんだ……
そう思う傍らでは、なんだか、妙な胸騒ぎも感じはじめたけれど。
だって、今落としたはずのぬいぐるみが消えて、
この旧千円札が現れた―――――――
落ち着かない気持ちを抱いて、わたしは店番に戻らなければならなかった。
その後、観光客がどんどん増えていって、わたしは忙しさに追われる中、千円札のことはすっかり忘れてしまっていた。
そして夜になり、神楽さんからの電話を自分の部屋で受けていた。
《…それで、来週の土曜日なんだけど、大阪で大学のときの友達の結婚パーティーがあるんだ。パーティーっていっても、仲いい同期ばかりで食事する、みたいな簡単なものなんだけど。日帰りの予定だからあんまり時間はないんだけど、もし芦原さんの都合がよければ、会えないかな》
「え、来週、ですか……?」
本棚に置いてある小さなカレンダーに目をやる。
来週の土曜日……25日だ。
《うん、突然すぎて申し訳ないんだけど、どうですか?》
神楽さんはちょっと不安そうに尋ねてくるけど、今みたいな、時折敬語まじりのタメ口は、わたしの耳にはとても好感触だった。
距離が、少しずつ縮まっている気になれたから。
わたしはカレンダーを取り、テーブルに乗せてペンで25日を丸く囲みながら、
「大丈夫ですよ。求職中の身ですから、時間は余るほどあります」
軽く答えた。
でもその裏では、また神楽さんに会えるんだと、気持ちがざわつきだしていた。
だって、東京で会ったとき、この人とはもうこれっきり会うこともないんだと思っていたから。
……そう思ったから、誰にも話せずにいた先輩のことも打ち明けられたのだ。
だから、まさかその神楽さんと今度は大阪で会うことになるなんてと、ちょっと先の約束に心が走りそうになるのだった。
《よかった。実はそのパーティー自体も先週急に決まったんだよね。それで色々段取りしてたらこんな時期になってしまって…芦原さんも急に言われて困るよなって、半分くらいは諦めてました》
「いえいえ、店番とスケッチくらいしかすることありませんから」
わたしが世間話のテンションで答えると、
《スケッチ?あ、じゃあ、来週会うときに芦原さんの絵を見せてほしいな》
神楽さんは声を跳ねさせてそう訊いてきた。
「え…」
《だめですか?》
「ええと、それは……。ほとんど落書きレベルのものばかりで、まだ、お見せできるようなものは……」
《前に描かれたものでも構いませんよ?》
なかなか粘ってくる神楽さん。
わたしは最近のスケッチの中に神楽さんの車があったことを思い出して、ひとり勝手に恥ずかしくなってくる。
《だめ?》
「それは……」
答えに澱んでいるわたしに、電話の向こうで神楽さんがクスッ、と息を踊らせた。
《すみません、困らせちゃいましたね》
「……いえ。でも本当に、まだ自信を持ってお見せできるものは描けてなくて」
《”まだ” ということは、いつかは見せてくれるって期待してていいんですよね?》
「え?」
《じゃあ、芦原さんが納得できるものができたら、見せてくださいね》
「それは……わかりました」
そこまで言われて、NOとは返せなかった。
わたしの了承を聞いて満足したのか、神楽さんは嬉しそうに会話を繋ぐ。
《ところで、大阪もずいぶん変わってるんですよね?学生時代は大阪にもしょっちゅう行ってたんですけど、卒業してからは一度も行ってなくて。大阪駅ビルが新しくなったとか、駅周辺に新しい商業施設ができたって、こっちのニュースでもやってたんで、行ってみたかったんですよね》
芦原さん、案内してくださいよ。
遠足を楽しみにしてる子供のような神楽さんに、わたしはちょっと申し訳なさを感じながら「あの…」と細く言い出した。
「駅ビルは知ってますけど、新しい商業ビルとかができたのは、わたしが東京にいるときだったので、あんまり分からないんです。…すみません」
数年前に駅ビルがオープンしたときはまだ高校生だったけど、その何年か後に駅直結の商業施設ができたのは、わたしの大学時代のことだ。
神楽さんは《あ、そっか》と笑いながら納得したようだった。
《そうだよね、芦原さんはまだ23、4くらいだから、だったら知らなくて当たり前だよね。……あ、じゃあ、来週、一緒に大阪駅周辺を探検しませんか?》
朗らかに誘ってくる神楽さん。
”探検” なんて、可愛らしい言い回しだなと思い、思わずフフッと息をこぼしてしまった。
「そうですね、変わった街を、一緒に ”探検” しましょうか」
子供相手の仕事をしている人らしい言葉選びが、ほんわかとしていて、和ませてくれる。
でもわたしは、”変わった” という単語で、今日拾った旧千円札を思い出したのだった。
「そういえば…”変わった” で思い出したんですけど、今日、店で昔の千円札を拾ったんですよ。最近見かけなかったので、てっきりもう出回ってないと思ってましたけど、まだ使ってる人がいるんですね」
ただなんとなく口にした話題に、神楽さんは《昔の千円札か…》と、ちょっと興味を持ったように考えこんだ。
けれど、すぐ、
《……いや、俺の周りでは見てないよ。やっぱり珍しいんじゃないかな》
そう答えた。
「そうですか……そうですよね」
わたしも神楽さんに同意する。
いつも注意して見ているわけではないけれど、旧札が混ざっていれば違和感はあるだろうし、それを感じないということは、やっぱり身近では出回っていないということだと思うから。
……じゃあ、あれは珍しい落とし物だったのよね。
わたしはそう納得し、そして旧札の話題はそのまま終息した。
その後は、新しくなった大阪駅界隈の件に戻っていったのだった。
そんな、脱線にもならないような、とるにたらない短い会話だった。
今日店でお金を落とした人が、たまたま旧千円札を持っていた――――――
そう結論付けるのに時間なんて必要なかったし、それ以外考えようもなかったのだから。
なのに、神楽さんとの電話を切ったあと、飲み物を取りに1階に降りたわたしの耳に届いた母の一声が、
そんなとるにたらない出来事を、
大きな疑問に変えてしまうのだった―――――
「あら?なんでこんなところに人形なんて落ちてるの?」