隠居
少し丸くなったように感じた。柔和な表情は、仕事のストレスから解放されたためか。脳と身体の衰えを防ぐため毎日ジムと囲碁集会に通っているという。自己に課したルーティンから外れることなく暮らす生活振りに、明石の変わらぬ実直な性格が現れていた。退任後の工場の業績推移や近況を報告し、特に可愛がっていた部下から預かった家族の写真とメッセージカードを渡すと、明石は目元を緩めた。海外工場の立ち上げ。直接コミュニケーションをとることも不自由ななかで、他の日本人駐在員と現地スタッフを分け隔てなく厳しく指導した。褒めるべきは褒め、叱るべきは叱る、当たり前のようでなかなかできないことを、粛々ととこなした。今、古稀をこえ、頬に弛みはあるが、目力は健在だった。いかにも昭和な、着物の似合う明石の妻がお茶を淹れて部屋から出て行くと、明石は、急に、これまで見たことのない濁った表情を見せ、ちょっとお願いがあると切り出した。お願いされる面倒さよりも、不吉な予感のする空気の濁りようだった。茶封筒から取り出されたのは、契約書と身分証明書のコピーだった。現地にいたとき、水商売の女から、金を貸してほしいお願いされ、四百万円ほど貸した。明石が現地にいたころは、毎月決められた額が返済されていたが、帰国後、その返済が止まっていしまっている。メールも返信がこない。現地にいったときに、一度彼女に連絡をとり、状況を確認してほしい。もし連絡が取れない、あるいは何かしらの理由があるようであれば、きっぱり諦める。彼女とは信頼関係があり、返済がないのは、何かしらの理由があるはずだから、と。明石を見ていられず、女の身分証に目を落とした。内陸の田舎、とくに美形でもない、普通の女だった。ありきたりな詐欺事件に幻滅したというよりも、この方が、という驚きがあった。夜蝶に溺れた日本人は、みな同じ表情をする。口角に卑下た笑いを薄らと浮かべ、瞳の焦点がぼやける。依頼を承諾して、早々と話題を切り替えると、溺れた顔は消えたが、頬のたるみやシミが目に付いた。障子より差し込む陽光が暖かく、明石の鋭いアドバイスがふわふわと浮かぶ。障子に映った松の影が形を変え、時の流れを知る。明石は相応の老人になってしまった。
オットセイ主人曰く:ギャップというものが、笑いや評価をうむ。すべて含めて人間なのだ。




