手紙の行方
翌朝、日曜日。
店があるのでいつもの時間に起きたわたしは、足元から冷えが上がってくる気配の中、カーディガンを羽織り、部屋を出てすぐに手紙を確かめに行った。
何か変化があればと期待したけれど、残念ながら、手紙は、わたしが置いた角度さえ変わることなく、昨夜のままそこにとどまっていた。
「変化なしか・・・・」
肩を落としてしまうのを堪え、気を取り直してダイニングに向かった。
すると母が「おはよう」の後に突然言い放ったのだった。
「あんたが買ってきてくれたお菓子も美味しいんだけど、私はやっぱりあのホテルの方がよかったわねぇ」
今日は店番いいから、ちょっと買ってきてよ。
休日出勤の父を送り出した後、わたしのお土産をつまんでいると急に食べたくなったらしい。
まったく悪びれもなくリクエストしてくる母だった。
「はぁ?」
梅田に母お気に入りのホテルがあって、そこの焼き菓子を昔から絶賛しているのは知ってるけど、急に今日買いに行けだなんて・・・・
「ちょっと突然過ぎるでしょ」
わたしは呆れ顔全開で返したけれど、そんなものはマイペース母の前では非力だ。
「いいじゃない。どうせ店番以外に用もないし、暇なんでしょ?」
「暇って決めつけないでくれる?」
「あら、忙しそうには見えないけど?」
「まあ、忙しくはないけど・・・・」
「じゃあ、朝ごはん食べたら行ってきてね。いい?」
結局、出戻り居候の身では反抗するにも限度があり、少しの押し問答の末、わたしは今日も大阪に行くことになったのだった。
母が好きなホテルは西梅田にあって、昨日神楽さんと過ごした場所の近くにあり、こんなことなら昨日、ちょっと寄って買えばよかったなと思った。
言われた通り母の指令を完了したわたしは、まだ一日しか経っていないのに、昨日の思い出に浸りながら歩いていた。
自然と思い浮かぶのは、神楽さんのこと。
そういえば、昨夜は神楽さんからのメールがなかったな。
その代わり今朝はおはようメールが届いていたけれど。
さすがに日帰りで疲れて、家に着いてすぐ寝ちゃったのかな?
じゃあ、やっぱり昨夜こちらからメールしなくて正解だったのよね。
頭の中では、おしゃべりが止まりそうになかった。
でもそのおかげか、神楽さんがいない今日も、そこまでの感傷に覆われずにすんでいた。
・・・・本当のことを言えば、神楽さんがいなくて寂しいな・・とは思ってしまうのだけど。
昨日、大阪駅で別れた瞬間から、もう会いたくなっていたくらいだから。
だけど、神楽さんのことを思う時間がどんどん増えていって、”三度目のデート” のことを考えるのもすごく楽しみで、
そうやって、わたしの時間に神楽さんが入り込んでくるだけで胸いっぱいになるのだ。
会えないときにこんなだったら、もし毎日一緒にいるような間柄だったとしたら、心臓がいくつあっても足りないような気もする・・・・
だったら、今くらいの距離感がいいのかもしれない。
せめて、わたしがこの気持ちに慣れるまでは。
わたしは、自覚したばかりの恋心に翻弄されないようにと、なるべく俯瞰で考えようと心がけていた。
――――――――――次の瞬間までは。
横断歩道で信号待ちをしているわたしの視界に、見覚えのある後ろ姿が飛び込んできたのだ。
「・・・・神楽、さん・・・・?」
車道の向こう側、ホテルの玄関口から出てきた男の人は、神楽さんのように見えた。
・・・・どうして?昨日東京に帰ったはずじゃなかったの?
あのまま新大阪に向かったと思っていたけど、予定が変わったの?
私は予期せぬ偶然に、居ても立っても居られなくなった。
赤信号がもどかしい。
はやく、はやく神楽さんに声をかけなきゃ。
そう思い、人と人の間を縫って信号待ちの先頭に立ったけれど、神楽さんに手を振ろうとしたわたしは、その手を、中途半端なところで止めてしまったのだった。
――――――――――――神楽さんは、一人ではなかったのだ。
昨日と同じようなスーツ姿の神楽さんの隣には、小型のキャリーバッグを引く女性がいた。
明るい色の髪をゆるくアップさせて、薄手のコートを着ている。
立ち姿だけでも、大人の可愛らしさがある感じの人だ。
ドクン、と、古傷に鈍い衝撃を受けた。
まるで鈍器で殴られたような、深くまでダメージを与えるような衝撃だ。
ここにいるはずのない人が目の前に現れて、
知らない女の人と一緒にいる・・・・・
そんな光景に、デジャヴが落ちてくるようで・・・・
わたしは瞬きも忘れて、神楽さんに見入っていた。
やがて信号が青になり、わたしは流されるように進んでいったれど、気持ちは、ここから動きたくはなかった。
二人はホテルから出たところで立ち話をしていて、
このままわたしが歩いていけば間違いなく傍を通ることになる。
デジャヴが、より一層濃くなる気がした。
わたしは伏し目で、歩く速度を落とした。
横断歩道を渡りきり、徐々に神楽さんとの距離が縮まっていく。
神楽さんは隣の女性と向き合っていて、わたしには気付く素振りもない。
まさかこんな所にわたしがいるとも思わないだろうから、気付かないのも当然だろう。
顔を合わせたくない。
だけど、まったく気付かれないのもどこかショックで。
背反する気持ちのバランスを取れないまま、わたしは神楽さんと女性のすぐ傍まで来てしまった。
二人の会話が聞こえてくるほどの近さだ。
「・・・れで、いいの?」
「女にホテル代を出させるほど狭量じゃないよ」
「ふふ、ありがとう。巧のそんなところも大好きよ」
言いながら、女性は自分の腕を神楽さんの腕に絡ませた。
思わず、わたしは顔を背けた。
・・・・まさか、一緒に泊まったの?
いや、でも、同じ部屋だったとは限らないし。
でも、こんなフランクな言葉つかいの神楽さんを、わたしは知らない。
いつも小学校の先生らしい、優しい言葉で話していたもの。
わたしは二人を視界から排除し、足を速めて通り過ぎる。
「大好きよ」と言った女性に、神楽さんはなんて答えたのだろう。
――――そんなの聞きたくもない。
二人はとても親しげで、下の名前を呼び捨てにしたり、神楽さんだって腕を絡まされたことに嫌な顔もしないで・・・・
――――そんなの、わたしには何の関係もないから。
わたしは、今見た光景を頭の中から追い出そうと必死だった。
予定では、母の用を済ませたら自分の買い物もするつもりでいたけれど、そんな気分はもうどこにもなかった。
はや足のまま駅まで急いで、背後から襲ってきそうな ”疑惑” から逃げたかった。
けれどもう既に捕まってしまったのか、わたしは、どうしようもない不快感に気分が悪くなってくる。
『巧のそんなところも大好きよ』
あの女の人のセリフが耳に残って消えてくれない。
二人は、どういう関係なんだろう・・・・
『巧・・・』
神楽さんを呼ぶその声が、特別な感情を孕んでいるようにも聞こえてしまう。
わたしはどうにか気を逸らそうと両手で耳たぶを引っ張ったりしながら、駅ビルに辿り着いた。
ふと意識を向けた先に、昨日待ち合わせした水時計が見えて、無意識のうちに、足が止まっていた。
・・・・昨日は、あんなに楽しかったのに。
たった一日で、こんなにも変わってしまうなうて・・・・
今朝、神楽さんから届いたメールはなにもおかしなところはなくて、でもそれがあの女の人と一緒に泊まったホテルから送られたのだと思うと、胸が、痛い。
悲しいだとか、悔しいという気持ちよりも、ただただ苦しい。
わたしは、神楽さんとただの ”知り合い程度” でしかない。
だから、例えあの女の人と神楽さんがホテルに泊まっていたとしても、それを咎める権利なんかない。
だけど、じゃあ、生まれたてのこの恋心は、どうやって宥めたらいいのだろう。
そもそも、特別な相手がいるにも関わらず、わたしを誘ってくるなんて、神楽さんには何の意図があったの?
いや、あの人が神楽さんの彼女と決まったわけではないけれど・・・・
でも正直なところ・・・
わたしの中では、あの人が神楽さんにとってどういう相手なのかよりも、
去年のクリスマス前に植え付けられたトラウマに対する不安感の方が気がかりだった。
ここにいるはずのない人が、見ず知らずの女の人と一緒にいる――――――――
去年、わたしはその後に真実を知らされて、先輩の裏切りに傷付いた。
そして今年、またクリスマス前の時季に、同じようなシチュエーションを目の前ににして・・・・
・・・・もう、傷付きたくない。
例えあの女の人がただの友達や同僚だったとしても、
この後、もしかしたら去年みたいに傷付くような事を知ってしまうのかもしれない。
だったら、もう、何も知りたくはない・・・・
神楽さんのおかげで立ち直れたはずの心が、また、扉を閉じようとしていた。
その後、どうやって帰ってきたのかは覚えていない。
ただ、とにかく沈んだ気分だったのは間違いない。
また傷付かないように、心が全力でシャッターをおろしてしまったように、めいいっぱいの防衛と拒絶で無我夢中だったのだと思う。
駅から家までの道のりは、昨日と同じ道だとは思えないほど、風景が違って感じた。
昨日は目覚めた恋心に浮かれて、足取りも軽かったのに、今日は、地中に引っ張られるように、体全部が重たい。
・・・・こんなことなら、母の頼まれごとなんて聞くんじゃなかった。
いや、もし今日大阪に行ってなければ、神楽さんとあの女の人のことも気付けなかったわけだから、まだ今のうちに分かってよかったのかもしれない。
彼のことを、もっと好きになる前に・・・・
どんどん沈んでいく気持ちをどうすることもできないまま、実家の玄関を入った。
店がやってる時間なので自宅玄関にまわったのだが、わたしが家にあがった途端、店の方から母に声をかけられた。
「あ、美里ー?帰ったのー?」
店番中にそんな大声出したらお客さんがびっくりするのに・・・
心の中で母にそう咎めながら店に顔を出すと、お客の波が引いたところだったみたいだ。
「ただいま。はい、言われてたお菓子」
母に催促される前に、ホテルの焼き菓子を袋ごと渡す。
母は両手を出して、
「ありがとう。そうよ、これこれ。久しぶりだわ。後でゆっくりいただくわね」
満面の笑顔でそう言った。
心から嬉しそうに受け取る母に、わたしの沈んだ気分も数ミリは浮上したかもしれない。
「じゃ、わたし2階上がってるから」
今日は母の体調も良さそうだし、店番を代わる必要もないだろうと察したわたしは、自分の部屋に籠りたかった。
母も特に異はないみたいで、
「混んできたら頼むかもしれないから、起きててね」
そう言ってわたしを見送ってくれたけれど、「そうそう、」と思い出したように付け加えてきた。
「ボールペン、さっき見つかったのよ」
「ボールペン?」
わたしは戻りかけていた体を母に向ける。
「ほら、昨日話してたじゃない」
「ああ、あの・・・・」
単純に答えかけたわたしは、ハッと思い出した。
「ねぇ、他にはなかった?」
「え?他?」
「だから、ボールペン以外になにか落ちてなかった?」
今朝確かめたときには、わたしの手紙はそこにあった。
けれど、
「なあに、あんたも何か落としたの?残念だけど、ボールペン以外はなにもなかったわよ」
けらけらと笑いながら、母に言われてしまった。
「・・・嘘、なんにもないの?」
呟くや否や、わたしは平台に駆け寄っていた。
膝ついてその下に頭を突っ込み、隅々まで見回したけれど、母の言うように、
そこにはなにもなかった―――――――――――――――
「そんな、朝はあったのに・・・・」
わたしが愕然としていると、母がすぐ傍まで来て、わたしの肩をトン、と叩いた。
「そんなにがっかりするなんて、いったい何落としたのよ?」
母に訊かれて渋々頭をあげたわたしは、「・・・・べつに。たいしたものじゃないから」と答えた。
内心では、消えた手紙のことで気持ちが騒がしかったけれど・・・・
・・・・あの手紙は、いつの未来に飛ばされたのだろう。
母のボールペンは一日で出てきたけれど、わたしの手紙も、明日には戻ってくるのだろうか?
わたしは、あの手紙を早く取り戻したい気分だった。
昨日、あの手紙を置いたときは、神楽さんへの気持ちが胸にあふれていた。
そこに記した日付は、わたしが神楽さんへの恋を自覚した記念の日になるはずだった。
だけど今は―――――――――――――
その日付を見ても、辛いだけだ。
もう、誰かを信じて傷付くのは、イヤだから・・・・・
わたしは小さく頭を振って、店を後にしたのだった。
部屋に戻ったわたしは、ふと、不在着信に気が付いた。
神楽さんからだ。
・・・・どこからかけてきたのだろう。
一瞬、あの女の人が隣にいるところが浮かんでしまい、わたしは力任せに瞼をおろした。
もう、・・・・・神楽さんとは会わない方がいい。
彼の優しい話し方が、穏やかな笑い方が、脳裏にこびり付いているけれど、
今ならまだ、彼との出会いをいい思い出で終わらせるから・・・・・・




