5000円の信頼
毎年春と秋は修学旅行の季節で、特に10月は小中学校の修学旅行生が多い。
それゆえ、この土産物まほろばもその時季には稼ぎ時になるのだが、小さな店は店番が一人でもじゅうぶん間に合うほどだった。
時折、揃いの制服姿の修学旅行生がやって来ては銘菓や地域限定のキャラクターものを買い求めていく。
小学生は、小さな財布から残金を数えるようにして会計し、中学生はウケ狙いの土産物をはやし立てながら話のネタにと購入したりした。
楽しそうな彼らの姿を見ていると、あの頃はたいした悩みもなくてよかったな……なんて、老け込んだ考えが横切る。
……わたしだってまだ23歳だけど。
それでも、修学旅行でテンションが上がっている子供達を眺めていると、羨ましくなってしまうのは否定できなかった。
久しぶりの接客も問題なく順調にこなしていたのだが、母が病院に出かけて一時間ほど経った頃だろうか、店先で小学生の男の子のグループがなにやら騒がしい声をあげたのだった。
「やばい、ないんだけど」
「そんなわけないじゃん。もっとよく見ろよ」
「ないものはないんだって!」
その子達の声に、店にいた他の客からも視線が集まる。
わたしは誰もお会計に来る気配がないことを確認してから、
「どうしたの?」
店の前でしゃがみこんでいる男の子達に声をかけた。
みんな同じ制服に同じ帽子を着用していて、修学旅行にしては珍しく、バッグも靴も揃いのものだった。
その恰好から、おそらく私立校だろう。
「財布をこの下に落としたみたいなんです」
ひとりの男の子がわたしを見上げながらお行儀よく答えた。
男の子が指差したのは、商品が並べられている平台の下だった。
「財布を?それは大変。手が届きそう?」
わたしはしゃがんで台の下を一生懸命探している男の子に尋ねたが、その子は焦りまくった顔で振り向くと、
「財布がない……」
助けを求めるように言ってきた。
「財布がないの?でも、台の下に落としたんでしょう?」
焦りから男の子がパニックになっているのかと思い、わたしは諭すようにゆっくり訊いた。
男の子はしゃがんだまま頷く。
「さっき、鞄から出そうとしたら落ちて、間違って蹴っちゃって………」
「それでこの下に?じゃあ大丈夫よ。ちゃんと探したらきっと見つかるわ。わたしも一緒に探すから。ね?」
焦りを越えて今にも泣き出しそうな男の子に、わたしはなるべく優しく笑いかけた。
男の子はちょっと安心したように「ありがとうございます」と言った。
けれど――――――――――――――――
どこにも、財布は落ちてなかったのだ。
小さな店で、平台だってたいした大きさではない。
なのに、台の下のどこを探しても、男の子の財布は見当たらなかった。
途中何度か他の客の会計をするためにその場から離れたけれど、平台をずらしてみたり、懐中電灯で照らしてみたり、できるだけのことはしてみたのに、それでも財布を見つけることはできなかったのだ。
男の子はどんどんしょげていく。
無理もない、修学旅行中に財布をなくすなんて、相当へこむだろう。
最初は一緒に財布を探していた友達も、「どうする?」「時間が…」なんて顔を見合せたりして、それが財布を落とした男の子をさらに焦らせる。
修学旅行の自由時間なんて限られたものだし、友達のそんな態度も仕方ない。
けれど、一生懸命に自分の財布を探す男の子がかわいそうに思えてきて……
わたしはちょっと考えて、「よし!」と手を叩いた。
そして、
「落とした財布にはいくらくらい入っていたの?」
いまだしゃがんだままの男の子に尋ねた。
「え?」
「見つからないみたいだから、ここはわたしがお金を貸してあげる。じゃないと、お友達もここから動けなくて困っちゃうでしょう?集合時間にも間に合わなくなるかもしれないし」
「でも……」
子供ながらにも遠慮を見せてくる男の子。
その様子は、きちんと躾された子供という印象を受けた。
確かに、財布を落としたのでお金を貸してください、と言ってくる同情心を利用した詐欺もあるけれど、この男の子に限ってはあり得ないだろう。
「いいからいいから。ほら、早くしないとせっかくの修学旅行が台無しになっちゃうわよ?ね?お財布にはいくら入ってたの?」
言いながら、私は店の奥に置いてあった自分のバッグから財布を取り出した。
すると、男の子が小さな声で
「………5000円、くらい……」
と答えた。
「5000円ね?」
小学生のお小遣いにしては大きい額だなと感じたけど、私立小学校に通ってる子なら普通なのかもしれない。
わたしは財布から五千円札を抜くと、男の子に渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
男の子はパアッと、雲が晴れたような笑顔になった。
「あ、後で探しておくから、どんな財布か教えてくれる?さすがに財布に名前は書いてないだろうから、中に入ってるものとか」
私が問うと、男の子は五千円札を握りながら、思い出すように視線を宙に浮かせて・・・
「ええと……あ!カード!ゲームのカードが入ってる」
「ゲームのカードと、他には?名前が分かるものとかは入ってない?」
「あとは…」
男の子が答えに詰まると、友達のひとりが声をかけた。
「なぁ、定期は?」
けれど男の子はすぐに顔を横に振った。
「定期はカード入れに入れてるから……あ、御守り!お祖母ちゃんからもらった御守りが入ってたはず」
「御守りね。分かったわ。じゃあ、見つかったら連絡するから、名前と連絡先……学校名でいいから、教えてくれる?」
いくら小学生でも、初対面の人間に自宅を教えるのは気が引けるだろうと思ったわたしは、そう言いながらメモとペンを差し出した。
すると男の子は、スラスラと書き出した。
そこには、東京にある、小学校から大学まで併設された有名な学校名が記されていた。
何人か、そこの大学出身者と仕事したことがあるが、みんな品のある人だった。
わたしはメモを受け取ると、
「見つかったらすぐに連絡するから、待っててね」
男の子を安心させるように微笑んだのだった。
わたしが渡した五千円札を大事そうにしながら、男の子は何度も「ありがとうございました」と言って、待っていた友達のもとへ駆けていった。
わたしは、いいことをしたな、という充足感にひとりで満足していたけれど、
去り際、男の子が、
「財布落としたって、信じてくれてありがとう」
なんて、満面の笑顔で言うものだから、
ちょっとだけ、胸が苦しくなった。
男の子達の姿を見送りながら、わたしは知らず、両手を握り締めていた。
信じてくれて………か。
今のわたしには、それが、ドロドロした気持ちの沼底にいざなう呪文のように聞こえてしまうのだった…………
その後は何事もなく、店しまいの時刻を迎えた。
そして、それを見計らったようなタイミングで帰宅した母は、大量の湿布を腰に貼っていた。
「……その匂い、どうにかならないの?」
夕食中、たまらずクレームをこぼしたわたしに、母はケラケラ笑う。
「鼻をつまんで食べればいいじゃない」
「あのねぇ……」
基本的に、明るい、朗らか、楽天的、そんな母は、”数年ぶり” という親子のブランクをあっさりと越えてくる。
母のそういう性格のおかげで、わたしも遠慮せずに接することができているのだけど、食事時のこの湿布の匂いはほとんど公害だ。
わたしは匂いから気をそらすために話題を変えることにした。
「そういえばね、今日店番してるとき、小学生がお財布を落として困ってたのよ」
「修学旅行生?」
母がお茶をいれながら訊いた。
「うん、そう。で、一緒に探したけど見つからなかったから、名前と学校名だけ聞いて、わたしが立て替えてあげたの」
「あら、いいことしたじゃない。修学旅行生はよく落とし物するのよねぇ」
「そうなの?」
「旅行で浮かれてるせいかもしれないけど、昔っからよくあるのよ。最後の千円札落としたーって泣き出しちゃった子もいたわね。あのときはちょうどその子の先生が通りかかって、ちょっとした騒ぎになったのよ。それよりあんた、どうせしばらく暇なんでしょ?だったら、店番しばらく続けてくれない?わたし、しばらく通院することになりそうだし、いい機会だからちょっとゆっくりしたいのよね」
お茶を飲み干すと、にこにこ顔で言ってくる。
「どうせ暇って……まあまあ酷い言われようね」
苦々しげに答えたわたしに、母は「あらそう?」なんてとぼけた顔をする。
けれど本当は、わたしもわかっていた。
母の言動は、大学卒業後仕事を一年半で辞めてきた娘を気遣ってくれてのことだろうと。
急いで職探しをしなくても、少しゆっくりしたらいい……
母のそんなメッセージが聞こえてくるようだった。
そして、どうせ就職活動をする気にもなれなかったわたしは、母の頼みを了承したのだった。
食事が終わって2階の自分の部屋に入ると、わたしが東京から送った段ボール箱が壁沿いに積まれていた。
わたしはそれを眺めながら、ため息をこぼさずにはいられなかった。
そのひとつひとつを開封するのは気が滅入りそうだなと思ったからだ。
けれど、その段ボール箱の群れの隣にある本棚が視界に入り、その見慣れた風景に、心が捕まってしまう。
何冊ものスケッチブックが、わたしが部屋を出たままの状態で並べられていたのだ。
まるで引き寄せられるように、わたしはその中の一冊に触れていた。
表紙を撫でて、はらりと捲る。
そこには、何気ない日常のスケッチが綴られていたかと思えば、人物のデッサンだったり、どこか外国っぽい街並みの風景だったり、さまざまな絵が四角い世界に残されていた。
そのひとつずつを覚えているわけではないけど、実家にいた頃のわたしはとにかく描くことが好きで、一分でも手が空くと鉛筆を握っていた記憶がある。
ここにあるのは、そんな私の過去の忘れ物達だ。
本当に、描くのが大好きだったのに…………
だった…と、過去形にしてしまうのは、わたしの今の本心なのだろうか。
自分のことなのに、自分では分からない。
描くことが大好きだったわたしは、今、ここにはいないのだろうか。
スケッチブックをなぞりながら自分の気持ちを探っても、明快な答えは出てこなかった。
だって―――――――――――――――
『お前本当に描くのが好きなんだな。でもセンスあるよ。うちに来たら?』
もう、二度とは会うことのない人のセリフが、胸の傷痕をいまだに抉ろうとするのだから…………