落とし物たち
小学生の財布紛失事件からしばらく経った日の朝、わたしは店を開ける準備をしていた。
あの日以来、毎日男の子の落とした財布を探しているけれど、一向にそれは見つからなかった。
こんな狭い店を隅から隅まで探しても見つけられないなんて、もしかしたらもう他の誰かに拾われたのかもしれない。
いや、それ以前に財布を落としたのは男の子の間違いなんじゃ……
そんな考えが過りかけたとき、あの男の子の顔を思い出した。
………さすがにそれはないか。
あの子の焦った様子は、嘘を吐いていたとは思えないもの。
わたしは表のシャッターを上げ、何度も探した台の下を、掃除も兼ねてまた覗きこんだ。
「……やっぱりないよね。ここはもう何回も見てるもんね……あれ?」
膝をついて台の下に潜り込むようにして見回していると、奥の隅の方に、昨日まではなかったはずの、黒っぽい、財布くらいの大きさの物があることに気が付いた。
「あんなの、あったっけ?」
それに手を伸ばすも、ぎりぎりのところで届かず、わたしは一旦立ち上がって、黒い物があった辺りの台を動かした。
すると、台の下には財布ではなく、黒い手帳のようなものが落ちていたのだ。
「手帳……?」
わたしはそれを拾いあげた。
書店や文具店でよく見かける、小振りの、黒くてシンプルな手帳だ。
他人の手帳を勝手に覗くのはマナー違反だけど、持ち主を知るためにはやむを得ない。
わたしは、慎重に表紙を捲った。
マンスリーのページにはスケジュールがおおまかに書き込まれていて、その文字には見覚えがあるような、ないような感じがする。
わたしはマンスリーをとばして、デイリーのページを開いた。
そしてそこで手が止まった。
思いがけず、自分の名前が書かれていたからだ。
〔 今年のお盆も美里は帰られないらしい。仕事が忙しいのはいいことだけど、美里の体が心配 〕
……美里って、わたしのこと?
気になったわたしは、他のページもパラパラ捲る。
この手帳の持ち主はデイリーのページを日記帳のように使っているみたいで、
4月には、
〔 今年から美里も社会人二年目 〕
6月、
〔 便りがないのは元気なしるし。美里のことが心配だけど、ここは我慢 〕
など、ところどころにわたしの名前が登場してくるのだ。
もちろん、わたし以外のことを書いてる日だって多くて、その内容から、おそらくこれは母の手帳だと思った。
だけど、確信を得るために日付を進めたり戻したりしているうちに、1月のページで、ギクリとしてしまう。
〔 年末あたりから、美里の声が元気ない気がする。仕事で何かあったのかも 〕
年末………
わたしには、大きな心当たりがあった。
仕事を辞めるきっかけになった出来事が、その頃に起こったからだ。
去年、クリスマス前のきらびやかな街並みの中、心が握りつぶされそうに感じた光景を、思い出してしまいそうになる―――――――――――――
わたしが悪夢に抱きしめられていると、背後から明るい声が届いた。
「そんなところで突っ立って、どうしたの?」
ハッとして、振り返る。
「お母さん……」
そこには、病院に出かける準備を終え、不思議そうにわたしを見ている母がいた。
「えっと……」
咄嗟に言葉が出てこなかったわたしとは真逆に、母は目ざとく手帳を見つけると声をあげた。
「あら、それ!どこにあったの?」
母のおかげで一気に明るい空気になる。
「平台の下に落ちてたんだけど……」
「平台?ああ、じゃあこの前鞄を落としたときに出ちゃったのかしらねぇ」
「じゃあ、これ、やっぱりお母さんのだったの?」
わたしは手帳を母に手渡しながら訊いた。
「やっぱりって、もしかして中読んだの?」
いたずらっぽく言ってくる母。
わたしは少々バツが悪く感じ、
「だって中見な誰のんか分からんやん」
関西弁で、ぶっきらぼうな言い方になってしまった。
すると、なぜだか母は機嫌がよくなる。
「ふふ。美里の関西弁、久しぶりに聞いた。べつに中を読まれても全然構わないんだけどね」
「なによ。だったら最初から言わないでよ」
「まあまあ。そんなに怒ると美人が台無しよ?」
どこまでも楽しげに返してくる母だった。
わたしは、母の日記めいたものを読んでしまって申し訳ないと思ったけれど、同時に、そこに記されていたわたしに対する想いを知って、妙な気恥ずかしさも湧いてくる。
「……べつに、ちゃんと読んだわけじゃないから、何書いてたかなんてもう覚えてないけど」
照れ隠しも手伝って、さらにぶっきらぼうに言うと、母はまた笑った。
「なによ?」
「いや、自分のことが書かれてたから、照れてるのかな?と思って」
「べつにそんなんじゃ……」
わたしは母から気持ちを隠すように後ろ向きながら反論したけれど、背後では、「でもね、」と、母の声が急に真剣味を帯びたものに変わった。
「どこのページを読んだのかは知らないけど、そこに書いてあるのはお母さんの本当の気持ちよ。だってあんた、今年になってから日に日に元気をなくしていったんだもの」
母の指摘に、わたしは「そんなこと……」と、頼りなく言い返すだけだった。
「そんなことあったわよ。何年あんたの母親やってると思ってるの?電話の声でもそれくらい分かるわよ。特に去年の年末から違和感はあったけど、ゴールデンウィークが過ぎて夏が来ても全然回復しないから、夏休みシーズンが終わったら私東京に行って様子見てくるつもりだったのよ?でもその前に…8月の終わりよね、あんたが『仕事辞めることにした』って言ってきたから、ああ、それならこっちに戻ってくるまでは何も訊かないでおこう……て思ったの」
母の打ち明け話に、心が揺さぶられる。
窺うように母の方を見ると、目が合った。
その途端、優しく笑いかけてくる母。
「美里が話すつもりないのなら、何があったかは訊かないわ。ただ、話したくなったらいつでも聞くから。ここは、あんたの ”実家” なんだからね」
母はそう言うと、わたしの返事は聞かずに、「じゃ、行ってくるわねー」といつものように明るく、病院に出かけてしまったのだった。
店にひとりになったわたしは、間もなく開店時間になろうとしているのに、そこに突っ立ったままでいた。
母に心配かけていたこと、そして、黙って見守られていたことが、思いの外胸をあたたかくさせるのだ。
けれど、気の早い観光客はもうやって来て、「開いてますか?」なんて訊いてくる。
わたしは急いで接客用の顔をこしらえると、
「いらっしゃいませ。大丈夫ですよ」
と応対した。
そしてレジの準備がまだだったことを思い出し、慌てて鍵を開ける。
けれどふと、後ろの自宅スペースに続く上がり框が目に入ると、誰もいないのに、無意識のうちにこぼれていた。
「ありがとうね」と。
その日、正午頃に帰宅した母が通院で疲れた様子だったので、わたしは夕方の店じまいまで店番することにした。
修学旅行生が増えてきたけれど、だいたい4時も過ぎれば賑わいも落ち着いてくる。
わたしはそれを見計らって、また財布を探しはじめた。
……今朝はこっちの台を動かしてお母さんの手帳が見つかったから、今度は反対の台を動かしてみようかな。
軽い気持ちでそう決めたわたしは、左側の平台をズズズ、と床を擦るようにして動かした。
そして、台と台の隙間からその下を覗いたとき――――――――
母の手帳があったのとちょうど対面する位置に、それはあった。
「あ――――っ!」
思わず大声が出てしまう。
だって、ずっと探しても見つからなかった財布が、普通に、そこにあったのだから。
いや、でも、まだあの男の子のものと決まったわけじゃない。
もしかしたら今日誰かが落とした物かもしれないし……
わたしは気持ちに慎重さを加えながら、そっと財布を拾った。
二つ折りでファスナーで閉じられたそれを開き、中を確認する。
すると、2か所ある札入れの片方に7000円が。
そして、もう片方には、カラフルなキャラクターの描かれたカードが入っていたのだった。
これは、おそらくあの子の財布だろう。
そう思ったけれど、より確実を求めるため、わたしは小銭入れも開いた。
すると、小銭に混ざって、小さな御札のような御守りが入っていたのだ。
これはもう、間違いない。
わたしは財布を閉じると、壁に掛かってる時計を見上げた。
5時半……
今から店を閉めても、まだ学校が開いてる時間よね。
頭でざっと計算したわたしは、まだちょっと早いけれど、店じまいに取りかかったのだった。