【番外編】それぞれの交差点(2)
きっと、神楽さんが待ち合わせ場所に着いたというメールだと思う。
先輩のことだから、わたしがこんなタイミングでスマホを確認したとしても、いくらでも待ってくれるだろう。
けれど今の今ばかりは、神楽さんよりも先輩との会話の方を優先させたかった。
「あの、だから……」
話の続きをと口を開いたわたしだったけど、今度は、先輩自身がそれを止めた。
「俺、今浪人中なんだ」
「え?」
「事務所を辞めてから、いくつか美大を受けたんだ。惨敗だったけどな。で、せっかく浪人して再チャレンジするなら、最高峰の、芦原の母校を目指してみようと思って、今予備校に通ってる。なかなか難しそうだけど、やれるだけはやってみるつもりだ。……でも、自分がその立場になったからよく分かるけど、あんなとこにストレートで入るなんて、それだけで芦原はすごいと本気で思ったよ」
「……たまたま受かっただけですよ」
「それでも、俺からしたら尊敬に値するよ。俺は、運よくデザインの仕事に就けたけど、周りは有名美大出身ばかりで、無意識にコンプレックスを持ってたんだ。だから事務所を辞めたとき、大学受験することを考えた」
「でも業界の就活は出身校で足切りされることが多いのに、そんな中で対等にやってらしたのはすごいと思います」
お世辞ではなく、本心でそう言った。
だってわたしの中には、みんなから頼られて仕事ができる先輩の記憶しかないから。
先輩は「ありがとう」と、顔つきを和らげた。
「………でもコンプレックスは自分で乗り越えるべきだった。事務所を辞めたことが、皮肉にもそのきっかけになってくれたんだ。だけど、俺がしでかしたことは、今でも悔いてる。だから……、芦原は優しいから俺のことを許してくれるかもしれないけど、俺は、俺がしたことは、人として許されないことだったと思ってる。一生、忘れちゃいけない罪なんだ」
まっすぐに自らの過去を責める先輩に、わたしは何て声をかければいいのだろう。
痛々しいほどに綴られた彼の言葉は、もう謝罪という範疇を飛び出しているように思えた。
信号は、何度目かの赤に変わっていた。
”もう気にしないでください”
というセリフにも赤信号がともってしまい、わたしは、湿度を増した雰囲気を壊す糸口を探した。
そしてふと、あの手紙のことを思い出したのだった。
「未来へ――――」
「ん?」
「……未来への入口は、今日、なんです」
「未来の入口?」
「はい。……わたしが事務所を辞めてから奈良に戻ってるときに、ある人から言われたんです。今日の、今の行動ひとつが、未来を変えるんだって。だから過去のどんな出来事も、それがなかったら ”今” は成り立たないんです。……あのことは、わたしも一生忘れられないと思います。でももしかしたら、わたし達の人生に必要な出来事だったのかもしれませんよ。過去を引きずるんじゃなくて、過去も一緒に、未来に連れて行くんです」
今ここに神楽さんはいないのに、わたしの言葉の中には確かに彼の存在を感じた。
”もう気にしないでください” の代わりになるものが、ちゃんと伝わっただろうか。
先輩は少し黙って、わたしを見つめてくる。
「………芦原、変わったな」
穏やかに言った先輩に、なんだか出会った頃の面影が重なった気がした。
わたしは自然と笑顔がこぼれて、
「変えてくれた人がいるんです」
胸を張って、そう答えた。
すると先輩はちょっと驚いた反応を見せた。
けれどその目は、柔らかく、わたしを映してくれる。
「もしかしてさっきから連絡が来てるのは、その人からか?」
「…だと、思います」
「待ち合わせ?」
「はい、東京駅で」
「そっか、じゃあ早く行かなきゃな」
時間とらせて悪かったな。
先輩はそう言うと、わたしに行くように急かした。
わたしはわずかに迷ったけれど、待たせている恋人に気持ちを向けることにした。
「それじゃ、失礼します。お会いできてよかったです」
「こちらこそ。気をつけて行けよ」
先輩も笑って返してくれたけれど、
「あ、芦原!」
すぐにわたしを呼び止めた。
「どうかしましたか?」
素直に足を止めたわたしに、先輩は手を振りながら言った。
「ポスター、楽しみにしてるよ」
「あ……、ありがとうございます」
先輩のセリフは単なる社交辞令ではないように思えたから、わたしは感じたままに礼を口にした。
でもだからこそ、ちょっと気になってしまったのだ。
「あの、でも、せっかく奈良まで行ってもらっても、どのポスターがわたしの描いたものか分からないですよね……」
商業施設の名前を伝えたところで、そこが広告に出してるポスターだって何種類もあるだろうから。
わたしは詳細を説明しなくてはと思った。
ところが、先輩はハッと声にして笑ったのだ。
まるで、”なに言ってるんだ?” とでもいうように。
「芦原の描いた作品ならすぐに分かるよ。インターンのとき、はじめてスケッチを見せてもらってから、芦原は、俺の憧れなんだから」
朗らかに告げて、先輩はじゃあなと、また手を振った。
……憧れ?先輩が、わたしを?
告げられたことの衝撃が強くて、わたしは頭の中と足下がフラフラとしてしまう。
にわかには信じられなくて。だけどこんな時に先輩が嘘や冗談を言うはずもなくて。
でも……だったら、わたしも先輩に伝えたかった。
もう会うことがないかもしれない先輩に。
入社してからお世話になったお礼とか、感謝とか、そんなことではなくて、ただ単純に。
「日比谷さん!」
今度はわたしが呼び止めた。
先輩は「うん?」と振り返って。
「わたしも…、わたしも憧れてました。日比谷さんに」
はっきり、ますぐに告げると、先輩は満面の笑顔になって、
「ありがとな」
本当に嬉しそうに返してくれたのだった。
ずっと憧れていた人にそれを伝えられて、心に沈んでいた重たいものが昇華していく気がしていた。
一緒に連れて行く ”過去” が、より軽やかになってくれて、それは、もう、わたしの未来を翳らせるものではなくなったのだ。
短い立ち話だったけれど、ここが、わたしと先輩の交わる地点だったのだと、満たされた想いに胸が熱くなった。
わたしは、先輩の後ろ姿が見えなくなる前に、クリスマスのキラキラした街を小走りに駆け出していた。
神楽さんとの待ち合わせ場所に、急ぐために。




