はじめまして、こんにちは、ひさしぶり
神楽さんとの待ち合わせ場所は、丸の内南口にあるモニュメントの前だった。
待ち合わせ時刻にちょうど合う新幹線が予約できなかったので、わたしは40分も前に着いていた。
10月も後半に入って気温が下がってきたので、40分も外で待ってるのはどうかと思ったけれど、前の職場がここから近いので、へたにウロウロして思わぬ人に出会うのは絶対に避けたい。
わたしは神楽さんが来るまで、モニュメントが見える円柱の陰で立って待つことにした。
ここなら、知り合いが通りかかってもすぐに気付いて移動できるだろう。
どうせ、あの頃とは髪型も変わってるし、服装も通勤時には着ていなかったマキシスカートにデニムジャケットというカジュアルなものだから、例え知り合いが通りかかっても、わたしと気付かないかもしれないけれど。
そう自分を勇気づけたものの、そのすぐ後に、もうあの頃の自分はいないんだな……と、心の深いところで再認識して、少し、ヒリリとした。
大学時代から数えて、もう何度このモニュメントの前で待ち合わせしたか知れない。
待ち合わせの相手はさまざまだったけど、その時のわたしは、東京に住んでて、この街に生活を置いていた。
なのに今日は、はじめて、アウェーとしてここで待ち合わせをしているのだ……
柱にもたれかかり、デニムジャケットのポケットに手を突っ込んだり出したり、ソワソワしていた。
誰か顔見知りに会わないだろうか、という心配と、はじめて会う神楽さんに緊張しているのと、とにかく、ドキドキが高まっていった。
どれくらい経った頃だろうか、ひとりの男の人が、すーっと、横長のモニュメントの中央付近で立ち止まった。
時刻は2時の10分前。
この人が、神楽さん……?
その男の人は、細身のリジッドデニムパンツに黒のジャケット姿で、教師というよりは、アパレル店員か美容師のようなおしゃれな雰囲気だった。
他にそれらしい人物も見当たらなかったので、わたしは確認のために神楽さんに電話をかけてみることにした。
すると、わたしが発信してすぐに、モニュメントの前の男性がジャケットのポケットからスマホを取り出したのだ。
そして、
《もしもし?芦原さん?》
目の前で、電話に出たのだった。
「もしもし。あの、わたし、実はもう着いてて……」
言うやいなや、神楽さんはふっとこちらを見た。
《ああ!もしかして今目の前にいらっしゃいます?》
「あ、はい、そうです……」
わたしが頷くと、神楽さんは大きな笑顔を見せながら、こちらに歩いてくる。
通話は切られてしまったけど、かわりに、今度は何も隔たりのない声で、名前を呼ばれた。
「芦原美里さん、ですよね?」
わたしの前で立ち止まった神楽さんは、男の人なのに、とてもかわいらしい顔をしていた。
背は高い方だけど、間近で見た印象は、まるでどこかのアイドルグループにいそうな感じだった。
「はじめまして。神楽さんでいらっしゃいますよね」
「こんにちは。神楽です。お待たせしてしまってすみません」
「いえ、わたしの新幹線の都合ですから……」
ちょっと大きめに手を振って否定したわたしに、神楽さんはクスリと笑った。
「でも、今日は急に気温が下がったから……。あ、早くどこか暖かいところに入りましょうか」
ね?そうしましょう?と、柔らかく誘われて、わたしは素直に頷いたのだった。
神楽さんが案内してくれたのは、駅構内のカフェだった。
そこは、わたしが働いていたときによく通っていた店で、
………最後に、あの人と会った場所でもあった。
見知った店内に気持ちが騒ぎだすけれど、あのモニュメントのところで待ち合わせしたらここに来るのは自然の流れかな…と、半ば諦めに近い納得はあった。
神楽さんはアイスコーヒー、わたしはホットミルクをオーダーした。
すると正面に座る神楽さんが意外そうな顔をしたので、わたしは「どうかしましたか?」と尋ねた。
「いえ、ホットミルクって、珍しいなと思って」
「そうですか?ここのホットミルク、美味しいんですよ。特別なミルクを使ってるそうで、わたしの周りでも結構ファンがいて…」
機嫌よく答えていたけれど、前の職場の同僚達の顔が浮かんできて、途端にグッ、と言葉に詰まってしまう。
けれど神楽さんは何も気が付かなかったように、「へぇ…」と返してきた。
「何度か来たことあるけど、ホットミルクが美味しいなんて全然知りませんでしたよ。あ、でも、ということは、芦原さんもここによく来てらっしゃったんですね」
とてもにこやかに訊かれて、なんだかその笑顔に、わたしの中にあった小さな黒い渦が溶かされるようだった。
「………ええ、前の職場が近かったもので」
そう言って、わたしはホットミルクに口をつけた。
甘い香りと、まろやかな温もりで、それはわたしの気持ちを慰める。
すると、神楽さんが笑みを濃くして尋ねてきた。
「………奈良は、ご実家ですか?」
「え?ええ、そうです」
「いつ戻られたんですか?」
「最近、です……」
「こちらではどんなお仕事をされてたんですか?」
「………デサイン系の仕事です」
「へえ、すごいですね。僕はそっち系は苦手なんで、図工の授業でもよく児童達に笑われるんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。あ、それじゃ、もしかして大学はこちらの美大に?」
「ええ、まあ……」
立て続けに質問されて少々たじろぐけれど、嫌な感じはしなかった。
神楽さんの優しそうな人柄のせいだろうか。
その柔らかい話し方は、小学校の先生らしいなと思った。
「神楽さんはずっと東京ですか?」
神楽さんの優しい雰囲気にわたしも少し気がゆるまり、質問を返した。
「出身は東京ですけど、大学の四年間だけは京都に行ったんです。だから似非関西弁なら話せますよ」
明るく答えてくれる神楽さん。
たぶん年上だと思うけど、どこか少年っぽい雰囲気もある人だなと思った。
「あの、それで……」
わたしは気を取り直して、男の子の財布をバッグから出した。
「こちらです。確認するために中を見ましたけど、お金には触ってませんから」
わたしが急に話題を変えたように見えたのか、神楽さんはちょっとびっくりした風に目を動かしたけれど、すぐにまた微笑みを見せてくれた。
「わざわざありがとうございました。確かに、受け取りました。それで、この児童の親御さんに報告しましたら、こちらを預かりまして」
神楽さんは、一通の封筒をホットミルクの前に置いた。
「こちらは?」
「親御さんのお気持ちだそうです。本来なら今日も同席したいと仰ってましたが、なにぶん急なことでしたので、ご両親ともに都合がつかなかったんで、僕が預かってきました」
わたしは封筒を手に取り、開いた。
「拝見します」
中には、手紙と、紙幣と、さらに小さな封筒が入っていた。
「お借りした五千円と、今日の足代と、お礼の気持ちだそうです。実は親御さんも財布を落としていたことを知らされてなかったようで、お借りしたお金をお返しするのが遅くなってしまって申し訳ないと仰ってました」
紙幣はすべて新札で揃えられていた。
わたしが男の子に貸した五千円と、往復の新幹線代より少し多い額が入っていて、小さい封筒の中には全国のコンビニなどで使えるカードが入っていた。
手紙はきれいに三つ折りにされていて、縦書きで丁寧に書かれていた。
ご迷惑をおかけしました、本日は伺えなくて申し訳ありません、そんな内容だった。
「なんだか逆に気を遣わせてしまったみたいですね……」
わたしは封筒をもとに戻しながら呟いた。
「でも、財布が見つかったことを知らせたら、本人もご両親もとても喜んでましたよ?財布の中に亡くなったお祖母さまからもらった御守りが入っていたそうですから。お金はともかく、御守りが戻ってくることが嬉しいと言ってました」
あの御守りは、そういうものだったんだ。
「それはよかったです。東京までお持ちした甲斐がありました」
まだ完全にふっきれていない状態で東京に来ることになって、どこか構えていたところはあるけれど、やっぱり、持ってきてあげてよかった。
本気でそう思っていたのに、
次に聞こえてきた声に、全身が冷えついたのだった。
「――――――――芦原?」
わたしの斜め後ろから降ってきたそれは、もう二度と、会うことはないと決めていた人のものだった………
振り返らなくたって、すぐに分かる。
少し前までは、毎日毎日、ずっと顔を合わせていた人だから。
わたしは表情を石のように固めてしまい、今、自分がどう振る舞うべきかが判断できなかった。
「芦原さん……?」
うんともすんとも言わないわたしに、神楽さんが心配して声をかけてくれる。
わたしは微かに神楽さんと視線を重ねて、それからゆっくりと、後ろを向いた。
そこに立っていたのは―――――――――――――
「先輩………」
「……ひさしぶり」
そこに立っていたのは、わたしの前の職場の先輩で、インターンをしていたわたしを引き抜いてくれた人だった。
「髪型が変わってるから、すぐには分からなかったよ」
なるべく普通に接しよう、そんな空気感が伝わってくる口調。
「短いのも似合ってるな」
社交辞令のような誉め言葉も、以前は顔が火照るほど嬉しかったのに………
今は、心臓を凍てつかせる。
わたしは顔を逸らすと、無意識に、肩の上で揺れる髪先を触っていた。
「奈良の実家に戻ったって聞いてたんだけど……」
恐る恐る、といった様子で話し出す先輩に、わたしは身構えた。
「でもここで会えてよかった。少し話せるかな」
そう言って、先輩はわたしの向かいに座っている神楽さんをちらりと見た。
神楽さんは私たちの会話を静かに見守っているけれど、頼まれたら、きっと席を離れるだろう。
けれど、先輩とふたりきりにされたところで、わたしには話すことなんて何一つない。
先輩だって、今さら何の話をするつもりなの?
今さら、何の………
頭の中で疑問と緊張と苛立ちが入り混ぜになった瞬間、わたしは、派手な音をたてて椅子から立ち上がっていた。
「わたしは、何もお話しすることはありません」
微かに、声が震えていた気がした。
わたしの異変に気付いてくれたのか、それまで黙っていた神楽さんもスッと立ち上がった。
そしてわたしの荷物を手に取ると、隣まで来て、わたしの肩を抱き寄せた。
「申し訳ありません。そろそろ出ないと次の予定に間に合わないので」
凛と、先輩に告げる神楽さん。
そのままわたしの腕を引いて、わたしはされるがまま引き寄せられて。
そして、え?とびっくり顔の先輩の脇を通り過ぎ、神楽さんはまっすぐ出口に向かった。
神楽さんが会計を済ます間も先輩は途方に暮れたように私達をみていたけれど、
またわたしの腕を握った神楽さんが、カフェの扉を引いたとき――――――――
「あれ辞退したから!」
先輩の大きな声が、店に響いた。
腕を引かれながらわたしが顔だけを振り向かせると、
「本当にすまなかった」
表情を殺した先輩の眼差しと、ぶつかる。
その刹那、わたしは立ち止まってしまった。
腕を握ったままの神楽さんも足が止まって、ほんの数秒、三人の視線が絡まる。
何も知らない神楽さん、先輩の声に反応したカフェのスタッフやお客、こんなに人目のあるところなんだから、冷静に、大人の対応をしなければならないのは分かっているけれど………
わたしは先輩から逃げるように、頭を下げた。
「失礼します……」
到底先輩にまでは聞こえないような小さな声で、そう言うのが、今のわたしの、精一杯だったのだ…………
カフェを出ても、しばらくは神楽さんに腕を引かれたままだった。
週末の午後、それなりに混雑している東京駅を、”手をつなぐ” のではなく ”腕を引っ張られる” という格好は、ちょっと人目をひいていた。
すれ違う人の視線を感じたわたしは、「あのっ」と、神楽さんの後ろ頭に声をかけた。
でも神楽さんは足を止めずに、顔だけをくるりと回すと、
「まだお時間ありますよね?」
と訊いてきたのだ。
「え?あ、はい、まあ……」
有無を言わせない強さで訊いてきたくせに、わたしがぼやけた返事をすると、神楽さんは「よかった」と微笑んだ。
「じゃあ、ちょっとドライブでもしませんか?」
「え、ドライブ?…て、わっ」
問い返したわたしの腕を、神楽さんはまたぐいっと引っ張る。
「八重洲のパーキングに停めたので、ちょっと歩きますね」
「え……八重洲?」
繰り返し尋ねるも、神楽さんは何も言わずに私を目的地まで連れて行く。
そんなに高いヒールを履いているわけではないけれど、片腕を引かれたまま歩くのは頼りない。
けれど、触れたところから神楽さんの体温が伝わってくるようで、そのぬくもりが、さっきのカフェでの出来事を柔らかく癒やしてくれる気がして、
わたしは、素直に腕を引かれていたのだった………