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はじめてのドライブ






「ここで待ってて」


神楽さんにそう言われて待っていると、間もなくして、一台の黒い車がこちらに向かってきた。


わたしでも知っている有名な外国車だ。

セダンタイプではなくて、なんていうのかは分からないけれど、ちょっと大きめで、アウトドアにも街乗りにも適しているような、おしゃれな車種・・とでも言えばいいのだろうか。


その運転席に、神楽さんが乗っていた。

外国車だから左ハンドルかと思いきや、神楽さんの車は右ハンドルだった。


助手席の窓が下がり、


「乗って」


シートベルトをした神楽さんが体をひねってわたしを見上げた。


わたしはピカピカの高級車に気後れを覚えつつ、恐々とドアを開き、「お邪魔します……」ぽつりと言ってからシートにおさまった。


車内は、まるで納車したばかりの新車のようにきれいで、サンダルウッドに似た香りがほのかに漂っていた。


待ち合わせ場所ではじめて見かけたときに感じたおしゃれな印象は、ここでも健在だ。



車のことはよく知らないけど、素人目でも、内装が高級な感じがする。


……私立学校の教師って、そんなにお給料いいの?


率直な疑問を抱いていると、車はなめらかに走り出した。

ステアリングを軽く回しながら、神楽さんが話しかけてくる。


「強引に誘ったみたいで、すみません」


小さく謝った神楽さん。


わたしは反射的に首を横に振っていた。



「いえ、わたしの方こそ、あんな場面をお見せしてしまって……」


先輩の前から連れ出してくれたのは、神楽さんだ。


あのままあそこにいたら、わたしはどこまでも過去の傷みから抜け出せなかったはずで。


……もしかしたらこのドライブも、気分転換のつもりで誘ってくれたのかもしれない。


可愛らしい顔立ちをしていて若く見えるけれど、やっぱり教師という仕事柄、人を観察する力があるのだろうか。

……いや、わたしのあの態度では誰にでもまるわかりだったかな。


でも、あれは大人げなかったかも……そんな悔いが生じてきたと同時に、


「大丈夫ですか?」


運転席から、静かに、そう訊かれた。


控えめな問いかけは、神楽さんの優しい雰囲気そのものだった。


「……大丈夫です。すみません、ご心配おかけして」


ニコッと、笑い顔をこしらえて答えた。


けれどその答えに満足しなかったのか、神楽さんは信号で停車すると、わたしの方を見つめてきた。


「本当に?」


眉が、心配そうに形を変えた。


その大きな目で捉えられて、わたしのぎこちない作り笑いは綻びが出はじめる。


「…大丈夫です」


さっきと同じように返したつもりだったけど、そう言った後、わたしは神楽さんから目を逸らしてしまった。


「本当に大丈夫なんです」


目を合わせないまま、もう一度告げた。


視線を移した先には、車道の左右を街路樹が囲んでいる風景が続いていて、もう少ししたらここもイルミネーションで飾られる季節になるのだろう。


もう、わたしがその風物詩を味わうことはないのだろうけど……


そんなことを思って、またちょっと、苦くなった。



去年、あのカフェを飛び出して、この通りのイルミネーションを心が張り裂けそうな思いで眺めたのだ。


見上げた先、涙で輪郭が曖昧に溶けた光の粒達を、いまだに覚えている。


あの涙が悲し涙だったのか、悔し涙だったのか、今となっては分からない。


でも―――――――――



「全然大丈夫そうな顔じゃないんだけど」



隣からダイレクトに届いた声に、ハッとした。


車はまた走りはじめていたけれど、神楽さんは運転しながら助手席に視線を流してくる。


けれどわたしは何も答えられず、そしてそんなわたしに、神楽さんはクスッと笑って、また正面を向いた。


「お節介は承知です。普通は、今日会ったばかりの人間にそう易々と自分の話なんかできませんよね。でも……」


車は静かに曲がり、首都高に入っていった。


「俺、車の運転が好きなんですよね。だからドライブに付き合ってもらいたいんですけど、その間、話してもいいかなと思ったら、話してくださいね。でも………はやく話してくれないと、もしかしたらいつまでもドライブが終わらないかもしれませんけど」


いたずらっぽく笑いながら言ってきた神楽さんは、カーナビを操作して、小さなボリュームで流れていた音楽をオフにした。


その発言も、行為も、紳士的ではあったけれど、こうと決めたら譲らないような、頑固そうな気配も感じた。


もちろん、そんな強引な誘い、無視しようと思えばそれで済むことだ。

神楽さんだって、冗談でああ言っただけで、時間がくればドライブを終えてわたしを駅まで送り届けてくれるのだろう。


でも、わたしは、さっき先輩と会ってしまったことでよみがえってきた痛みがヒリヒリしていて、このまま、何もなかったかのように振る舞うのは、ちょっとしんどいなと思いはじめていた。


しかも、車なんてほとんど密室で。

高速に乗ったのだから、あと数十分、下手したら一時間ほどわたしと神楽さん二人きりの空間で、思い出したばかりの痛みを無視して穏やかでいなければならないなんて……



……べつに隠すほどのことでもないか。

神楽さんとも、この後もう会うこともないんだろうし………



神楽さんと会うのはこれっきりだと思ったわたしは、今まで誰にも話せなかったことを打ち明けても害はないだろうと、わりと短い時間で気持ちが切り替わったのだった。





運転席の神楽さんは、まるでわたしの気持ちがそうなるのを待っていたかのように、


「時間はあるから大丈夫。新幹線の最終に間に合わなかったら、このまま奈良までドライブすればいいだけだから。ゆっくり話してくれたらいいよ」


やっぱり紳士的に、優しくそう言ってくれた。


けれど話し方が砕けたものに変わっていて、その分、なんだか距離が縮まったような気がした。


「…そんなこと言って、明日も朝から研修があるって言ってませんでした?」


わたしが軽く言い返すと、


「その時はその時で考えるよ。俺にとって今の最重要で最優先なのは、きみのことだから」


神楽さんも笑いながら返してくる。


「これ、うちのクラスの子にもよく使ってるセリフなんだけどね」


そう付け足した神楽さんに、わたしは「小学生と同じ扱いですか?」とクスクス笑った。



笑いながらぼんやり眺めた窓の外の景色は、ビルの先っぽしか見えてなくて、それだけでは今どこを走っているのか分からないわたしは、もしかしたらまだ、この街にそこまで深くは染まっていなかったのかもしれない。


なぜだかそう思うと、ちょっとホッとした。





「……さっきの人は、前の職場の先輩なんです」




スムーズに車を走らせる神楽さんの方は見ずに、わたしは話はじめていた。



「わたしは絵を描くのが大好きな子供で、何度も表彰されたり、学校代表に選ばれたりしていました。物心ついた頃から当たり前のように褒められていたので、調子に乗って、自分でも才能あるんじゃないかな、なんて思ってました。そんな流れで、自然と、東京の美術系の大学に進学を決めました。関西にも芸術系の大学はあったんですけど、東京の方が色々と勉強できそうだったので……。高校時代は美術予備校にも通いましたが、入試は問題なくパスできました」


そう、大学入試は驚くほど簡単にパスできたのだ。

何年も予備校に通いながら浪人する人だっていると聞いていたけど、わたしは幸運にもそこで躓くことはなかった。


でも、それが後にわたしを苦しめたのかもしれない……


「美術系の学校にはファイン系とデサイン系というのがあって……ご存知ですか?」


「なんとなく聞いた覚えはあるけど、詳しくは知らないかな」


「デサインは言葉通り、デサインを学びます。グラフィック、プロダクト、建築デザイン…実用性のある美術とよく呼ばれてます。そしてファイン系というのは純粋美術、創作を学ぶので、画家、彫刻家みたいに、商業的でない職業を目指す人間が多いんです」


わたしの説明に神楽さんは「ああ、なるほど」と納得していた。


「わたしはファイン系に進学したんですが、わたしが入った大学は全国から学生が集まるようなところで、当たり前ですが、みんなが才能を持っていました。それだけでなく、誰にも負けない、そんな自信を持っている人ばかりで、そんな人に囲まれているうちに、わたしは自分の才能に限界を感じはじめたんです。昔から ”凄い凄い” と褒められていた絵も、大学ではみんなが普通に凄かった。……だからわたしは、保険で教員免許を取ったり、ファイン系では就活に不利だと聞いてデサイン系の講義も受けてみたり、手探りで自分の進路を探していました」



あの頃は、絵を描く仕事をしたいという想いと、現実の厳しさとの間で毎日息苦しかった。



わたしは当時の息苦しさがよみがえってくるようで、フルフルと小さく頭を振った。




「それで、あるデザイン事務所にインターンで受け入れてもらったんです。商品やアーティストのポスターやグッズをデザインする会社で、業界では中堅の事務所でした。本当は、自分の絵を描いてそれを仕事にしたかったんですけど、大きなコンクールで実績があるわけでもないわたしには難しい道でしたから、失礼な言い方ですけど、妥協して、そのデザイン事務所をノックしたんです」


「そうなんだ」


静かに、神楽さんはわたしの話を聞いてくれている。


わたしは膝の上に置いたバッグを抱きしめるように持ち直して、密かに自分を励ました。


「そのデザイン事務所にいたのが、さっきの先輩です。先輩は、インターンのわたしにも親切に指導してくださいました。進路に悩んでたわたしの相談にも乗ってくれて、わたしの絵を褒めてくれて、自信をつけてくださいました。インターンが終わる頃、先輩がうちの事務所に来ないかと言ってくださって、上にも掛け合ってくださって、結果、わたしは就職活動することなく仕事が決まったんです」


「いい人だったんだ」


「そうですね。優しくて、かっこよくて、憧れの人でもありました。……わたしも、いい人だと、思ってたんです…………先輩がわたしの絵を盗むまでは」



その瞬間、おかしなブレーキがかかり、車が揺れる。


「盗む……?」



ブレーキの直後、車はもとのスマートな運転に戻ったけれど、怪訝な神楽さんの声が、やけに大きく聞こえた。



「ええ。盗まれたんです。わたしの絵が」


言葉では過去形にできても、気持ちはまだ過去形にできていなくて、

わたしは胸の傷痕を見ないフリすることで、心の均等を保とうとしていた。


「……去年の、クリスマス前の頃です。その日から先輩は出張で大阪に行っていて、帰りは二日後だと聞いていました。仕事が終わり、わたしは東京駅にいました。そうしたら、まるで映画みたいな偶然なんですけど、人混みの中、向こうから先輩が歩いてくるのを見かけたんです。予定が変更になって大阪から帰ってきたのかと、わたしは先輩に駆け寄ろうとしました。でも……先輩は、ひとりではなかったんです。女の人と、一緒にいました」


あのときの光景が、今も目の前に広がるようだった。


ここにはいないはずの先輩が、知らない人と一緒にいて……



「わたしがどうしたらいいのか分からずにいると、先輩は女の人と一緒に駅のカフェに入っていきました。どうしても気になったわたしは、思いきって先輩のあとをつけてカフェに入りました。『偶然ですね』そう声をかけるつもりで先輩の席に近付いたんです。そうしたら……」



今でも鮮明に覚えている。

先輩が、知らない女の人と向かい合って座っていて、その間のテーブルの上には……


「先輩のテーブルの上には、何枚もの絵があったんです」


「それは…」


神楽さんの言葉が、反応に困っているようだった。



わたしはゆっくり頷いた。


「……わたしの絵でした。全部」



神楽さんは今度はなにも発しなかったけれど、まるで聞こえないため息を吐いたような空気が運転席から伝わってきていた。



わたしはちょっと長めの瞬きをしてから話をはじめた。




「インターン時代に先輩に見せたものが、ほとんどでした。クロッキー帳…スケッチノートを何冊か見てもらっていたんですが、知らない間にデータとして保存されていたみたいで、それらをプリントアウトしたものが、何枚もありました。それを見つけたわたしは、いったい何が起こっているのか、すぐに理解することはできませんでした。でも、先輩も女の人もわたしには気が付いてなくて、二人の会話がはっきり聞こえてきたんです。『じゃ、これ全部預からせてもらって、上と相談してみるわ』とか、『そっちの退職日が決まったらすぐに連絡してね』そんな感じで、どう聞いても、引き抜きや転職のことを話し合ってる内容にしか聞こえませんでした」


わたしがそこまで説明すると、その先を読めたように、神楽さんが声色を落として呟いた。


「まさかそれじゃあ、芦原さんの絵で……?」


わたしは運転席に顔を向けて、諦めの笑みを見せた。


「『それ、わたしの絵ですよね』確か、そう声をかけたと思います。でもその後のことはあまり覚えてなくて、次に記憶にあるのは、イルミネーションで綺麗な街路樹の前で、先輩に腕を掴まれたことでした。先輩は申し訳なさそうに、前から引き抜きの話を持ちかけられていたことを打ち明けてきました。一緒にいた女の人は、昔の仕事相手だそうで、その人の事務所は、新しいけれどコンペで次々に勝ってて、業界でもちょっと有名になりつつある注目の事務所でした。だから、先輩がそちらに移りたいと思う気持ちは理解できたんです。でも、相手の上層部が、これといった個性も実績もない先輩の受け入れに難色を示したそうで、それで先輩は、わたしの絵に目をつけたんだそうです」



クリスマス目前のきらきらした街中で、悲壮感いっぱいのわたしは、周りから見たら場違いに映っただろう。

それとも、みんなが浮かれている季節にそぐわず、滑稽に見えただろうか。



とにかくわたしは、自分の足で立って、先輩と対峙しているだけで、すべてのエネルギーを消費してしまうほどだったのだ。




「わたしの絵は相手の事務所の上の人達に気に入られたらしくて、しばらくして、先輩が事務所を辞めるという噂が流れました。わたしは先輩と顔をあわせないようにしていたんですけど、事務所の中でその噂が大きくなってくると、わたしはどんどん気持ちのコントロールできなくなっていきました。だって、先輩がわたしの絵を使って転職活動してたなんて誰にも話せなかったし、だから誰にも相談できなくて、それで……」




『…辞める?きみは確か、インターンからの推薦採用だっただろう?1年ももたずに辞めるなんて、推薦者にも迷惑がかかるんだよ?せめて夏までは続けられないかね』


退職の相談をした上司に、冷たい目でそう言われたとき、わたしは全身から体温を吸いとられたような感覚がした。


……もしかしたら先輩は、わたしがインターンをしているときから、こうするつもりでいたのだろうか。


だとしたら、今の事務所に誘ってくれたのも、わたしのことを買ってくれたわけではなくて……




「先輩は、自分のためにいつか利用するつもりで、それでわたしを事務所に誘ってくれたのだと思います。先輩はデザイン系の専門学校出身で、ファイン系のわたしの作品に、自分にないものを感じたって言ってましたから」


首都高はスムーズに流れていて、神楽さんは運転を休む瞬間すらなかったけれど、意識はわたしの方に重きを置いてくれているようだった。


いちいち相槌を返すことはなくても、その気配だけで、わたしはなんとなく気持ちを整えられるような気がした。


「……結局、わたしは先輩とちゃんと話をすることなく、夏に退職願を出しました。本当はすぐにでも辞めてしまいたかったんですけど、…いろいろ調整があったので。それで、わたしの退職が公になった日、先輩はわたしと話がしたいと言ってきました」




『……辞める?辞めるなんて、お前が辞める必要なんてないだろ?!』



あのときの、先輩の狼狽える姿が、今も胸に痛い。




「先輩は、確かにわたしを利用したけど、事務所に誘ったのはその為じゃない、わたしの実力だと言いましたが……もう、わたしは何も信じられなくなっていました。わたしが辞めた後、先輩も事務所を辞めたそうですが、その後のことは聞いてません」


「ああ、それで、さっき ”辞退した” と」


カフェでの先輩を思い出したのか、神楽さんが、理解した、というように呟いた。


「……本当のところは分かりません。もう、確かめる術もありませんし。でも、先輩のことを思い出すのも嫌だったわたしは、考えないようにしていました。”憧れていた人に裏切られた” という事実は、わたしに、人を信じられなくさせたんです」


進路に迷っていたとき、インターンで知り合った先輩が優しい言葉をくれるたび、自信を持たせてくれるたび、

靄かかっていた道が明るく晴れていくように見えた。


――――――――けれど、先輩の裏切りは、一気に暗いトンネルに突き落とし、出口を塞いだのだ。



わたしが口を閉じると、少しの間、沈黙が流れた。


いったいどこを走ってるのか見当つかないけれど、神楽さんも特に目当てをつけて運転しているようには見えなかった。


けれど、首都高のおかげで久しぶりの東京の街をダイレクトに見ずに済んで、わたしにはよかったのかもしれない。


前の車がブレーキを踏んだので神楽さんも軽く速度を落とし、それがきっかけのように、神楽さんは静かに話しはじめた。


「大変だったんですね」


それは、同情しているとかそんな感じではなく、ただの感想のように聞こえた。


そんなフラットな印象に居心地の良さを見つけたのか、わたしは気安く受け答えができたのだった。



「……そうですね。社会人一年目ではなかなかできない貴重な経験をさせてもらったとは思います。…残念ながら、まだ立ち直れてはいませんけど。奈良の実家に帰ったのも、なんだか東京から逃げ出したみたいで……」


すると、神楽さんは「そうですか…」と短く相槌を打ってから、


「だけど、芦原さんが奈良に戻っていなかったら、俺はこうして芦原さんに会うこともなかった」


ぽつりと、言ったのだ。


「え…?あ、まあ、それは、そうですけど……」


深読みしようと思えばいくらでも深読みできそうなセリフに、思わず動揺してしまう。


神楽さんはそんな思わせぶりなことを言うタイプに見えなかったから、余計にびっくりしたのかもしれない。


けれど、神楽さんはそんなわたしの反応を気にすることなく、少し混んできた車線を避けるように左に車線を移した。


そして、


「デザインの仕事は、辞めてしまうんですか?」


それまでの平坦な温度とは違い、幾分か、残念そうに訊いてきた。


「……分かりません。こんなこと言ったらいけないんでしょうけど、前の事務所も、もともと入りたくて入ったわけじゃなくて、先輩に誘われたから何となく入った感じですし……。でも、絵で食べていくなんて無茶な話ですから、もっと他の道も考えていかなくちゃいけないんですよね……」


リアルに押し寄せる問題が、道の幅を狭めていく。

もう学生じゃないんだから、夢や理想を追ってばかりはいられないのだ。


神楽さんは車線変更してすぐに高速の出口に向かった。


わたしはドライブの終了を悟ったけれど、神楽さんは高速を降りてすぐの角にあったコンビニの駐車場に車を停めたのだった。



「さっきのカフェであまり飲んでなかったので、喉がかわいてしまって。芦原さんは何か飲みませんか?俺、買ってきますよ」


シートベルトを外しながら訊いてきた神楽さん。


わたしも慌てて外に出ようとしたけど、優しく制されてしまう。


「さっきは俺が芦原さんを無理やり引っ張って店を出てしまいましたから、ここは俺が買ってきますよ。ご馳走させてください」


「じゃあ…カフェオレか、ミルクティーを」


「ミルク系ですね」


神楽さんはフフッと破顔して、車を降りていった。






そんなに間をおかずに、神楽さんはカフェオレとミルクティーを持って戻ってきた。


「どちらか1つでよかったのに…」


「俺は芦原さんが選ばなかった方をもらいますから」


そう言ってわたしに2本を差し出す神楽さんは、なぜかとても楽しそうだ。



「じゃあ、ミルクティーを…」


わたしは右側のペットボトルを受け取った。


「ありがとうございます。いただきます」


一口飲んで隣を見ると、神楽さんはカフェオレを開けないまま、両手で弄んでいた。


まだ車を走らせる気配はないみたいで、ちょっと考えるように視線を投げたと思ったら、

「昔ね…」と話し出した。



「ずいぶん昔なんですけど、俺が進路で悩んでたとき、ある人からの言葉に背中を押してもらったことがあるんです」


右に、左にと、ぽんぽんと手の中で軽く投げていたカフェオレを、神楽さんはピタリととめて、足の上に乗せた。




「――――――大丈夫。どんな道を選んでも、そこに未来があるんだから。未来への入口は、今日なんだから――――――――――」




未来への入口は、今日なんだから………




「ま、その言葉をもらったときは、『そんなの誰にでも言える綺麗ごとだよな』て思ってたんですけどね。でも実際に岐路に立ったとき、その言葉が一歩を踏み出す支えになったんです。今日から、未来がはじまるんだ、ってね」


神楽さんは懐かしむような、思い出し笑いのような、穏やかな顔色を浮かべて、わたしの目を見てくる。


「だから、もし、芦原さんが絵の勉強を続けたとしても、逆にまったく別の仕事を選んだとしても、そこに、必ず芦原さんの未来があるんです。どっちを選んでも正解。今日は、その未来の入口かもしれない。今日、あの先輩と出会ったことが、未来へのきっかけになるかもしれない。俺にいろいろ話してくれたことが、未来に通じているのかもしれない。きっと、全部が、未来への入口になりうるんだと思います。今の芦原さんみたいに、途中で躓いたり立ち止まったとしても、そこにまた未来への入口があるのかもしれない。人それぞれ事情もあるし、臆する気持ちも分かるけど、未来をつくるのは、今日の自分ですから。

でも………」


神楽さんは一旦言葉を切り、わたしと目を合わせた。

そして


「でも俺は、またいつか、芦原さんの描いた絵を見てみたいなと思いますけどね」


言い終わると、ニコッと、それは優しく、優しく笑った。

触れてしまえば、わたしごと全部をあたためてくれそうな優しい笑顔に、ドキリとしてしまう。



そんな純粋にわたしの描いた絵を見たいなんて、久しぶりに言われたセリフだった。

学生時代は周りはライバルばかりだったし、事務所に勤めだしてからは、それは単に仕事のツールだったから。



「………そうですね、いつか、機会があれば……」



そんな機会、あるはずはないのだろうけど。

だけど、純粋に向けられた言葉に無粋な返しは避けたかった。


すると神楽さんは、


「楽しみにしてますね」


本当に楽しみな風にそう言って、ゆるやかに車を発進させたのだった。



楽しみにしてますね……



社交辞令でも、嬉しかった。



胸の奥がほんのりと癒されるような感覚に、わたしは、今日神楽さんに会えてよかったなと思っていた。


会いたくなかった人には会ってしまったけれど、それよりも、神楽さんに会えてよかった……



高速と違い、東京の街が否応なしに飛び込んでくる視界から逃げた先には、神楽さんが握るステアリング。

その中に車のエンブレムを見つけて、わたしは、さっき待ち合わせした場所にあったモニュメントと似てるな……なんて、そんな、どうでもいいことを考えていた。











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