新しい日常
ジリジリと、窓越しにも攻撃してくるようになった陽射しに、わたしは目を細めた。
まだ梅雨は明けてないけれど、もう夏の入口だ。
冷房が効いてるおかげで快適ではあるけれど、この眩しさはどうにもならない。
わたしはカーテンを閉めようと席を立った。
すると、ちょうど通りかかった人影がわたしを見つけて近寄ってきた。
「美里ちゃん!」
そのうち一人がわたしに手を振ってくる。
「なんか久しぶりな感じ?」
もう一人も朗らかに声をかけてくれる。
「久しぶりかな?試験期間だからね。二人ともお疲れさま。試験はどうだった?」
「だめだったー」
「もう試験のことは忘れる」
「そうなの?二人ともちゃんと勉強してたのに」
「だめ!範囲広すぎ」
「それより試験終わったから、またそこに遊びに行ってもいい?」
「いいわよ。たまにいない時もあるけど・・・」
「あ!デートだ!」
「初等部の巧先生と?」
”巧先生” の名前に、わたしは一瞬だけと頬が熱くなってしまう。
けれど平静を心がけて、
「仕事中にデートなんてするわけないでしょう?」
彼女達に呆れた風に返事した。
「でもときどき巧先生こっちに来てるんでしょ?見た子がいるもん」
「わたしずっと巧先生のクラスだったから、ママも巧先生の彼女ってどんな人?って訊いてくるよ」
この類の話題は、年頃の彼女達には大好物なのだろう。
わたしは深まる前に切り上げることにした。
「はいはい。プライベートなことはナイショです」
「えー。いいじゃん。わたし達彼氏いないんだから、ちょっとくらい恋愛の話聞きたい!」
「そうだよね。みんなの人気者だった巧先生の彼女なんだから」
「ナイショです」
可愛らしく文句を言ってくる二人に、わたしは人差し指を唇に当てて秘密を貫く。
すると、二人は「ずるーい」なんてクレームをあげながらも、徐々に引き下がってくれた。
「しょうがないな。じゃあ、また美里ちゃんの絵を見せてよ」
「めちゃくちゃ上手いんでしょ?わたしも見たい!」
無邪気にねだってくる彼女達は、素直にそう思ってくれているのだろうけど、わたしはわずかに気持ちが重たくなってしまった。
「言い過ぎよ。わたしのは、ほとんど趣味の範疇だから」
「そんなことないと思うけどなあ」
「じゃ、絵はいいから巧先生との出会いとか聞かせてよ」
「いつかね。それじゃ帰り気をつけて。あ、あと、”美里先生” ね。わたしは構わないけど、前に他の先生に叱られてたでしょう?」
ね?と、窓を挟んで二人の顔をのぞきこむ。
二人は「はーい」と口を揃えて、
「美里先生、さようならー」
大きめに手を振って帰っていった。
夏服のスカートを揺らしながら遠ざかる生徒達に、わたしは、自分が ”先生” と呼ばれることにも慣れてきたのを実感していた。
神楽さんが奈良まで来てくれて、手紙のことを知り、気持ちを打ち明けてから、わたし達の関係は大きく変わっていた。
まず、恋人として付き合いがはじまって、電話やメッセージ交換はほぼ毎日。
東京と大阪の遠距離なので会えるのは月に2、3度だったのだけど、今年の2月、思いがけない展開になったのだ。
『うちの高等部で美術教師を探してるんだけど、美里を推薦してもいい?』
平日のお昼過ぎ、いつもなら絶対にかかってこない電話に慌てたわたしは、
まったく予想してなかった誘いに、暫し言葉を失ったのだった。
そして、はじめは遠慮しようと思っていたけれど、母からの強烈なプッシュにより、わたしはこの春から高校教師としてリスタートしたのである。
再びの東京住まい。
もちろん、以前暮らしていた場所とは全然違うのだけど、わたしは、ひそかに ”帰ってきた” 感を噛みしめていた。
そして同時に、初心を思い返したのだ。
はじめて東京に来たときのことを。
18歳のわたしは、奈良から東京の大学に進学して、
もっと描きたい
絵の勉強をしたい
そんな気持ちに期待を高めていたはずで。
そのことを思い出して、わたしは、これからはじまる教師という仕事に、改めて向き合うことにしたのだった。
あのとき、自分の才能に自信をなくしたわたしは、将来に不安を抱えて、保険で教員免許を取得していた。
でもまさか、それが役立つなんて、あの頃は想像できなかった。
それが、今こんな風につながっているのだ。
ふと、思うことがある―――――――
もし、わたしが東京で傷付いて実家に戻らなければ、
きっと、神楽さんと出会うことはなかった。
あのとき、もし神楽さんが手紙を見つけていなかったら、
今の神楽さんは医師だったはず。
神楽さんと出会えたおかげで、わたしはまた描きはじめて、
わたしがあの日手紙を書いたから、神楽さんは今教師をしている。
それぞれの地点で、いくつもの別れ道があったんだ。
その時その時目の前にある中から選んで、迷いながらも選択した道を進んで、またたくさんの道と交差する。
そのどれが欠けても、”今” にはならないのだと――――――――
わたしは、目の前に立て掛けたキャンバスを見つめた。
趣味にしては、いささか頑張りすぎた感のある作品。
美術準備室をアトリエ代わりにしてもいいという許可を得て、4月から描きはじめたものだ。
実家にいる頃はスケッチがほとんどだったから、色を合わせる感覚とか、独特の匂いとか、筆の持ち方とか、そのぜんぶが懐かしかった。
こんなにもちゃんと描いたのは、大学以来だろう。
なんの目的もなく描きはじめたものだけど、それも、そろそろ出来上がりそうで。
「タイトル、つけなきゃ・・・・」
わたしがそう独り言をこぼしたのと、
扉をノックする音が聞こえたのは、
ほとんど同時だった。
「はい、どうぞ?」
絵から体ごと反転させると、ガラッと引き戸が開かれ、そこには、噂の ”巧先生” が立っていた。
「こんにちは、美里先生」
小学校教諭らしくジャージにポロシャツという姿で、彼はわたしをからかうようにそう呼んだ。
「こんにちは、巧先生。お疲れさまです。高等部になにかご用ですか?」
同じ敷地にあるとはいえ、初等部から高等部まではけっこうな距離だ。
しかも、今はまだ正午を過ぎたばかり。
中、高等部は期末考査中で午前のみだが、初等部は今日も通常授業のはずなのに・・・
「午後の体育に使う用具が足りなくて、高等部の倉庫に借りにきたんだよ」
「ああ、そうなんですね」
「・・・というのは今思いついた口実だけど」
「はい?」
楽しそうに、わたしの反応を面白がる神楽さん。
わたしは思わず、ちょっとだけムッとして、
「用がないなら、校内で二人きりは避けた方がいいです。さっきも生徒にわたし達のことを言われたんですから」
本当は顔を見られて嬉しいくせに、そんな憎まれ口を吐いてしまう。
けれど年上の、大人の恋人には、びくともしなかったようだ。
「ああ、もしかしてさっきの女の子たちかな?美里が一人でここにいるって教えてくれたんだ。二人とも大きくなっててびっくりしたよ」
・・・・そうだった、さっきの二人は神楽さんの教え子だった。
わたしは返す言葉を考えつつ、そっと視線をさまよわせた。
自然と行き着くのは、描きかけの絵の中だった。
すると、わたしを追って見つめてくる神楽さんが、「それ・・・」と、絵を指した。
「もしかして、春から描きはじめたっていう・・・?」
訊きながらも、神楽さんは気がはやるように大股に進んでくる。
そして絵の前に立つと、みるみる表情が花咲いた。
アトリエ代わりに準備室を使わせてもらえるようになったのは、神楽さんが進言してくれたからなのだ。
教師をしながらもぜひ描くべきだと熱心に説いた神楽さんは、当然、この絵のことも気にかけてくれていたけれど、なにかとタイミングが合わず、今まで見せることがなかった。
気恥ずかしさから、わたしがそのタイミングをわざとずらしていたところもあるのだけど、きっと神楽さんは気付いているだろう。
神楽さんがこの絵を見て、どんな感想を持つのかが気になる。
彼は絵の風景を目に焼きつけるようにして、じっと見つめ続けていた。
「あの・・・」
そんなに大きなものでもないのに、まじまじと、隅々まで見つめる神楽さんに、わたしはそっと声をかけた。
すると、おもむろにこちらに振り向いて、
「すごい!」
小さく叫んだのだ。
顔中をほころばせて、興奮ぎみに肩を抱いてくる神楽さん。
「想像以上だよ。こんなに丁寧に色を重ねて、こんなに繊細で、吸い込まれそうになるなんて・・・・」
そう感想を口にして、神楽さんはまた絵を見つめる。
そして、
「なにより・・・すごく、気持ちを込められた絵だというのが伝わってくるよ」
静かに、そう言った。
実家で描いていた落書き的なスケッチと違い、きちんとキャンバスに向き合ったとき、わたしは何をモチーフにするかを悩んだ。
今までは学生時代を含め、なんらかのテーマや課題を決められていることが多く、ここまでフリーな状態で筆をとるのは本当に久し振りのことだったから。
そして、あまりにも決められなかったわたしは、一旦、なにも考えずにキャンバスの前に座ることにした。
まだなにも描かれていないまっさらなキャンバスは、”わたし” 次第でどうにでも変わってしまう。
それはまるで、未来を前に佇んでいる ”わたし” のようだ。
キャンバスに描くなんて、今まで幾度も繰り返した作業なのに、今回は、なぜだかそこに責任のようなものを感じた。
気後れにも似た感覚が芽生え、手が、進まない。
わたしは、一度、深く息を吸いながら、目を閉じた。
頭に浮かんでくるのは、神楽さんのことだった。
神楽さんとはじめて電話で話したこと
東京駅での待ち合わせ
神楽さんの車に乗せてもらって、はじめてのドライブ
そこで教えられた大切な言葉
実家の店で旧千円札を拾ったこと
大阪で会ったこと
店で起こった不思議な現象
わたしが急いで書いた手紙
そして、小学生の神楽さんがそれを拾ったこと―――――――――――
次から次から、鮮やかに浮かんでくる。
ちょっと悲しい思いもしたけれど、それすらも ”今” につながっているのだと感じて、気持ちは深まるばかりで。
すると、目を開いたとたん、まるで、意識や頭とは別のところで何かが働いたように、するすると描くことができたのだ―――――――――――
・・・・・・そして、出来上がり間近の絵が、ここにある




