電話
シャッターを降ろし、スマホで男の子の学校の連絡先を調べ、そのまま電話した。
3コールで途切れると、愛想いい女性の声がした。
わたしはまず自分の名前を告げ、次に男の子の名前と、修学旅行中に財布を落とした件を説明した。
すると担任教諭にかわりますと言われ、クラシックの保留音に切り替わった。
聞いたことはあるけれど、タイトルは知らない曲だ。
けれどしばらくすると、その曲が唐突に、ふっと終わった。
《もしもし、お電話かわりました。担任の神楽 巧と申します。……芦原 美里さん、でよろしかったでしょうか?》
少し緊張したような男の人の声で、名前を呼ばれた。
「はい。奈良で土産物屋を――――」
《ああ、聞いてます。うちの児童の落とした財布を拾ってくださったとか》
「ええ、そうなんです。それで、名前と学校名を教えてもらってたものですから、ご連絡を……」
《それはわざわざありがとうございます。いや、財布を落としていたことも聞いてませんでしたから、少し驚いてはいるんですが……》
担任の戸惑ったような雰囲気に、わたしは、もしかしたら疑われてるのかなと思った。
確かに、本人からなんの報告も受けてなければ、いくら私が親切心で連絡したとしても不審がられるのは仕方ない。
あの男の子が教師に叱られるのが嫌で財布のことを内緒にしていたのかもしれないし、わたしはとにかく当時の状況を説明するしかないなと思った。
「あの、突然のことで驚かれるのは当然かと存じますが、わたし、決して怪しい者ではなくて……」
《ああ、いえ、芦原さんのことを疑ってるわけではないんですよ。誤解を与えてしまったのなら申し訳ありません。ただ、財布を落としていたにもかかわらず、帰りの新幹線に乗車する直前まで土産を買っていたのを見かけていましたので、それが不思議に思えたんです。もしかしたら友達から借りたのかもしれませんが》
丁寧に説明されて、わたしは自分が疑われたわけじゃないと安堵した。
「それは、わたしが貸したお金だと思います。落とした財布にいくらくらい入っていたのかを聞いて、わたしが同じ額を立て替えたんです」
《ああ、そうでしたか。それはありがとうございました。あいつの修学旅行の思い出が嫌なものにならずにすみました》
わたしの話に納得した担任教諭は嬉しそうに礼をくれた。
その様子からは、本当にあの男の子の心情に寄り添おうとしていることが伝わってくる。
きっと、いい教師なのだろう。
わたしは手に持ったままの財布を親指の腹でそっと撫でた。
「あの、それでこのお財布を届けたいのですが、男の子の住所もわかりませんし、個人情報ですから教えていただくことも難しいかと存じますので、学校のほうに送らせていただいてもよろしいですか?確か現金は小包では送れなかったと思いますので、書留で……」
《いえ、私がそちらまで伺います。モノがモノですから直接お会いして受け取りたいと思ってますが、あ…》
わたしの語尾をかすめ取るようにして担任教諭…神楽さんが言った。
けれど、途中で言葉が途切れてしまう。
「……どうかされましたか?」
《いえ、週末にでもそちらに伺おうと思ったんですが、タイミング悪いことに、土日とも午前中に研修がありまして……再来週、再来週はいかがですか?》
なぜだか必死感がある提案に、わたしはちょっと押されてしまう。
もちろん、再来週でもわたしは問題ないけれど、この財布の持ち主である男の子は、もしかしたらずっと待っているかもしれない……そう思ったら、再来週はとても遠くに感じられた。
「でしたら、わたしがそちらにお持ちしましょうか?」
気が付いたときには、そう言っていた。
きっと、神楽さんの圧に感化されたせいだと思う。
わたしの申し出が予想の範疇を越えていたのか、神楽さんはびっくりしたように《え?》と一瞬固まったようだった。
けれどすぐに、
《いえ、そこまでご迷惑をおかけするには……》
と大人の対応を見せた。
あまりこちらが踏み込んでも親切の押し売りになりそうだし、却って気をつかわせてしまうのは分かっていたのだけど、なんとなく、ここはもう少し粘ってみたくなった。
でもそれは、優しさからくるものなんかじゃなくて、
あの男の子にちょっとした申し訳なさを感じていたせいかもしれない。
微かにだけど、財布を落としたというのは間違いなんじゃ…なんて考えが走ったことに、贖罪まではいかなくても、まあ、”ごめんね” の気持ちが芽生えたから。
「大丈夫ですよ。わたし、今求職中で時間なら余るほどありますし、実はつい最近まで東京に住んでたんです。だからそちらの学校も迷わずに伺えますよ」
神楽さんを納得させるためにそう言ったのだが、なぜか神楽さんはある一点に興味が集中したようだった。
《え?東京にいらっしゃったんですか?》
「ええ。大学で上京してそのまま就職したんです」
そんなに驚かないでも…と思ってしまうほど、神楽さんは声の調子があがったのだ。
《ああ、大学からこちらでしたか……でも、それならお言葉に甘えてもよろしいですか?》
「ええ、もちろん。いつがご都合よろしいですか?」
《そうですね…土日どちらも午後1時まで研修なので……2時頃に東京駅ではどうですか?》
「東京駅、ですか……」
無意識のうちに、言葉が沈んでしまいそうになる。
そこは、クリスマスの悪夢の舞台だったからだ。
提案された待ち合わせに躊躇いを見せると、電話の向こうからは心配げな声が届いた。
《…ご都合悪かったですか?奈良からなら新幹線かと思ったんですが、羽田の方がよかったですか?》
「あ、いえ、ええと……」
今から週末のエアーチケットが取れるかどうかは分からない。
その点新幹線なら自由席もあるし、時間的にも2時の待ち合わせだったら問題ない。
この場合、何かと融通が利くのは新幹線の方だ。
わたしは少しの思案のあと、
「2時頃、東京駅で、大丈夫です」
約束を、交わしたのだった。
その後、具体的な待ち合わせ場所を決めて、わたしは新幹線のチケットが取れ次第連絡をするということで、お互いの番号とアドレスを交換した。
《それじゃ、新幹線の時間が分かったら連絡くださいね》
そう言った神楽さんは、わたしが「失礼します…」と告げても、通話を切るまでそのまま待っていた。
無言で繋がっていたその僅かな間が、神楽さんの誠実な人柄を教えてくれるようで、わたしは、はじめて会話した人にもかかわらず、神楽さんに好印象を抱いたのだった。
マンションを引き払って実家に戻ってくるとき、もう東京に来ることもないかもしれないなと、そんな風に思って感傷的にもなったりしたけれど、
まさか、こんなに早くまた東京に行くことになるなんて………
『……辞める?辞めるなんて、お前が辞める必要なんてないだろ?!』
ふいに、あの時の光景に心が引きずり込まれそうになる。
もう、思い出したくもないのに…………
わたしは手の中の財布を見つめ、過去の痛みに蓋をした。
思ってもいなかった展開だけど、この財布を届けるという大義名分を掲げていれば、気持ちは落ち着くことができるだろう。
そして、待ち合わせの相手が神楽さんだったら、なんとなく、大丈夫そうに思えたのだった。
なんとなく、だったけど…………