【番外編】それぞれの交差点(3)
約束の場所は、わたし達がはじめて待ち合わせをしたところだった。
途中、先輩がわたしに絵のことを打ち明けた並木通りがあったけれど、もう微塵も心がざわつかなかった。
クリスマスの賑わいを横目に、わたしは足をはやめてみる。
はやく、神楽さんにこのことを話したい。
先輩と普通に話せましたよって。
ポスターのことを喜んでくれましたよって。
あの言葉を、先輩にも伝えましたよって。
とにかく、はやく恋人に会いたくなったのだ。
地下におりて人波の間を急ぎ足で進んでいくと、馴染みのオブジェが見えてきた。
神楽さんとの距離が一気に縮まった気がして、わたしは一層に速度を増していた。
すると、
「美里!」
すっかり耳に記憶された声が、わたしの名前を呼んだのだった。
いつもの柱にもたれかかるようにして、神楽さんがわたしに笑顔を向けていた。
それがほんの少しだけ、ホッとしたような印象がしたのは気のせいだろうか。
大好きな恋人は、上品な質感のスタンドカラーコートとチャコールグレーのスーツ姿だった。
ネクタイは、先月の誕生日にわたしが贈ったものだ。
同じ学校で働きだしてからというもの、スーツを着た神楽さんと会う機会も増えたのだけど、やっぱり小学校教諭という仕事柄、動きやすいカジュアルな格好の方が圧倒的に多くて、スーツには未だにドキリとしてしまう。
神楽さんはもたれていた体を起こすと、
「返信がなかったから、大丈夫かなって心配してたんだ」
笑いながら、握ったスマホを見せた。
付き合いだしてからいっさい隠さなくなった ”過保護” が、今日も全開だ。
わたしはそんな神楽さんに、今すぐ抱きつきたくなったけれど、公共の場所、しかも有名待ち合わせスポットでそんなことができるほど大胆にはなれなかった。
「心配おかけして、すみません」
その一言の中に、抱きつきたいほどの気持ちを込めたつもりだった。
神楽さんはにっこり微笑んで「大丈夫だよ」と返してくれた。
子供相手の仕事がぴったりな、優しい雰囲気は相変わらずだけど、そこに甘さが加わって、その甘さが日毎に増えてきているのは、自惚れではないと思う。
「新幹線の時間までまだ余裕あるから大丈夫。あ、何か飲み物でも買っておこうか?」
温かい方がいい?
気遣って訊いてくれる神楽さん。
「そうですね、どこかで……」
とりあえず改札を目指し歩きだしたわたし達だったけど、ちょうどそのとき、はじめて会った日に入ったカフェの前を通りかかった。
どちらからともなく、目を合わせるわたし達。
「…ここで買っていく?」
「そうしましょうか」
テイクアウトもできるこの店に寄ることにしたのだった。
神楽さんと一緒に来た思い出のカフェだけど、先輩と再会した場所でもあったから、神楽さんはほんの僅かばかり、わたしの様子をうかがうような態度をした。
それに気付いたわたしは、彼を安心させるために、注文が出来上がるまでの間に、今さっき先輩と出会って話せたことを簡単に報告した。
「そうか……」
神楽さんはそう呟いたあと、何かを話しかけたけれど、タイミングよく注文商品を渡されたので、わたし達の会話は一時中断を余儀なくされた。
神楽さんはアイスカフェラテ、わたしはホットミルクを受け取り、店を後にした。
ホットミルクは熱々で、わたしは用心して持たなければならなかった。
すると神楽さんがわたしのホットミルクを優しく取り上げてくれて、代わりに、わたしは神楽さんの手に掛かっていたお土産袋を持つことにした。
そして歩きながら、神楽さんが口を開いた。
「平気、なんだね?」
それは確認のようで、微かな緊張感も孕んでいるようだった。
「大丈夫ですよ。なんだか、完全に吹っ切れたというか……今日先輩と会えたのは、いい機会だったと思います」
心が晴れやかだった。
神楽さんと出会ったときどしゃ降りだったものが、神楽さんのおかげで雨がやんで雲が薄くなってきて、その切れ間から陽が見えていたところに、先輩と話せたことで一気に雲の目隠しが外されたのだ。
わたしは解放感を味わいながら、隣の神楽さんに笑いかけた。
神楽さんは緊張感がとけたように目を細めて、
「だったら、そこが、美里とその先輩の交差点だったんだ」
そう告げた。
「交差点……」
わたしと神楽さんの人生が交差していたのは、わたしの実家でもある土産物屋まほろばだったけれど、先輩とも交差しているとは、考えたこともなかった。
神楽さんはゆるめた表情のまま、わたしのホットミルクをひょい、と持ち上げる。
「例えばこの店も、俺と美里にとったら交差点だったのかもしれない。あのときその先輩もいたから、3人の人生が交差していたのかも。……そうやって、みんなそれぞれの交差点があるんだと思うよ?だけどそれは、ほんの少しズレただけでも交差しなくなってしまう繊細なものだとも思う。同じ街で暮らしていても一生会わない人だっているんだから。だけど、美里とその人はちゃんと、今日、交差した。二人にとって今日は必要な交差点だったんだよ」
よかったね。
恋人ならではの身内感に満ちて、神楽さんまで嬉しそうだった。
「そうですね……、色々ありましたけど、わたしと先輩は、お互いの人生に関わりが必要な相手だったのかもしれませんね」
わたしと神楽さんのように。
それを縁というのか、運命と呼ぶのかは分からないけれど、確かに、わたしと先輩の歩んでいた道は交わったのだから。
わたしが深く心に刻み、何度も頷いていると、隣から神楽さんが笑いながら溜め息を吐くのが聞こえた。
見上げると、それは、苦笑のようにも感じた。
「……なんですか?」
「いや、本当によかったとは思うんだけど、美里と先輩の話はとりあえずこの辺りで終わらせないかなぁ…と思って」
「え?」
「だってさ、これからどこ行くか、分かってる?」
「えっと、奈良…ですけど」
「奈良の、どこ?」
「わたしの実家、です」
今日東京駅で待ち合わせしたのは、わたしの絵が採用されるポスターの打ち合わせの為に奈良に行くからだけど、実はそれだけではなかったのだ。
神楽さんは、はぁ…と、また息をこぼした。
「何のために、ご実家に行くの?」
「それは……」
「同棲の許しをいただきに行くんだろ?」
やや鋭い指摘に、わたしは「あ…」と言葉を切った。
そうなのだ。ポスターの打ち合わせがあるのは間違いないけれど、1泊2日の間、同じくらい重きのあるイベントが待っているのだった。
神楽さんは前に何度も奈良に来てくれていたから、わたしの両親ともすっかり打ち解けている。にもかかわらず、同棲の話が具体的になると、直接会って許しをもらいたいと言ってひかなかった。
前々から神楽さんに同棲を持ちかけられていたけれど、わたしがコンクールで入賞したのを機に、より積極的に話題に出されるようになっていって……
神楽さんが言うには、今後は教師の仕事と作品制作に忙しくなるだろうから、少しでも長く一緒にいるためには同棲すべきなのらしい。
お互いの職場である学校側も特に問題はないそうで、二人で住むマンションを探す手伝いをしてくれる先生方もいらっしゃったほどだ。
まだ契約は済ましていないけれど、どうやら、学校から数駅の立地に建設中の新築分譲マンションに決まりそうだった。
賃貸ではなく分譲ということで周囲にもバレバレだったけれど、わたし達は、内々に、結婚を見据えている。
はっきりしたプロポーズはまだだったものの、神楽さんからは常に結婚を意識したセリフを聞かされていたし、わたしも、『結婚してもたまには二人で夜更かしデートしたいな』とか、”結婚ありき” の会話を楽しんでいたりした。
お互いの両親も、わたし達の雰囲気からなんとなく察しているようで、だから、今更同棲どころで慌てたりはしないと思うのだけど。
わたしが持っているのは、神楽さんが用意してくれた両親へのお土産で、二人、特に母のお気に入りの焼き菓子だ。
『東京にしか売ってないのよねぇ』と呟いた母に、『じゃあ、次に伺うときにお持ちしますね』と、神楽さんが気を使ってくれたもので。
そんなことからも、神楽さんとわたしの両親の関係は友好中の友好なんだから、同棲の許可だって電話で間に合うはずだ。
もし顔を合わせて挨拶する必要があるとすれば、それは結婚が具体的に決まったときじゃないのかな……
そんなことを思っていると、神楽さんはコホン、と軽い咳払いをした。
「とにかく、美里にとって重要な人であるのは分かってるんだけど、俺以外の男の話はそろそろ終わりにしてくれない?」
「え…」
神楽さんのその言い方だと、まるで……
わたしが神楽さんの横顔を見つめたとき、隣からは、ちょっと照れたように、ぶっきらぼうな声が降ってきた。
「そうだよ。ヤキモチだよ。彼女が他の男の話をするのが面白くないんだよ。狭量な男でごめんね」
そう言った神楽さんがあまりにも可愛らしくて、わたしは、心の芯までもがポカポカになったようだった。
そして無性に大好きな恋人と手を繋ぎたくなって、彼が持っているホットミルクをパッと取った。それはさっきよりは少しだけ冷めていて、片手でも持てるほどだった。
わたしは反対の手で、神楽さんの手に触れた。
ホットミルクを持っていてくれた手はあたたかくて、気持ちいい。
めったにしない、わたしからのアプローチに、神楽さんは一瞬驚いたように目を開いたけれど、やがて目尻にシワができるほどに、くしゃり、と笑った。
それはそれは幸せな笑顔だった。
目を合わせて、わたしも微笑んだ。
今こうして、わたし達の人生が交わっていることに感謝しながら。
「全然狭量なんかじゃありませんよ。すごく、嬉しいです」
こんなヤキモチなら、大歓迎だもの。
わたしが繋いだ手をぎゅっと強めると、神楽さんも大きく握り返してくれる。
そんな些細なことにだって、気持ちが交じり合っていると感じるのだ。
神楽さんは笑顔の密度を増して、
「じゃあ、今日のこれからのことを相談しようか」
わたしに問いかけた。
「そうですね」
わたしも素直に返事して、奈良に着いてからの予定を詰めていくことにしたのだった。
それはある程度事前に話し合って決めていたことで、特に変更する点もなかった。
―――――だからかもしれない。
今日このあと、わたしの実家でもある土産物まほろばで、彼からプロポーズを受けることなど、
この時のわたしには、
ちっとも予想できなかったのだ――――――
大好きな恋人からのプロポーズ。
嬉しくて、感激して、涙が我慢できなかったのは言うまでもない。
どんなプロポーズだったのかは、またいつか機会があればお話しすることにして……
でもひとつだけ、プロポーズに頷いたわたしが思っていたことは、
……ああ、わたしは、この人に三度も人生を変えてもらったんだな。
まほろば交差店で――――
【番外編】それぞれの交差点(完)